夏はまだ。遠くはないが近くもない。間に長く続く雨の季節が待っている。
それでも太陽は雲の隙間から夏を思わせる強い陽射しを降り注ぎ、陽炎をいくつも立ち上らせていた。
店屋の主に教えられて来た川を見下ろして、男は1本煙草を咥えた。
川べりに、彼の探しものと思われる小さな後姿があった。袖なしの白いシャツが日焼けした肌の色と対照的で、黒い髪の毛が陽光の下で焦げ付きそうに見え る。その少年は休むことなく規則正しく両手を動かしていた。左手で身体の脇にある石を拾って右手に渡し、右手はそれを強く地面に投げつける。慣れきった滑 らかな動作の繰り返し。
(ふぅん・・・・)
男は煙草に火をつけるのをやめ、そのまま細い道を川べりに向かって下った。
「石投げなら水を狙った方が面白いんじゃねぇか?」
男が声をかけると少年の背中が大きく揺れた。それでもまだ幼さの残る両手は動きを止めなかった。黒い瞳がそっと男を見上げた。そこには強い好奇心があっ た。
「変わってるって言うだろ、みんな、あんたのこと」
少年のものの言い方は大人びていて黒く焼けた元気な姿とは相容れないもののようにも感じられる。
(なるほどねぇ)
「お前もきっと言われてるクチだな」
男は少年の隣りに腰を下ろした。その時、何かが彼の中にある深いものに触れた。すばやく周りを見回したが目に留まるものはない。
「その髪と目・・・・・あんた外の国の人?」
少年の目は男の真っ白な髪と緑色の目を交互に眺めた。
「いや。俺はずっとこの国にいる。蟲師だ。おまえの様子を心配した大人に頼まれて来たんだが」
少年の表情が曇り、顔はうつむいた。
「でも、オレは石を投げなくちゃいけないんだ。わからねぇけど、そんな気がするんだ」
「ん・・・」
男はちょっと前に感じた気配を探りながら少年の横顔を見た。石を拾って投げるその動作には迷うところはひとつもない。そうすることで何かを求めているよ うな感じすら受ける。強く投げられた石はかなりの確率で二つ以上の欠片に割れた。少年が投げた先には想像を超えた量の欠片が広がっていた。
(・・・人に石を投げさせる、なんていうおかしな蟲は聞いたことがないしな・・・・。狐つき、とかそういう類の話に近いんじゃねぇか・・・?)
常人の目には見えぬもの。
見えないけれど確かに存在している古くからの生き物たち。その種類も性質も様々で、その「蟲」を見てきた何人もの蟲師たちの知識を合わせても恐らく全体 から見ればほんの少しの領分に過ぎないだろう。その蟲が強く意識されるのは人の生活のどこかに自然と絡んでしまったときなのだから。超常の現象として。
「石、ねぇ」
男はすぐそばの石を一つ拾い上げた。上流から流されてきた証である丸みを帯びた形と驚くほどにつややかな表面。
気がつくと、少年が彼を見守っていた。男は反射的に石を強く投げた。彼を見る少年の瞳は常人のものそのものに見える。ではこの子どもに石を投げさせてい るのはなんなのだろうか。
「おまえ、いつから・・・・」
男が口を開いた時、少年が次の石を拾った。その瞬間、男の首筋に走った感覚は疑うことなく・・・・・
「待て、そいつを・・・・・・!」
しかし、小さな手は動作を止めることなく、疑問に満ちた顔を男に向けたまま少年は石を投げた。
パンッと幽かな音が響いた。
(あ・・・・)
男の目に立ち上る一筋の陽炎が見えた。その陽炎にはごく僅かに空に近い色があり、軽くしなやかに揺れると風に逆らうようにすぅっと真っ直ぐに昇って行っ た。真っ直ぐ天を目指すように。
男と同じ方を見る少年は瞳を大きく見開いていた。いつの間にか、手の動きが止まっている。
「見えたのか?」
男が声をかけると少年はぼんやりと男の顔を見て、それから大きく一つ頷いた。
「・・・・あれが、蟲?」
「ああ、多分な。俺にも初めてのヤツだ」
陽光が眩しすぎて蟲の後を目で追うのはすでに困難だった。それでも2人はしばらく黙って空を見上げていた。
「お前、蟲を見るのは初めてか」
「うん。今まで、いるってことも嘘だと思ってた」
男は煙草を咥えて火をつけるとゆっくりと煙を吐き出した。
「アレは帰りたかったのかもしれねぇな。長い時間をかけて閉じ込められた場所から出ようともがいてて・・・それがお前に聞こえたのかもな」
「そいういうのってあるの?」
「さあな。ないとも限らないだろ」
男が立ち上がると少年も慌てて飛び上がった。
「なあ、あんた、あの・・・」
口ごもる少年の顔を見て男の唇がわずかな曲線を描いた。
「ギンコだ。俺の名前」
少年の頬が赤らんだ。
「オレは太一だ!・・・ギンコ、あの、またここに来るか?オレ、もっともっと蟲のこと・・・」
ギンコは手を振ると土手を登りはじめた。
「用事が出来たら近くを通りかかることもあるかもしれん」
「ギンコ!」
「石を投げたくなったら連絡を寄こせ。蟲の中には怖いやつも多いからな」
「ギンコ・・・!」
土手を登りきったギンコは一瞬振り向いてまた手を振った。
「じゃあな、太一」
太一は土手の向こうに消える後姿を見つめていたが、急いで自分も土手を駆け登った。のんびりした足取りに見合わずギンコの姿はすでにかなり離れていた。 これまでに見たことのない髪の色と瞳の色を改めて思い、それ以上に印象が強いあの笑顔に思いを飛ばした。
少年は最後に呼んだ。その蟲師の名前を。
のんびりした返事が聞こえたようなそうでないような。確かめるにもすでにその姿は見えなくなっていた。