“剣の館”最上階、特務分室。
人気のない室内の静寂さを僅かに打ち消しているのは移動する鉛筆の芯が紙を擦る音だけだ。窓辺に置かれた椅子の上に重ねられた2つのクッション。その天 辺に座っているのは黒に包まれた小さな姿。広がろうとする長い黒髪を紐らしいもので無造作にひとつに結わえ、金色の瞳は窓から通りを見下ろしている。膝に 載っているスケッチブックの上に描き出されつつある情景はまさに通りを構成する敷石、街灯、建物、人をその場から切り取ってきたもののように見えてほんの 少しどこか違うところがあるような。
少女は手を止めて視線を自分の作品の上に落とし、小さく息を吐いた。
「んだ、やっぱり拳銃屋はまだ戻ってねぇのか」
突然開け放たれた扉から髪が伸び放題の黒い頭を突っ込んだ巨漢は独り言とも思えない声を放った後、窓際の姿にニヤリと笑いかけた。黒の僧衣に身を包みな がら肉食獣の印象を与えるこの男、国務聖省特務分室派遣執行官レオン・ガルシア・デ・アストゥリアス神父。その姿を見た少女は身軽に床に飛び降りた。
「久しぶり・・・だな、“ダンディライオン”」
「だから、もうちょっと『らしい』話し方を覚えろよ、“セカンド・サイト”」
2人が交わす会話も視線も大の男と幼い少女の間のものにしては雰囲気が少し違っていた。神父を見上げる少女の顔には何かを受け止めようとするような表情 の中に会えたことを喜ぶ感じが見え隠れしており、神父の方は面白がるような顔の裏に目の前の同僚に対する親愛感があった。
「留守番たぁ暇なこったな。・・・どれ、おい、俺がやってやる」
縛った髪を解こうとしてもつれて苦戦しているレイニアの手を避けさせて、レオンは大きな手でそっと結び目を弛めた。
「・・・ありがとう」
パラリと流れ落ちた髪の隙間から覗いた金色の瞳の前でレオンはガシガシと自分の頭を掻いた。
「ったく、俺の自慢の髪の毛よりも面倒くさそうだな、お前のは」
「・・・あなたみたいに手櫛でおしまい、というわけにはいかないんだ、神父レオン」
「あのなぁ、このさり気なさの裏にはいろいろ地道な努力があるんだぜ。それよりもよ、いい感じの店があるんだがちょっと早めの夕メシってのはどうだ?どう せ拳銃屋とケイトが帰ってくるのは明日なんだろ。へっぽこもそろそろ上がってくるだろうし・・・ん?どうかしたか?」
困ったような顔をしたレイニアに気がついたレオンは無精ひげをするりと撫ぜた。
「まさか、ダイエットとかそんなヤツじゃねぇだろうな。子どもは育つのが仕事なんだからな・・・・って、まあ、お前の場合は素直にはいかねぇけどな」
不老不死の可能性を秘めた少女を見下ろす大男の口ぶりは次第に尻すぼみになっていった。
「そんなのじゃないけど・・・あまり食欲がない」
笑ったレイニアの顔が困ったような視線を向けた。
「そういや、病み上がりだってアベルが言ってたな、お前のこと。北に行って風邪ひいたんだって?」
「うん、参った」
にっこりした少女の顔を見ながら小さくため息をつくと、レオンはそっとか細い肩に手をのせた。
「そういう時にはうまい料理が一番だって。その店はな、女子どもが手を叩いて喜ぶデザートなんかもたっぷりなんだぞ。『女子ども』なんて言ったら、ほれ、 お前そのものじゃねぇか」
「いや・・・でも・・・」
「それによ、俺はシャバに出たばかりで少々軍資金不足だ。へっぽこだけじゃ頼りにならねぇ。女には奢らせねぇ主義だが、この際特別にお前には奢らせてや る」
「・・・なんだ、それ」
再び笑顔になった少女の背中をそっと押すようにしてレオンは扉をくぐりぬけた。
洗面器のような深めの皿になみなみと注がれたスープから立ちのぼる湯気と大きなボール山盛りのサラダのために視界を遮られてしまったレイニアを、背の高 いレオンとアベルは笑いを堪えながら眺めた。
「ちゃんと食えよ。食べれば食べるだけ俺たちの顔を拝めるようになるからな」
そう言ったレオンの前には血も滴る巨大なステーキが湯気をたてている。
「いやぁ、すみません、レイニアさん。わたしにまでおいしそうなものをたくさん注文していただいて」
前に置かれた盛り合わせ料理の皿の上の眺めにうっとりとしながらアベルが瞳を輝かせている。
3人はそれぞれの顔の前にグラスを掲げた。
熱いスープと芯まで冷やされたサラダの組み合わせに久しぶりに胃袋を心地よく刺激され、レイニアは思っていたよりもずっとこの会食を楽しんでいる自分に 気がついた。アベルとレオンはいかにも美味そうに・・・ある意味どちらも食いだめを兼ねている感じもあるが・・・皿を空にしていくので見ているだけでも楽 しい。
小さく笑った少女の顔を見た神父2人は顔を見合わせた。
「なんだ、ようやく普通に戻ったみてぇじゃないか。さっきまではどうしたんだ?何かあったのか?」
「レイニアさん、4日間は高熱が続いてたんですよね。その後もなんだかずっと顔色が悪くて、心配だったんですよ。あ、カテリーナさんもケイトさんもそう 言ってました」
少女は2人の顔を見てからため息をつき、それから微笑した。
「・・・わたしは任務があまりないだろう?それじゃなくても自分の身を守るのが精一杯だしそれでも足りないし、それなのに・・・・風邪までひい て・・・・。他のAxのメンバーとは全然違うから・・・・ちょっと自分が嫌になってたんだ」
「そりゃ仕方ねぇだろう。お前は最初っからタイプが違うんだから・・・身体はガキだし」
「レイニアさんの技は『目』ですからね。僕たちでは出来ないところで活躍するのってカッコいいですよね〜」
レイニアは小さく頷いた。誰かに愚痴を聞かせたのは初めての経験で落ち着かなかった。それでも思いを吐き出すことができてほんの少し楽になった気もし た。
「・・・どうして自分がAxに・・・って時々不思議になる」
ふと視線を動かしたレオンがレイニアの顔を見てニヤリとした。
「そいつはよ、お前を巻き込んだ張本人・・・お前の後見人に直接訊いてみろよ」
「え・・・」
「あれ、トレス君じゃないですか。早かったですね。明日になると思ってましたよ」
小柄な姿がテーブルと人の間を鮮やかに縫いながら規則正しい歩みで3人の前に立った。
「肯定。予定より32456秒早く帰還した」
アベルは立ち上がって椅子を引き、トレスを座らせた。
「で、何でここがわかったんだ?お前の守備範囲じゃねぇだろう?」
トレスはガラスの瞳をレオンに向けた。
「シスター・ロレッタから卿が到着していると聞いた。卿の利用する店のリストはインプットされている。ここはそのNo.1だ」
「油断ならねぇ奴だな、おめえ」
「肯定。いかなる状況でも油断は許されない」
「いや、だからそういう意味じゃ・・・」
何も知らない人間が見たらボケとツッコミの立場を楽しんでいる風にも見える光景を少女の瞳はじっと見つめていた。初めはどことなくこわばっていた表情が 徐々に和らいでいく。アベルはそっと少女に顔を寄せた。
「よかった。熱を出してから何だかレイニアさんとトレス君はすれ違いばっかりだったから、僕がこういうのも何ですがさびしかったんですよね。お二人が一緒 のところが大好きなので」
「・・・また子犬どうしがくっついてるって言いたいんですか?神父アベル」
「あはは、わかります?あとはね、そう・・・・レイニアさんといるとトレス君がちゃんと人に見える時が多い気がするんです」
「・・・それは・・・喜んでいいのかどうかわからないけど。・・・トレスは嫌だろうし」
「ふふっ、ですよね。だからこれもまた、内緒ですよ」
時々、悲しそうにトレスを見ることがあるアベルの言葉はレイニアの気持ちにすっと沁みた。アベルもトレスが今のトレスだから好きなのだと思えた。その 『好き』はきっとほんの少しだけレイニアのものとは形が違うだろうけれど。アベルは、また、時々切なさと愛しさが混ざったような目で周囲の人間を見ている ことがある。そんな時の彼は己と周囲のものとの違いを決定的に感じているように見える。その違いの正体はレイニアにはわからなかったが、少女の目に映る黒 い翼に関係があるのかもしれないと思った。
「補給が済み次第射撃訓練を再開することを要求する。卿の訓練は罹病以来中断したままだ」
自分に向けられたトレスの真っ直ぐな視線から目を逸らすことなくレイニアは微笑みながら頷いた。トレスは己の心を映す鏡のようだと思った。自分に迷いや 心の曇りがある時はトレスの姿も前とどこか違うように見え、自分が避けられているのではないかとまで疑った。けれど、迷いが晴れさえすれば。トレスはトレ ス。最初に自分のすべての目で見た時のトレスなのだ。
「おいおい、待てよ。せっかくデートを楽しんでるんだぜ。今夜ぐらいもう少し俺に貸せよ」
「否定。卿と俺は明日の打ち合わせ終了後に任務の目的地に出発する可能性98.6パーセントだ。機会を無駄にするわけにはいかない」
レオンの要求を却下したトレスはポケットを探ると小ぶりな包みを取り出した。
「今回の目的地で卿に手ごろなサイズのものを見つけた」
差し出された包みとトレスの手を見たレイニアが視線を上げるとトレスは頷いた。
「肯定。開封することを要求する」
珍しい光景に目を丸くしているアベルとレオンの前でレイニアは静かに包みを受け取り、テーブルに置いた。固く結ばれている紐に苦戦していると傍らで手袋 を脱いだ金属の指先がなんなく結び目を引きちぎった。包み紙をほどいたレイニアは小さく息を吸い込んだ。
「こりゃあまた・・・古そうな代物だな」
「でも手入れは素晴らしいですよ〜。光るとなんだか怖いみたいですね」
白いテーブルクロスの上で光を受けてはね返しているのは銀のナイフだった。刃渡り10センチほどの鋭利な刃は磨き上げられて鏡のようにレイニアの金色の 瞳を映し、祈りさえ感じられるような柄の細工は極めて緻密で胸の前に手を組んで目を閉じた天使の姿をくっきりと浮き上がらせている。美しさと畏怖を備えた 品だった。
教皇庁国務聖省特務分室に登録されたときに支給された対ヴァンパイア用のナイフは柄が太めでごつい形状をしており、少女の手の大きさにはどうしても持て 余し気味だった。けれどレイニアはそのことを誰にも言っていなかった。
「トレス・・・あの・・・」
レイニアが口を開くと同時にトレスは立ち上がった。
「それを主として使用しこれまでのものは補助的に使用することを推奨する。射撃訓練の前に使用法を説明する」
確認するように自分を見下ろすトレスにレイニアは頷いた。
「もうお腹はいっぱいだから」
立ち上がるレイニアにアベルは笑いかけ、レオンはわざとらしいため息とともに両手を上向けてヒラヒラさせた。
「あ、そうだ」
思い出して伝票に手を伸ばしかけたレイニアの手とテーブルの上の皿数、2人の神父の顔、をすばやい一瞥で見て取ったトレスはレイニアよりも先に伝票を手 に持った。
「え?」
「あ、あの、トレス君?」
「お!お前が奢ってくれるのか、拳銃屋?」
トレスは歩きはじめた。
「肯定。レイニア・スレイアは今月医療費の負担が大きい。俺の方が卿らの行動支援に向いている。補給終了後は速やかに明日の準備を開始することを推奨す る」
「あ、トレス・・・」
普段より少しだけ緩めな規則正しい歩調で歩み去る小柄な姿と小走りにそれを追う少女の後姿を見送りながらアベルとレオンは顔を見合わせた。
「・・・もしかして、拳銃屋の奴、機嫌が良かったのか?そういうことか?」
「さあ。でも、そういうことだと思いたいですね〜。トレス君はカテリーナさんに言われたからレイニアさんをいろいろ行動支援してるんだって言いますけど、 でも、レイニアさんをAxに連れてくることを決めたときにはまだカテリーナさんはいなかった訳ですし。まあ、これはトレス君にもレイニアさんにも言えませ んけどね」
2人は笑った。
「どっちもまだガキだってか?」
「そうですね。それから、天使ですよ、多分ね。カテリーナさんの守護天使。・・・そういうのが僕はとても大切で守りたいと・・・願ってしまうんですけど ね」
言葉の後半を口の中だけで呟いたアベルの瞳は深い色に照り映えていた。