興 心

写真/注射器  微細な管の中を吸い上げられていく赤い流れは途切れることなく続いていた。
 眠っているようにも見える色白の顔を見下ろす“教授”の手には火の入っていないパイプが握られていた。静か過ぎるのではないだろうか。血液とともに体温 が過度に奪われているのではないだろうか。アルビオン貴族の特徴を備えた横顔はかすかに眉を下げた。細い腕に針を刺したとき、少女は不思議そうにその瞬間 を見た後で流れはじめた紅の色を否むように目を伏せた。身体を後ろに倒しながら宙に泳いだ瞳を徐々に閉じていく姿は、務めを終えた機械が長い休息に入って 行く様子に似ていた。それから身じろぎひとつせず呼吸すらほとんど感じさせない華奢な全身は、日頃鷹揚に構えているこの中年紳士の心を乱した。

 神父としての彼、ウィリアム・W・ワーズワースが属している組織は教皇庁国務聖省特務分室−−−Ax。その名前は一見正統な表舞台を支える陰の力的香り を感じさせるが、実体はさらに深く、時として硝煙と血潮の色を背景に持つ極めて特殊な集団であり、冴えた麗貌と知性を備えた枢機卿とひそかなつながりがあ る組織である。そのつながりの表に見えている些細な部分に惹かれてそこに名を連ねることを願う者も決して少なくないが、そういう人間たちの転属の願いがか なうことはまずない。今現在Axに所属している人物に関するデータ、所属に至る経緯はトップシークレットとして隠蔽されている。
 彼の耳に『新入り』の噂が届いたのは巨大空中戦艦の女性艦長を通してだった。外見は年端も行かない10歳程に見える少女でありながら実年齢は20歳以 上。情景記憶とそれの再現、ある種の千里眼的能力保持者。彼女をスカウトした神父は信じがたいことに彼がメンテナンスを担当している1人の機械化歩兵なの だという。そして、初顔合わせを心待ちにしていた彼の前に現れたのは、波打ちながら腰より下まで落ちる黒髪と金色の瞳が印象的な生きた人形のような姿だっ た。幼い少女とは別の、かと言って成熟した女とはまったく違う異性。時に乱暴にさえ聞こえるぶっきらぼうな言葉遣いと敏感な視線のアンバランスさ。気がつ いたときには彼は自分にも不可解なまま少女の存在に惹かれ、研究室に戻ってから一編の詩を口ずさんだ。
 少女は特別な訓練をひとつも受けない状態で派遣執行官となった。ゆえに時間に都合がつく時にはその機械化歩兵、トレス・イクス神父から射撃の訓練を受け ているという。少女の身を包む神父用の黒の僧衣は少女の希望を聞いたカテリーナ・・・彼が忠誠を誓い命をかけて護ろうと決意している高貴な女性・・・が少 女の最初の任務の時に贈ったものだという。本当に、彼にとっては驚くことばかりの存在だった。

 “教授”はパイプを咥えて小さく数回捻った。
 今日彼のところに現れた少女には『実験対象生命体』という見えないラベルが貼られていた。それがAxに入る条件のひとつだったことを昨夜聞いたばかりの 彼よりも少女の方がそのことに対して冷静かつ無関心であるように思えた。科学者としての分野が全く違う“教授”としては直接実験に関わるわけではなくて血 液や体細胞の採取及び研究施設への送付のみの役目だった。そのことをなぜか自分が喜んでいること、そしてそれと同時に満たされない知識欲が不満を告げはじ めていること、そのどちらも少女に悟られるわけにはいかないという気がしていた。
 寒くはないか、そう尋ねようと“教授”が口を開きかけたとき、ノックの音が響いた。

「誰かね」

 “教授”は素早く少女の顔を見たが目を開く気配はなかった。

「部品の交換及びチェックに来た、ワーズワース神父」

 低くて感情のない声が聞こえた。そういえば数日前、トレスが指令を受けて出かける前に幾つか交換して置いた方がよいと思われる部品が調達できたことを告 げておいたのだった。常日頃、任務以外の時間の大半をカテリーナの警護にあたっているトレスの繁忙ぶりと重要性を知っている“教授”は、ためらった後にド アを開けた。

「できるだけ静かに入って来たまえ」

 トレスのガラスの瞳は“教授”が細目に開いたドアを見た。それから滑らかな動作で押し開き、普段の半分ほどの大きさの靴音をたてながら部屋に入った。短 い一瞥で先客の存在を確認した後、規則正しい足取りをまったく崩さずにトレスは前進し、少女の身体が横たわった即席の寝台の横でクルリと向きを変えて立ち 止まった。

「君の弟子なんだってね。君はきっととても厳しい先生だろうから大変だね、シスターも」

「『弟子』という言葉には同意できない。俺はレイニア・スレイアの防衛能力不足を補完する指令をミラノ公から受けているだけだ」

 そう答えながら2秒ほど少女の顔を見下ろしていたトレスは、右手の手袋を脱いで指先を少女の額に触れた。

「通常と比べて体温及び血色が落ちている。脈拍数の低下を確認。体温を保温することを推奨する」

 そう言ってトレスは少女の足元置かれている畳まれた大判のタオルを広げて一振りで小さな身体を覆った。
 そのトレスの一連の動作を見つめながら“教授”はまた数回パイプを捻った。本当に驚くことばかりだった・・・・この少女に関するすべてが。自らを機械だ と言うこの神父はいつからこんな風に少女を庇護しているのだろう。無感動に。当たり前のように。最初からプログラムに書きこまれていたように。

「気になるかね?」

 トレスの目は少女の腕から伝う赤い透明な管を見ているように思えた。

「否定。卿の質問の意図が不明だ」

「いや・・・いいんだよ。いいんだ、もう」

「・・・了解」

 無表情な中にも不満足さを感じさせる表情でトレスが言ったとき、その右手にほっそりした小さな手が伸びた。

「・・・トレス?」

 反射的に手を動かしたトレスの鋼色の指先と少女の白い指先が触れ、同時に離れた。

「肯定。部品交換とチェックのためこの場所に来たら卿が先にいた。何の治療だ?回答の入力を」

 徐々に持ち上がった瞼の下から現れた金色の瞳に浮かんでいる温かな光は、“教授”が初めて目にするものだった。

「治療じゃなくて実験材料の採集。今日は初めてだから沢山採らないとだめ、ということみたいだ。」

 トレスはまだ流れ続けている血の行き先を辿り、寝台の傍らに置かれた台に載せられた数本の小型保存瓶を見た。1本を除いていっぱいに赤いものが満たされ ている。

「了解した、レイニア・スレイア」

 トレスの全身が“教授”に向き直った。

「卿に不都合がなければ部品の交換を、神父ウィリアム」

「あ、ああ」

 トレスを鋼鉄製のスツールに座らせ棚から部品が入った箱を下ろすと“教授”は交換箇所の説明をした。一部を除いて自身の手で交換が可能なことを理解した トレスは無造作に上半身を空気に晒して作業を開始する。見慣れているはずのその姿に動じる己を小さく失笑しながら動いた“教授”の目は静謐な金色の瞳をと らえた。トレスの姿を写し取っている眼差しはやがて、トレスが左腕を展開して中の部品をピンセットで取り外しはじめるとすぐに向きを中空に変え、ゆっくり と瞼の奥に仕舞われた。
 少女はこの機械化歩兵の中に人間を見ている。“教授”はカテリーナが彼に見せた1枚の絵を思い出した。人の技とは思えない細部まで精巧に描かれた姿は彼 の前に座るこの殺人人形のものだった。二挺拳銃を手にしたトレスの姿は何から何まで彼の記憶に残る姿に重なったが、顔に描き出されているものだけが彼の中 のイメージと異なっているように思えた。ほんの僅かではあったがそこには確かに『表情』があった。少女はあれをどの目で見たのだろう。

 最後の壜に封をすると“教授”はためらいがちに口を開いた。

「あとは身体の何箇所か、皮膚とその下の細胞を採らせてもらわなければいけないのだが・・・いいかね?身体は横になったままで・・・」

 “教授”を見上げる少女の顔に感情は表れなかった。それこそまるで機械仕掛けの人形のようにするりとガウンの片袖から腕を抜いた少女の身体を見て一瞬呼 吸を止めたのは彼の方だった。白い肌の滑らかさを強調するために配置されたような闇色の傷。形状的には弾痕のようなその傷が今露にされた肌の上にすでに2 箇所見てとれた。恐らく傷はこれだけではないだろう。それは痛々しさを通りこして冒涜とさえ感じられた。

「君・・・・レイニア君、これは・・・」

 思わず伸ばされた“教授”の手から逃れるように、少女の身体が僅かに揺らいだ。

「その創傷の原因となった『虫』のサンプルは保存されている。卿が確認した後今回の送付対象物と同梱すべきかどうか決定する事を推奨する」

 いつの間にか傍らに立っていたトレスの声が無感情に告げた。ガラスの視線がが少女の顔に下りた。

「射撃訓練開始まで予定残り時間1028秒。時間短縮のため作業を分担することを提案する。卿は俺の肩甲下部の部品交換を。俺は卿の指示に従って細胞を採 取する」

「・・・この状態で部品を交換しながら、という意味かね?」

「肯定。部位的に動力遮断が可能なため俺に不都合はない」

 さらに質問を重ねようとした時、少女の顔が“教授”の視界に入った。血の気のない唇が緊張を解いていた。
 もしかしたら少女は彼の手を恐れていたのだろうか。
 直感に従って彼はピンセットとシャーレをトレスに渡した。



「ああ、そういえば、トレス君。シスター・レイニアは少なくはない量の血液を採取されたばかりだ。その射撃訓練はいつもよりも加減したメニューにした方が いい。それに先ず食事か何かを食べさせてあげた方がいいな」

 先に少女を部屋から出した後で続こうとしていた小柄な神父は足を止めて振り向いた。寸分の隙なく僧衣で包まれた姿は一回り大きく見える。

「肯定。早急に滋養物の摂取を勧告する」

「ああ、そうしたまえ」

 笑いを堪えて生真面目な表情を保っていた“教授”は、神父の姿が消えてドアが閉まるとようやく喉の奥で笑いを開放しながらスツールに腰掛けた。ポケット から取り出したマッチで柔らかな火をパイプに灯すと深く息を吸い込む。

「あれは全部・・・偶然なのかねぇ」

 “教授”の目は見るとはなしに窓の外をぼんやりと眺めた。
 少女の体温を保とうとした行為。
 結果として彼の手が少女の肌に触れることを防ぐことになった提案。
 いつもなら恐らく先に立って部屋を出たはずなのにそれを譲ったこと。

 あの機械化歩兵にとってカテリーナは無垢の魂に刷り込まれた己の存在意義、言わば脈打つ命の根源、心臓だ。その身体がどこにあっても先ず何よりも・・・ 己自身よりもカテリーナの命を尊重して護り抜く・・・その姿勢は永遠に変わることはないだろう。
 では、あの少女は。
 知らぬうちに変化をもたらす者・・・・

「興味深いことこの上ないねぇ。面白くなってきたというべきか」

 “教授”は笑みを深くすると顎の先を静かに撫ぜた。

2005.9.16

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