“剣の館”最上階、特務分室のさらに奥に位置した一室。久しぶりにその部屋を訪れていた神父は光を受けて冴え冴えとした翠瞳に戸惑いの色を浮かべながら窓 辺に立っていた。長い髪は淡い金色に輝き、黒い僧衣に対照的な彩りを添えている。その神父、教皇庁国務聖省特務分室派遣執行官ユーグ・ド・ヴァトー、 “ソードダンサー”の視線の先では彼が師と呼ぶ神父が1人の少女と向き合っていた。
「それで、シスター・モニカの印象はどうだったかね?なかなかの女性だっただろう」
“教授”ウィリアム・W・ワーズワース神父が快活に語りかけた少女は神父用の黒の僧衣を身につけ、椅子に座っていた。波打つ黒髪と金色の瞳、それだけで も注目に値する姿だっただろうが、ユーグの視線を引きつけていたのは捲くられた袖から伸びているほっそりした白い腕とそこに刺された針から繋がる微細な管 を流れていく血の色だった。
「ああ、掛けたまえ、ユーグ。すぐに済む。これでも今回は血液1本と髪の毛数本の採取だけだから君が予定通り10分後に来ていたらこういう場面を見せない ですんだんだがねぇ」
ユーグはこの“教授”の伝言を受け取って指定された時間にやって来たのだが、時間前厳守の几帳面な性格から少々早めに着いたのだった。
「シスター・モニカには助けてもらった。とても・・・綺麗な人だ」
毒々しい美しさではあるが。ユーグはモニカの赤い唇を思い出す。そこから吐き出される言葉も常に毒を含んでいる。あのシスターのことを言う少女のぶっき らぼうな声にはどことなく温かみがあった。少女の力を秘めた瞳は何かユーグには見えないものを見たのだろうか。ユーグは数分前にこの部屋に着いたときに初 めて見た少女の瞳を思い出した。金色の瞳はまっすぐに彼に向いてしばし動かなかった。心の中まで見通されそうな気がして先に視線を逸らしたのは彼の方だっ た。
「まあ、確かにシスター・モニカは女性的な魅力には恵まれている。少々物騒な時もあるがね」
ウィリアムが笑うと少女も笑い、そうすると雰囲気全体が外見通りの幼い少女であるようにも感じられ、ユーグはふと懐かしさを覚えた。
「さて、これでいい。少し押さえておいたら血は止まるから、そうしたら早速ここの大掃除を手伝ってくれたまえ、シスター・レイニア」
そう、ウィリアムは今日この実験室の大掃除をする予定で、ユーグは手伝いに呼ばれたのだ。
しかし。
ウィリアムの言葉に違和感を覚えたユーグはガラス瓶に封をして奥の棚に持っていく師の後について行った。
「師匠」
呼びかけに振り向いた“教授”の顔にはわかっているよと言いたげな微笑があった。
「確かにここの掃除は僕と君の2人で手は足りる。でも、ユーグ、今回は何も言わずにおいてくれないか。今のシスターにはこういう単純作業が有効なのでね」
そう言われてしまってはさらに言える言葉はなく、3人はそのまま掃除に取りかかった。
「ほらね、ユーグはこの分野でもなかなかエキスパートなのだよ」
この分野とは『掃除』のことか。楽しそうにあちこちの棚をかき回しているウィリアムのそばで少女は感心したような視線をユーグに向けている。それを少々 こそばゆく感じたユーグは少女に向かって嬉しそうにあれやこれやと解説を加えているウィリアムは放っておいて、床磨きをはじめることにした。
モップを取り出したユーグは後ろからポチャポチャという水音を聞いた。振り向くと大きなバケツを両手で持った少女が立っていた。
「重いだろう」
静かにユーグが手を伸ばすと少女は重さから開放されて小さく息を吐き、微笑した。それから少女もモップを取り出し、2人は一緒に床を擦りはじめた。互い の動きを目で確認しあいながら作業を続ける2人は時折視線を合わせたが、どちらもが回数を重ねるにつれて穏やかに相手に目を向けるようになっていくのが見 て取れた。
「どうやら僕の不肖の弟子も、あの天使に落ちたみたいだな」
ウィリアムはパイプをのんびりと咥えた。数日前から気にかかっていた少女の身体を取り巻いていた緊張した空気は消えていた。
それからおよそ1時間ほど経ちだいぶ部屋の中が整然としはじめた頃、ドアをノックする音が響いた。正確に同じ一定間隔を開けた3回のノック。ユーグはそ の音を聞いた少女が顔を上げる様子を見た。その顔を通り過ぎたのは日の光・・・だっただろうか。
「入りたまえ、トレス神父」
ドアを開けた機械化歩兵は室内の人間1人ずつに視線を向けた。
「任務は無事に終了かね?」
「肯定。ミラノ公には報告を完了した。掃除か?“教授”」
「ああ。そうだ、ぜひ君の手を借りたいことがあるんだよ、トレス君。動かしたい棚があってね」
「了解した」
男としては小柄な部類に入る神父は示された巨大な鉄骨作りの棚に手を掛けたかと思うと難なく持ち上げ、歩調を乱すことなく指定された場所に移動させた。
「いやあ、さすがだねぇ。あ、ついでに奥にも動かしたいものがかなりあってね。君の武器や弾薬の場所も変えたいし・・・・」
あくまでも鷹揚に見せながら瞳を輝かせているウィリアムについてトレスの後姿は離れて行った。
「飛んで火に入る夏の虫・・・」
「適材適所とはこのことだな」
残された2人は互いの呟きに頷きながら新たに出現した綿埃を掃き出しにかかった。
機械化歩兵が少女を伴って出て行った後、部屋の様子を満足気に眺めた教授はゆっくりした動作でパイプに火を入れた。
「ああ、そちらもよい香りだ。君はお茶を淹れるのもなかなかの腕前だったな、ユーグ」
一働きしたあとには決まって紅茶を欲するというこのアルビオン人の典型のような嗜好をよく知っているユーグは湯気が上がるカップを2つ、作業台に置い た。
「ユーグ、君はあのシスターをどう思ったかね?」
「どう・・・と言いますと、師匠」
戸惑い気味なユーグの顔を見るウィリアムは微笑していたが、その目だけは弟子の心を探る気配があった。
「・・・懐かしい人を思い出したかね?」
例えば兄を慕って後ろをついて歩いていた幼い妹のような。
しかし、ユーグは首を横に振った。
「ないとは言いませんが。だが・・・シスター・レイニアは少女と言うには複雑な気がします」
「うん」
ウィリアムは目を細めながら煙を吐いた。
「ミラノ公がおっしゃっておられたよ。あの少女を連れてきたのがトレス君じゃなかったらすぐにAx所属ということにはしなかったかもしれない、と。意味を お尋ねすることはしなかったがね、何となくわかるような気がするじゃないか」
ユーグはその言葉を吟味した。
トレスに問えば少女をローマに連れてきた理由はその未知の能力と体質が彼の唯一の主である高貴な女性にとって有益である可能性のため、と答えるだろう。 無表情に、躊躇いなく。
しかし、とユーグは思う。自分を機械と言ってはばかることがない殺人人形には人がギリギリまで追いつめられて心の底で一人叫んでいる声なき叫びを感じ取 る能力が秘められているように感じる。当の人形自身はあっさり否定するだろうしこの考えを噴飯ものだと思う人間も少なくないかもしれない。それでもこの感 じはユーグ自身がこれまでにトレスとともにいた時間から得たものであり確信だった。
そのトレスの前で少女は幸せそうな笑みを浮かべていた。
「レイニア君は今回トレス君とレオン君が任務に出てから、ずっと神経を逆立ててるような感じだったのだよ。その前の任務でトレス君は少しばかり多めに部品 交換が必要になったからねぇ。おまけにレイニア君を必要とする任務はここしばらくなかったし。そういうときは身体を動かして部屋を綺麗にしてすっきりする のが一番だ。一石二鳥だね」
「・・・あなたにとっては、ですね、師匠」
やわらかな視線を返したユーグにウィリアムは少々照れくさそうに顎を撫ぜた。
「いけないな、お茶が冷めてしまうじゃないか」
一緒にカップを持ち上げた師弟はほんの一時心を許しあう笑顔を交わした。