少女は難しい顔で手に持った紙を眺めていた。
日頃、主人のそばにいる時と彼の能力を必要とされる任務についている時以外の時間はこの少女と過ごすことが増えている機械化歩兵は、少女と同じテーブル の端で武器の手入れを行っていた。
少女は眉間に皺を寄せながら紙を眺め続けた。
機械化歩兵は精密機械の正確さで箱から出した銃弾を一列に並べ、一弾ずつ形状を確認してナイフで刻み目をつけていった。
少女はひとつも身動きをしないまま、まだその紙を眺めていた。
機械化歩兵は手入れの終わった銃を置き、次の銃に手を伸ばし・・・偶然のように少女を一瞥した。ちょうど少女の口元にため息の気配が通り過ぎた時だっ た。
「卿が見ているその紙は何だ?レイニア。精神状態にマイナスの影響を与える要素があるものならばこの場で焼却することも可能だ」
レイニアは目を見開いてトレスの顔を見、それからテーブルの上に置かれているバズーカや銃、その他名前を知らない武器の山を見た。トレスはどれを使って ただ一枚の紙切れを消すつもりなのだろう。少女の唇に微笑が浮かんだ。
「これを焼いてしまったらわたしの気持ちは軽くなるかもしれないけど、代わりに一人のシスターが眩暈を起こす。大丈夫だ、トレス。これは・・・・ただの譜 面だから」
「譜面?」
席を立ったトレスは規則正しい靴音とともに歩いていきレイニアの後ろに立った。
「賛美歌か」
レイニアは小さく頷いた。
「そう・・・シスターが子どもの声のソロが欲しいと言って・・・なぜかわたしに白羽の矢が立ったんだ」
深いため息をついたレイニアをトレスはじっと見下ろした。
「卿の行動は理解不能だ。賛美歌を歌うことが卿にストレスを与える原因の入力を要求する」
「・・・それは簡単だ、トレス。わたしは今までに歌を歌ったことなんてないんだ。シスターにしてみればそんなことを想像してみもしないだろう。だからこの 譜面だけ渡して自分の教会に戻ってしまったんだ。わたしはここに書かれている音を読むことさえできないんだけど・・・」
レイニアは譜面を手に持ったまま再びため息をついた。
トレスは少女の前に広げられている教則本を見た。少女の努力が今のところ実を結んでいないらしいことを理解した。
譜面に書かれている音符の羅列を僅か数秒のスキャンでデータとして取り込んだトレスは数秒の後、答えを出した。
唇を結んだままのトレスのどこからか流れ出した音を聞き、レイニアは振り向いた。その音はちょうど鼻と唇のあたりから聞こえるように思え、まるでトレス が鼻歌を歌っているように聞こえた。
「トレス・・・歌を歌えるの?」
トレスは少女の隣りに腰掛けた。
「機能は装備されている。ただし、その機能を使用したことは一度もない」
では、これがトレスの初めての歌ということだろうか。
レイニアは再び流れはじめた音を今度は終わりまでしっかりととらえた。
「・・・トレスは恥ずかしいなんて思わないんだろうな」
トレスは少女の顔を見下ろした。
「機械に感情はない。羞恥心という言葉の定義を知識として保存してあるだけだ。歌うことに羞恥を覚えるのか?レイニア」
レイニアは頷いた。
「・・・恥ずかしい、とても。第一、どうやって声を出したらいいのかも実はわからないんだ」
「声」
トレスは再び譜面の上に視線を走らせた。そして、口を開いた。
流れ出した透明な声の最初の一節はすでに少女の心をとらえ、続く音階の変化が心を揺さぶった。無感情なはずのトレスの歌声。それがなぜこんなにも気持ち の中に響くのだろう。自然と湧き上がった自分の涙に驚いたレイニアは慌てて目を瞬いた。
音階も書かれた言葉もメモリーに入っているトレスはレイニアの顔に視線を向けたまま歌い続けた。
レイニアは人としての魂がトレスの中に存在することをひそかに信じた。
「視覚からデータを取り込むことが不可能なら聴覚から音としてデータを取ることを推奨する。あとは経験値を上げることが必要だ」
トレスは再び歌いはじめた。そして一節を歌うと口を閉じて指先をレイニアの唇に触れた。
「経験値は行動を繰り返し精度を上げることで高めることが可能だ」
後について歌え、と。
奥で淡い光を点滅させているトレスのガラスの瞳を見ながらレイニアは素直に口を開いた。
トレス。
その名を思うと自然と音が零れ出た。
トレスは確認して頷くと次の一節を歌った。
レイニアの声がまたその後を追った。
火をつけていないパイプを咥えてのんびりと歩いてきた男は、自分の目的の部屋の扉の前に立つ弟子の姿を見とめて首を傾げた。
「どうしたね?ユーグ。そこに立っているのはまだ中に入っていないということなのか、それとも君が会いたかった二人が見つからなかったということか、どち らだね?」
弟子は流れ落ちる金色の髪を揺らして振り向き、視線で師の声を制した。
「聞こえますか?師匠」
「うん・・・?」
誘われるままに扉の前に進んで耳を澄ませた男の顔にやがて微笑が溢れた。
「なんと。これはトレス君とレイニア君の歌声なのかね?」
ぴったりと重なった二つの歌声が部屋の外に漏れ出していた。
「そのようです。・・・何だか邪魔をする気になれなくて」
「その気持ちは理解できるな。しかし、トレス君の方はセンサーでとっくに我々がここにいることを感知しているはずではないかね?」
「はい。だからつまり、今の彼には歌うことの方が重要だということだと」
「ふむ」
男はパイプを咥えなおして壁に背中をあてた。
「では、もうしばらく、この甘美な声が止むまではここで幸運を味わうことにしようか」
「はい、師匠」
弟子は男の傍らに立った。
二人は声に誘われるように目を閉じた。
「人間とは単純なものだ。こういう時、つい、全てを忘れてあらゆるものに祝福を感じたくなってしまう」
「・・・はい」
やがてその扉の前の二人に硝煙と血潮の中から帰還した男たちが加わった。
そこには切り取ったような静寂と永遠を願う魂があった。