そこに居る

イラスト/森の奥底  見えそうで見えなくて、それでもそこに存在があるような気がして。
 目を開けて布団をずらして少し待つと、窓から差し込む光の中に浮き上がる微細が見えた。光の中で踊る銀色と透明をあわせたようなそれは生きているように 上を目指す。空気の流れに踊らされているのだと今はわかるけれど、幼い頃にはその行き先を知りたくて涙ぐむまで目を凝らした。

 でも、変わらない感覚もあり。
 瞳に力を入れていると、ふと、何かが見えそうな気分に襲われる。
 何か居る。
 視界にとらえることは出来ないけれど、居る。
 確かに気配がある。

 けれどそのことは誰にも言わない。今は、もう。
 言っても受け止めてくれる人はいない。ましてや見える人もいない。言えば言うだけ人は遠のき、或いはすぐそばに来て心を痛める。どちらの場合ももう繰り 返しはしたくない。

 ふと振り向きたくなった時、そこに居るのは何だろう。
 思えばこんなにもその気配を感じるようになったのはここ数日。そのためか繰り返し幼い頃の夢も見る。指の間を伝う砂の感触に空から落ちてくる雨の匂い。 全部いつの間にか忘れていた感覚の記憶。それがどんどん戻ってくる。差し出されるあたたかな夕餉の湯気の中に見たしあわせの記憶まで。

 原因は場所なのだろうか。
 数歩踏み込むと滴るような緑に出あった山の麓。子供の頃に1度だけ会ったことがあるはずの大叔父の小屋。突然に遺されたこの場所は隅々まで物を整理した 跡があり、叔父が過ごした年月を語るものは残されていない。
 ただひとつ、この山のように深い、深い、緑の盃がひとつだけ。窓辺に向いた書き物机の真ん中にぽつんと置かれて息をしていた。

 ここに来てから初めての雨。
 雫が落ちる音を聴いているとどうしても行かなければならない気がした。
 どこへ?
 外へ。気配がする方へ。

 名残の落ち葉と新しい緑。濡れてしまえばどちらも足を滑らせる。
 肌を覆いつくすような空気の密度。
 着の身着のままで出てきた自分が浅はかだった気もするが、何をどれだけ着込んでも結局は同じだろうという気もする。
 目の視覚、耳の聴覚、鼻の嗅覚。それだけでは足りない気がして手を伸ばして前に進んだ。指先が震えるのは感じないようにしている期待の証。今度こそ、触 れることが出来るかもしれない。そこに居るものたちに。

 目の前に1本の倒木が現れた。
 腐り始めた部分に大きな虚があいている。

 居る。
 そこに居る。
 感じる。

 近づいてそっと手を伸ばすと指先に冷たく焼ける感触があった。

「それ以上はやめておけ。超えちゃならない領域みたいなもんだ」

 横からのびてきた手がわたしの手を押さえた。
 静かな声が耳に流れ込んだ。
 横に立つその姿を目に映しながら、わたしは一瞬言葉を失っていた。
 白い髪。
 空を切り取ってきたような透明感がある瞳の色。
 重ねられた手から伝わるかすかなあたたかさ。
 男の目はわたしの手のさらに先、虚の中を見つめていた。
 何かを見ている。確かに見えているものがあるのだ。わたしには見えないけれど存在だけを感じさせるそれ。

「・・・見えるの?」

「ああ。あんたには見えていないんだな、そこに居るのがわかっても」

 そこに居るのが。

 当たり前のように言われた言葉。
 心に、身体に、記憶に押し込んできた想いがその言葉を引き金に弾けた。
 気がつけば頬を濡らすのは雨ばかりではなく。頬を伝う熱さを無言で許した。
 男はそんなわたしの状態に気がついた様子は見せず、ちょっと視線を落とした後はまた前を見た。

 雨が上がった頃、わたしの涙も乾いていた。
 男の横顔は静かで視線の先はとても遠いように思えた。

「超えたら・・・・どうなってたの?」

 ああ、と男は思い出したようにわたしの顔を見た。

「相手にもよるけどな。この場合はあんたは飲み込まれちまってただろうな。この場所は人間よりも遥かに自然に近いものの方が存在として強いから」

「そこにいるのは・・・・何?」

「蟲、と俺たちは呼んでる。近づいても無害な奴も多いが、危険なものも多いから触れちゃいけない。見えない分、ちょっときついかもしれんがな」

「見えたほうが楽?」

 男は目を細めた。今、彼の頭の中に蘇っている記憶はどんなものなのだろう。覗けるものなら・・・・それともそれがかなわないのは幸いなのだろうか。

「俺は自分がいるこっち側しかわからないからな。あるがままになんとかやってくだけなんじゃねぇのかな、みんな。あんたはずっと見たいと願ってきたみたい だが、見てみたら案外見なければ良かったって思うかもしれないぜ」

 不思議なこの人の声に含まれている笑みは耳に心地良い感じがした。

「あなた、誰?」

「ギンコ」

「え、女なの?」

 驚いて思わず声を大きくするとギンコは肩をすくめた。

「男だよ、あんたが思った通り」

「どういう字を書くの?」

「カタカナだ、今は、多分」

「多分・・・・・?」

 ギンコが口に咥えている煙草の先から流れる煙が妙な動き方をした。生きているみたいだ。

「気がついたらこの名前だったからな」

 その口調からギンコには今言うつもりがないいろいろなものがたくさんあるんだろうと思った。どこから来てどこへ行くのだろう。定めた場所があるのだろう か。

「叔父さんの小屋はどうするつもりだ?」

 ギンコの言葉は何か事情を知っていることを思わせる。事情を知っていて、もしかしたら確かめに来たのかもしれない・・・わたしの様子を。そんな気がし た。

「時々ちゃんと掃除をしに来て泊まって。そんな風にしていくつもりよ」

「そうか。じゃあ、また会うこともあるかもしれないな」

 それが別れの挨拶であることに気がついたのは、ギンコが片手を上げて薄く微笑んでからわたしに背を向けた時だった。

「ギンコ、あの・・・・」

 何を言うつもりなのか自分でもわからないままに掛けた言葉は宙でギンコのものと交差した。

「あの小屋で一番見える可能性がある蟲は、そいつはあんたの・・・・・・」

 最後がよく聞こえないまま、後ろ姿は緑の中に消えた。
 渡し損ねた言葉はわたしの名前。でも。ギンコはとうに知っていたのかもしれない。
 受け取り損ねた最後の部分はひとつの予想すら浮かばない。自分にはいつか蟲を見えるようになる可能性があるのだろうか。ある人間にとって特別な蟲という ようなものがいるのだろうか。
 ギンコが残した言葉の謎は自分で見つけたい気がした。もしも見つからなかったら、いつかギンコと再会した時にきけばいい。先ずは小屋であと何日か暮らし てみよう。

 予感とともに空を見上げると、瞼の上に雨粒が落ちた。
 ギンコも濡れないように足を速めているだろうか。滑らないように気をつけながら濃い緑の匂いの中を一心に駆け抜けた。

2005.4.16

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