夏 眠

写真/木漏れ日とベンチ 何かおかしい。
 気がついた時、少女は両手で持てるだけの書籍の山を抱えていた。ゆっくりと明度を落としていく目の前の空気を止めようと懸命に意識を集中したがすでに遅 く、自分の腕を、首を、頭を、やがて身体全体をひどく重く感じていった。

「だめ・・・だ・・・・まだ・・・」

 自分に向かって呟いた少女は重い足を一歩前に押し出した。下りてきた帳の向こうに見えるドア。あれさえ開けることができればその向こうに、彼がいる。人 間には不可能なスピードで書物のページを捲りながらデータをメモリに蓄積している小柄な機械化歩兵が。あのドアまで届くことができれば。
 レイニアの耳がとらえたのは、自分の腕の中から次々と床に落ちていく本の音だった。
 トレス。
 声を出して呼んだつもりの名前は口の中で短く溶けた。
 ブラック・アウト。
 僧衣を纏った細い姿は膝から床にゆっくりと落ちた。




 この少女の基礎データは他の誰より詳しいものを持っている。トレスはそれを事実として認識しているが、それと比較するべき現在のデータの収集開始が僅か に遅れたことは自覚していなかった。
 普段はほとんど使われることのない小書庫。そこからとある国のデータを可能な限り読み取ることを目的とした彼は、レイニアを同行させた。その理由は今の 彼にはわからない。『何となく』という言葉を使えない存在として、トレスは理由を自分の中に求めるのをやめた。レイニアは自身がおかれた状況を読み取る高 い能力を持っている。それは目的に適った書物を探索する際にも有効に働く能力で、トレスのサーチ能力と合わせるとかなりの効率アップを期待できた。それを 理由として彼の中の演算子は妥協した。たが、そのために腕の中のレイニアのデータ収集開始がコンマ数秒遅れた。
 もしも彼が機械ではなく人間だったなら、それは『動揺』とか『困惑』と呼ばれる時間だったのかもしれない。
 普段より蒼白に見える顔。速くて弱い脈拍。閉じられた瞼。普段よりも低い手と足の先の温度。

「レイニア・スレイア」

 トレスの声に少女は応えなかった。

「レイニア」

 トレスの手は少女の肩を掴みかけ、その直前に手に込めようとしていた握力を100分の1に弱めた。そうしなければ、恐らく、トレスの手はそのまま少女の 肩を砕いていただろう。

「レイニア」

 声を掛けながらトレスはそっと少女の肩を叩いた。すると、少女は柔らかく呻いた。

「声が聞こえるか?俺がわかるか?レイニア」

 少女は小さく身体を震わせた。

「・・・トレス・・・何だかまだよく見えない・・・」

 薄く開いた金色の瞳はまたすぐ閉じられた。
 意識はある。意識は戻った。
 トレスは確認するとそっと少女を抱き上げた。

「吐き気を認識したら速やかに報告しろ」

 言いながらトレスは自分の言葉の長さを意識した。苦しかったら言ってくださいね・・・・アベルなら、トレス以外の人間ならそれだけ言えば事足りただろ う。そして彼らの言葉の方が意識が薄濁している少女には理解しやすいかもしれない。

「レイニア」

 呼ぶと少女は懸命にまた目を開けようとした。

「大丈夫・・・・聞こえてる・・・トレスの声」

 答えながらレイニアが動かそうとした右手は持ち上がらすに小さく揺れただけだった。トレスは無言のままその手を自分の手で包んだ。

「どうしました?!トレス君!!」

 背の高い姿が銀色の髪をなびかせて走り寄った。
 アベル・ナイトロード。その青い瞳はトレスの腕の中の少女を見下ろし、それからトレスの顔を見た。

「軽度の熱中症と判断した。外のベンチに搬出する途中だ。卿が俺の代わりに搬出するなら俺は水を・・・」

「それじゃあ、ダメですよ、トレス君」

 言いかけたトレスをアベルは遮り、穏やかな表情で小柄な機械化歩兵を覗き込んだ。

「レイニアさんはトレス君だからそうやって安心していられるんですから。水は僕がすぐに持って行きますから、トレス君は早くレイニアさんを涼しくて風通し のいい場所に連れてってあげてください」

 トレスが目的地と定めているベンチは近い。それに対して冷水を汲んでくることが出来る場所はかなり離れている。ならば、走ればアベルよりはるかに速度が 速いトレスの方が水を汲みにいくべきだ。トレスは自分のその判断を誤っているとは思わなかった。けれど、アベルの顔に浮かんでいる表情を見ていると、そこ には数字では計算できない何かが存在している気がした。この判断は誤っている確率が高いとも思えたが。

「では、卿が・・・」

 トレスが言い終わる前にアベルはポンとトレスの肩を叩いて走り出した。

「大丈夫ですよ。今日の僕はユーグさんの手作りランチで元気いっぱいですからね!すぐに水を持ってきますからね!」

 確かに、アベルは顔色も良く、その表情にも迷いはなかった。
 トレスは一つ頷くと、少女の身体を抱きなおし、静かに歩を進めた。




 外に出た途端に2人の周囲を吹きぬけた風を、機械化歩兵は感知していただろうか。
 トレスはベンチの前に立つと瞬時に判断を下した。少女を寝かせ、その身体がすべて木陰に入っていることを確認すると、僧衣を抜いで丸め、少女の足の下に 入れた。それから少女の頭を持ち上げて座り、自分の足の上に少女の頭をのせた。
 トレスの指先は少女の額にかかった髪をよけてからそっと少女の僧衣の襟を緩めた。それから長い黒髪を片手であつめ、くるりと自分の手に巻いて少女の白い 首筋をあらわにした。

「ああ・・・涼しい・・・トレス」

 囁いた少女の唇はまだ色を失っていた。

「全身に痺れはあるか?」

「う・・ん、まだちょっと重い・・・」

 ゆっくりと動いた瞼の下から現れたレイニアの金色の瞳がトレスを見上げた。そこに普段と変わらぬ輝きを認めたトレスは瞬きをひとつ、した。

「この気温と湿度、そしてドアを閉めると密閉される空間。予想できるはずの損害だった」

 レイニアも静かに瞬いた。

「でも・・・ほら、トレスだったら平気なのだから・・・」

「俺の卿への支援義務に対する認識の甘さがあった」

「でも・・・暑いと思ったときにわたしが上衣を脱げばこんなにならなかっただろうし・・・」

「2度と今度のようなことはない」

 トレスの指が開こうとした少女の唇に触れた。温度を確かめるためであるはずのその動作は、なぜか強く少女の心を打った。
 気がつくと、レイニアはトレスの右手の袖を掴んでいた。

「あ・・・手が動いた、トレス」

「まだ無理はするな」

 トレスは左手で少女の手を受け止め、先刻より温度が僅かに上がっていることを確かめた。
 吹き抜けたそよ風が少女の前髪を揺らした。少女は小さく息を吐き、微笑んだ。

「少し、眠っていい?」

 すべてをこの機械化歩兵の手に委ねることは少女にとって例えようもない贅沢なのだが・・・少女はそれを告げる言葉を持たないのだ。持ってはいけないと決 めたのだから。

「肯定。脈拍の安定を確認した。適度な睡眠は体力の回復に効果があると判断する」

「ありがとう」

 レイニアは目を閉じた。真っ直ぐに自分を見下ろしているガラスの瞳をまだ心の中で見つめながら。
 トレスはやがて少女の呼吸が規則正しく変化するまで白い手を離さなかった。




「ああ・・・かえって間に合わなくてよかったみたいですね」

 途中まで走ってきたアベルはトレスの後姿を認めて足を止めた。いつもと同じ、背筋を真っ直ぐに伸ばしたはずのその後姿は、首を傾けて少女を見下ろし、普 段よりも柔らかな線を描いているように見えた。

「おやすみなさい、レイニアさん」

 囁いたアベルの表情は穏やかだった。
 見守る者と見守られる者。彼はその間にある見えないものに対して天を仰いで祝福を捧げた。

2007.8.14

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