「ああ、一週間待ち遠しかったですわ。今日はあの神父様のお姿を見ることができるかしら」
「銀色の髪の神父様ですわね。私、今日こそお話をしたいですわ」
「あら、眼鏡の奥の瞳も拝見したいですわ」
「まあ、そんな大胆な。聖職にある方には刺激が強すぎるのではないかしら」
「でもここの神父様は皆様が修行でおこもりになっていらっしゃるわけではないみたいですし・・・少しは外の事情もご存知なのではないかしら」
「あら・・・どんな風に、どこまで、かしらね」
半分遠くにある意識の中に耳を通して入り込んでくる笑いとさざめきをただの言葉として通過させながら、あくびをひとつ口から漏らす。自分の身体は声が聞 こえる回廊からは木の幹と背が高めの植え込みに遮蔽されているはずだった。
最初は押し殺されていたはずの娘たちの声は自然と弾け日頃のこの場所には不似合いな華やぎを醸しだす。見習い中のシスターたちとは異質の無邪気さは娘た ちの神との日々が極めて短期間に限定されているのが原因かもしれない。そこに集う娘たちの身分は平民を遥かに超えるか、或いはこれからそうなることを約束 されている。彼女たちはどこぞの施設で俗に言う花嫁修業の総仕上げとして婚礼前の一時期を神に捧げている者たちなのだ。
噂の的はどこかで姿を見かけられたアベル・ナイトロード神父のようだ。飛びぬけて背が高い彼の姿は確かにどこでも瞬時に認識される対象だろう。透明感あ る白い肌と無造作に束ねられた銀色の髪、丸眼鏡の分厚いレンズの奥にちらりと垣間見ることができる瞳の青。口元から絶えることがないように見える柔らかな 微笑。
無理はないかもしれない。確かにあの神父が黙って立っている限り温かな声を聞くことができない代わりにどこかすっ呆けた拍子抜けするセリフを聞くことも ない。そして、神父の周りの空気が冷えて次の瞬間に闇色に燃え上がる瞬間を知ることもない。そういう限定条件下ではナイトロード神父の姿は無垢な光を帯び て見えるかもしれない。
目を閉じたままのんびりとした思考に身を任せていたその意識は別の言葉を拾い上げて一段覚醒した。
「でも、私はあの小柄な神父様に今日こそお名前を伺うと決めてまいりましたの」
「まるで彫像が命を持って動き出したような方ですわよね。どんな声でお話されるんでしょう。微笑みかけてくださったら素晴らしい気分になれそうですわ」
なぜか落ち着かない気分に襲われていた。
「この建物のどこかには神父様たちそれぞれのお部屋もあるそうですわ。ちょっと拝見してみたいですわよね」
「・・こっそりお招きを受けたらどうしましょう」
正気か。
空気を満たした歓声の中で冷静にそう感じたはずのその人物は反射的にすっくと立ち上がっていた。
「きゃっ、どなた・・・・・って。あなた一体どういう・・・・」
「どこからいらしたんですの?ここに何か御用事が?」
「え・・・・?黒の僧衣・・・・?」
簡易的な尼僧服のような白に身を包んだ娘たちの固まりから一斉に視線と言葉を向けられた人物は自分でも驚いたように瞳を大きく瞬いた。細かく波打ちなが ら流れ落ちる黒い髪。金色の瞳に薄い唇。中庭に立ち上がったその姿はどう見てもまだ幼さの残る少女のものだったが、身にまとっているのが黒い僧衣であると いうのがひどく浮いて見えた。少女ならば尼僧服を・・・、いや、そもそもこのような年端もいかない存在が教会組織の中枢の一つであるこの建物で何をしてい るのか。
自分に向けられた瞳の中の好奇心がどこか非難を帯びた色に変化するのを見て、少女は反射的ににっこりと唇の線をカーブさせた。それは最近になって覚えた ばかりの自己防衛手段だったが、上手く効果したようだ。娘たちは揃ってホッとしたような顔になり・・・そこまではよかったがそれから次々と中庭に足を踏み 入れはじめた。それは少女の予想外の反応だった。
「あなた、どうして神父様たちと同じ格好をしてらっしゃるの?」
「借りた・・にしてはぴったりと身体に合ってらっしゃいますわよね。やはり、あなたのものですの?」
「ああ!もしかして・・・・あなた・・・・つまりその、少年でいらっしゃったりして・・?」
「ええ?!いやですわ、そんな馬鹿なこと。あら、でも、そうだとしたら余計に不思議で素敵なお姿ですわよね」
ジリッジリッと後じさりする少女の足取りの倍速で近づいていく娘たち。興奮した表情はどれも喜色満面といった具合で、対照的に顔の白さを増しながら少女 は踵を返して逃げ出したい気持ちを堪えていた。
「そこで何をしている、レイニア・スレイア?」
抑揚のない声が空気を切り裂くように低く響いた。
「卿は今から1096秒前に別棟の一室で修練メニューを開始している予定だ。遅れを取り戻すため早急に同行することを要求する」
回廊の端、一斉に向いた複数の視線の先に小柄な一人の神父の姿勢良い姿があった。その瞬間に空気を揺らしたか細い悲鳴のような音の重なり。それとそれに 伴う熱を帯びた視線を気かける様子は一切見せずに、神父はまっすぐに少女を見、反応を待っていた。
「あ。ごめんなさい・・・ちょっとうたた寝を・・・」
少女は呼びかけた神父の名前を口の中に飲み込んだ。心に浮かんだその理由を認めたくなくて首を軽く横に振る。
「肯定。卿の姿を本日0214に目撃した。推定睡眠時間は240分から286分。卿に必要と想定される時間を満たすものではない。不足分は今夜のものと合 わせて取ることを推奨する」
どことなく呆けたような表情の娘たちの前を横切って少女は身軽に神父のそばに駆け寄った。男性としては小柄なその姿を見上げる顔には先ほどの硬い笑みと は似ても似つかない微笑があり、抑え切れないものが見え隠れしていた。
「わたしを見つけるの、時間かかった?」
「否定。待機時間の間に卿が取る行動を26通り計算し傾向的に確率が高い順番に従って捜索した。中庭は2番目の目標だ」
「ふ・」
爆発しそうになった声を飲み込んだ少女の瞳が輝いた。その26通りの詳細を訊いてみたい気もしたが、やめておいた方が無事に思えた。
神父は少女の顔に向けて落としていた視線を上げて正面に向けた。
「ミラノ公の会議が終了するまで推定残り時間2364秒だ。メニューを終了するために迅速な移動を要求する。行くぞ」
正確無比な足取りで歩みはじめた神父から半歩遅れて少女が軽やかに後を追っていく。
弾むようにリズミカルに動く黒髪をしばらく目で追ってから固まったままの娘たちは視線を合わせた。
「何でしょう、あれは・・・一体」
「あの神父様・・・何と言うか・・・ちょっと不思議・・・」
「そうね、本当に」
「でも・・・」
同時に口を閉じた娘たちの瞳に何か別の種類の光が一人から一人へ伝染するように点っていく。
「お聞きになりました、あの声?とても素敵な声じゃありませんでしたこと?」
「あの無愛想な話し方がかえってそそりますわ〜。ああ、名前を呼ばれてみたい」
「あら、私だって。あんな小さな少女があんな風に・・・私たちも恥らっている場合ではありませんわね。」
ぴったり重なるタイミングでこくりと頷いた娘たちの顔にある渇望は憧憬や思慕とは異なるものであるようにも見えた。それは来るべき将来に対する無意識の 反発と恐れの表れなのかもしれない。
数分後に回廊を通りかかった銀色の髪の神父は押し寄せる娘たちに囲まれて目を白黒させたとか。
「おお、主よ。どうしてだか天使がいっぱいで、わたしの人生が何だか狂いそうです〜」
そんな叫びが舞い上がっていた頃、建物の地下深くの一室では連射される銃弾が広い空間を重厚な破壊音で切り裂いていた。