旅 路

イラスト/純白のカーテンと深紅の薔薇 ポチャン・・・
 洗ったばかりの前髪から落ちた雫が描き出した波紋。レイニアの金色の瞳はじっとその行く先を見つめていた。輪が消えてからゆっくりと頭を振るとパラリと 一房の髪が顔の前に落ちた。毛先から数センチを切り取られたばかりであることを見て取れる裾の直線。他人が手を加えるということはこんなにも隠し切れない ものなのか。
 レイニアは浴槽の中の自分の身体を眺めた。両腕を上げて前に伸ばすと伝って流れた湯が落ちてまた仲間に合流した。どこにも傷は見当たらない。自分では見 ることができない背中はどうなのだろう。限界まで首を回して苦笑したレイニアは手を後ろに回して指先で肌を探った。

「その滑らかな肌に傷を残すような真似をすると思いますか?」

 見れば床に燐光のような光の輪が現れていた。その輪の中が黒く揺らめいたかと思った次の瞬間、静かに一人の男の姿が盛り上がった。長い黒髪、指に挟んだ シガーの香り、感情を表さない死人のような瞳。男は彼の出現に気がついた少女がさらに10センチほど深く湯に身体を沈めたのを見て満足気に微笑んだ。

「無粋な入室で申し訳ないが、そのあなたの表情を確認したかったのでね。思ったとおりとても興味深い人ですよ、あなたは。ついさっきまで被験体としてその 綺麗な裸身をわたしの前に晒していたというのに。その羞恥心は自尊心と等しい。いいですね、歓迎しますよ」

 レイニアは身をかがめて一礼したケンプファーと視線を合わせた。男の唇が僅かに挑戦的な線を描く。

「見たいだけ見てください、わたしの中を。何が見えますか?」

 レイニアは首を横に振った。何度見てもケンプファーには深遠な闇が渦巻いているようなイメージしか見つからない。それを見るたびに鳥肌がたつ。

「今日はいつもより長くかかってしまいましたが、次からはもう少し楽にします。あなたの我慢強さは尊敬に値します。でもいいんですか?確かにあなたに関す る実験の成果を得てその特異な体質の謎が解けたらそれを応用してミラノ公の病状を変化させることができるかもしれません。それと同時に我が君にとっても大 いに有効な結果を得られるかもしれないのですよ。ミラノ公は今は我が騎士団の一員。でもあなたは騎士団というよりはミラノ公に忠誠を誓っているのでしょ う?」

 どこか探るような表情のケンプファーに少女は微笑を返した。

「カテリーナ様のためになるなら・・・それだけでいい」

「・・・なるほど」

 ケンプファーが冷たい瞳のまま唇だけの微笑を浮かべたとき、規則正しいノックが響き扉が開いた。

「ガウンを、レイニア」

 その姿が靴音高く入ってきたとき、一瞬欲室内に硝煙の匂いが漂った。トレスは純白のガウンを腕に抱えたままケンプファーの前に立った。

「両手に花の猟犬君か。ミラノ公はどうされた?今日は体調がすぐれないと聞いたが」

「635秒前に睡眠導入剤を服用し現在は睡眠中だ。あと175分から185分ほど睡眠が続くと推定される」

「ふ・・・」

 ケンプファーは煙を吐いてから手のひらでシガーの先をつぶした。

「失礼、せっかくの洗いたての髪に匂いがついてしまう。今日はこのレディはこう見えて心身とも疲労困憊のはずだ。機械人形の君に受け止め切れるのかな?」

「質問の意味が不明だ。レイニアの体重は俺の上腕の許容範囲だ。俺が機械であることとの関係があるとは思えない」

「・・・同情させていただこう、レイニア・スレイア。さて、今度はちゃんと扉から退散させてもらおうか」

 歩き出したケンプファーは扉の前で振り向いた。

「そう言えば、アベル様・・・アベル・ナイトロード神父によく似た人間を見かけたという情報が入っていた。君たちはそれが今度こそ本物であることを願うか い?」

 レイニアとトレスは音なく閉められた扉を見つめた。レイニアとともにトレスも・・・無言で凝視していた時間は不必要なほど長かったかもしれない。
 水音とともに立ち上がったレイニアの細い身体をトレスは持っていたガウンで静かに包んだ。

「トレス・・・」

 レイニアは重い頭をトレスの胸にあてた。トレスは視線を落として呼吸音と脈拍を確認するとゆっくりと片腕を少女の背に回した。

「損害評価報告を・・・レイニア」

「大丈夫、傷はひとつも残ってないそうだ。ただ・・・ちょっとだけ疲れた」

「眠ることは可能か?」

 トレスはレイニアを抱き上げ、抱き上げられたレイニアはトレスの顔に手を伸ばし、機械の部分が剥き出しになった銀色の金属に指先を触れた。長い戦いの中 で傷ついたトレスの身体。この顔もケンプファーに頼めば恐らくすぐに修復されるのだろう。たが、トレスは修理を拒否した。身体能力に影響を与える部分以外 は関係ない・・・そう主張した。そしてカテリーナもその主張を認めた。

「神父アベル・・・なんだろうか、トレス」

「・・・データ不足のため回答不能だ。ミラノ公には告げる必要はないと判断する」

「うん・・・わたしもそう思う」

 レイニアを抱いたトレスは浴室を出てそのまま少女に与えられた寝室に入り、柔らかな寝台に身体を横たわらせた。身体を覆う寝具の感触に短く息を吐いたレ イニアはトレスの顔を見上げた。

「もしも神父アベルがカテリーナ様の病気のことを知っていたら・・・それでも神父は去って行ったのだろうか」

 エステル・ブランシェ。あの頃のことを思い出せば必ずそこにもう一人の少女の姿が浮かび上がる。正統なアルビオン王朝の後継者。出会ってからアベルが ずっと心を砕き守ってきた存在。
 レイニアはエステルを嫌いではなかった。しかし好意を持とうとは思わなかった。白と黒に分かれた世界ではまさしく名前の通りの白に属する人間。まっすぐ に目の前の困難に立ち向かう姿はレイニアには眩しすぎた。好きになる方が簡単だ、とわかっていた。けれど敢えて難しい方を選んだのはこれまでの人生経験か らくる何ものかであったのだろう。
 そう。アベルはエステルを守っていた。『人間を守る』・・・その言葉通りに。彼にはエステルの強さすらももしかしたら人間らしい弱さに見えていたのかも しれない。それは見ようによっては深い『好意』と見る者の目に映る。それがカテリーナの心を苦しませ狂わせた時間は実際よりもとても長く感じられた。
 なぜアベルにはカテリーナの弱さが見えなかったのだろう。レイニアの気持ちはいつもそこに戻る。そしてそこにアベルに対するカテリーナの存在が他とは 違っているのだという小さな確信を持つ。アベルはカテリーナに弱さを見たくないのかもしれない。弱さを見ることは彼の中にある何かを壊してしまうことにつ ながるから。
 そしてカテリーナも。自暴自棄にしか見えない状態にある時も最後まで病気のことをアベルに告げなかった誇り。言えばアベルの同情は買える。もしかしたら アベルはかなりの確率でカテリーナの元に留まっただろう。けれど病気がその理由ならそのアベルの行動もアベル自身も本当の彼そのものではないのだ。

「ナイトロードがいたらミラノ公の状態が変わっていたと推測するのか?」

 珍しく問いかけに対して問いを返してきたトレスにレイニアは微笑した。

「わからないけど・・・でも、もしかしたらもっとカテリーナ様が苦しむことになっていたのかもしれないと思う。カテリーナ様がそばにいて欲しいのは身体だ けの神父アベルではない。嬉しそうに砂糖たっぷりの紅茶を飲む神父まるごとそっくりだから」

 長い、長い旅なのだ、多分。いつか本当に互いが出会うための旅。レイニアの目にはそれが見える気がした。時間さえあれば必ず再び二人は出会う。ただ、そ の時間が・・・・足りないかもしれないという予感だけが苦しかった。その旅の間にトレスがカテリーナとともにあること。レイニアはそれに祝福を送る。心身 ともに苦痛に耐え続けている美しく高貴な人は過去に自分が救い上げた魂のそばで今、最も安らぐことができるのだ。

「トレス・・・」

 名前の最後の音が微かに震えてしまった。トレスはここにいるべきではないと思った。薬で苦痛から解放されて安らかに眠っている主の顔を少しでも長く確認 していたいだろう。
 再びレイニアが口を開こうとした時、トレスがレイニアの右手をとった。

「卿が眠るまで、ここにいる。今は、目を閉じろ」

 トレスの手の感触がレイニアにはあたたかかった。零れそうになった涙を隠すために慌てて目を閉じた。

「トレス・・・」

「眠れ。今は何も警戒する必要はない」

 穏やかな声が囁くように言った。
 ここまで来た・・・来ることができた。この旅は果たしてどこまで続いているのか。
 レイニアは目を閉じたままトレスの手を握り返した。

2006.7.9

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