雪 片

イラスト/襖と一輪挿しの椿の花  カタタ
 カタタタ
 ・・・

 幽かな物音がどこか片隅から響いて止んだ。
 寝具の中で瞳を開いた娘は無意識のうちに枕もとの煙草盆の上に手を伸ばした。飾り気のないすっきりとした形と色を備えた煙管を生来の色のみが浮かぶ唇に 咥えたその時、娘は音の正体に気がついた。いや、願ったといったほうがいいかもしれない。直感と希望が結びついたその感覚は今は一見極めて穏やかな日々を 送っているように見える娘の表情に一刷毛の紅を刷いた。娘はまだ火をつけていない煙管を置いてすっと文机に向かって膝を進めた。
 その部屋には違和感を感じさせる余地がないほど巻物と書物が自然に片隅に広げられていた。しっかりと結び紐で閉じられたものも多く、机の上に硯も筆も見 当たらないことのほうが不思議であるように思えた。
 娘は机の端に置かれた小箱を手に取り、するりと蓋を引いた。小箱の中にはきっちりと栓をした竹筒があり、軽い音とともにその栓を抜いた娘が左手の上でそ の筒を傾けると、張子細工のように紙を巻かれた卵形の小さなものが静かに現れた。日々を日常の喧騒の中で忙しく過ごしている人々の中には恐らくほとんどこ れの類を目にした経験はないはずのそれを、娘はそっと握りしめてから天辺の紙を小さく剥がした。その下にある微小な穴にその繭とともに渡された中身をつま み出すための刺抜きのような道具の先を静かに差し込む。その先から確かにそこに何かが存在している感触が伝わってきたとき、娘は深く短い息を吐いた。

 「今度だけな」、とこのウロを置いていった男はこれを残していく訳を言わなかった。元より蟲に関する話以外はあまり多くを口にすることがない男だったか ら特にそのことを不思議とは思わず、ただ受け取ったそれを文机の上に載せた。いつも不定期に姿を現す男は会うたびに変わっていないようにも思えるのだが、 恐らく語ってくれる話以上に様々なことを越えてきたに違いなかった。蟲ばかりを相手にしているのではない。時には同じ人間に対する気遣いに心を砕き、強い 言葉でやりあうこともあるらしい。それは人の中にありながらとても孤独な姿にも思えた。それを思うと娘は己の戦いを続ける意味を改めて感じ取る。人の四代 という月日をかけて続いてきたたったひとつの種の蟲との戦い。禁種のそれは世にあるすべての生命を奪いつくそうとしたというが今はただ娘の足の墨色を下部 分にのみその存在の証を示し、この狭い別邸で地下に眠らされるのを待っている。蟲師という特殊な能力を生業にしている少数の人間たち以外にはもう知る者も いないだろう。一人でしか相手をできない。託された運命があまりに重いものに思えるときもあった。

「まだ老婆になるまでには先がある・・・お前が無事ならそれでいい・・・」

 呟いた娘はそっと息を抑えながら繭の中身を引き出した。出てきた紙には文字の断片が覗いていた。男に言われたようにすぐにしっかりと封をした繭を筒と小 箱に戻してから、娘はその紙を開いた。小さく皺が寄っていた紙切れは手のひらほどの大きさになった。

「・・・雪、なのか・・・」

 その紙に文を綴ったときの天候が記されていた。他にはほんの数語、男が出会った蟲の名前と性質が書かれていた。それだけだった。これならば今度あったと きに口で語ってもよいのではないか・・・そうも思える内容だった。
 娘は文の最初に書かれた自分の名前を見た。他と比べて墨が滲んでいる文字はひとまわり大きく、飾らない線がどこかぶっきら棒な男の声を運んできたように 思えた。それから文の終わりに書かれた男の名前を見た。簡単で画数のない三文字。素っ気無い直線の集いが目に柔らかく映った。

「お目覚めでしたか、お嬢さん」

 襖の向こうから顔を覗かせた老婆から今煮炊きしている最中であろう複数の種類の料理の匂いが漂ってきた。

「私一人なんだ、たま。特別なものは何もいらないのに・・・・毎年言ってることだがな」

 半分あきらめたように微笑みかけた娘に老婆もわずかに目を細めた。

「普段のものにほんのちょっとだけ付け足したくらいでございますよ。これも毎年申し上げておりますがね」

 若い頃は蟲という異形のものと顔をつき合わせて生きてきたこの老婆は娘のそばに仕えるようになってからも気持ちも声も身体にも年齢を超えた張りを失って いない。娘が文机に向かうときの気持ちを誰よりもわかっている存在だった・・・・男と出会うまではただ一人の。
 老婆は娘が手に持っていた文については何も言わず、ただ、静かに火鉢に炭をくべた。

「あまり根を詰めないようになさいませ。あと数刻で新しい年がやってまいります」

「新年か。今年以上にこの蟲を眠らせることができるといいがな」

 自分の墨色の足を手で押さえた娘は淡く微笑んだ。



 全身に文字の形をとって浮き上がった異形を紙に写し取りながら、娘はほうと息を吐いた。そろそろ今日はこのあたりで仕舞いにしようか。恐らく今頃は出来 上がった料理が器に盛られて湯気をたてはじめているだろう。痛みをこらえて唇を噛んだ娘の身体の表面から墨色の文字がすべて消えたとき、静かに襖が開き老 婆が顔を出した。

「どうした?たま」

 老婆の顔に浮かんでいる表情は見覚えがないもので、それをどうとらえたらよいかわからない気がした娘は小さく首を傾げた。その娘の姿に幼い頃の面影をみ た老婆の表情が一瞬あたたかく崩れた。

「・・・ギンコがきております、お嬢さん」

「・・・ギンコが?」

 問い返した娘の声に感じた明るさと娘の唇に浮かんだ微笑を老婆は静かに見て取った。

「こちらに通るように言ってまいりましょう」

 立ち上がって離れていくその後姿を目で追いながら娘は煙管を手に取った。しかし、火をつける前に暗い色の外套に身を包んだ人の姿が娘の前に影を落とし た。

「あれ、ちゃんと届いたか、淡幽」

 開口一番、男は言った。
 再会の挨拶でも、まして帰還を告げる言葉でもなかったそれは気がつかないうちにどこか緊張していた娘の気持ちを一気に解きほぐした。娘は小さく笑った。

「文なら今日届いたぞ。ちゃんと言われたようにまたウロに封もした。心配していたのか?書かれていたのは天候と蟲の小話だけだったが」

 娘の言葉を聞いた男は大きく息を吐いて腰を下ろした。その様子に娘は再び首を傾げた。

「届いたのは今日か。・・・ってことはやっぱり無理だったんだな」

「・・・何のことだ?意味がわからんぞ、ギンコ」

 男は頭を数回掻くと胡坐をかいた。

「雪、入れたんだ。ウロさんの機嫌がよかったら溶けないうちに運んでくれるかと思ってな。あいつらが使う道の長さや移動する速さはまだよくわかってないし 気まぐれだから、ちょっと実験してみる意味もあったんだが。・・・・お前、雪を見たことがないって言ってたろ?出向いた先が雪国だったから」

「私に雪を・・・・?」

「・・・失敗だったみたいだがな」

 視線を合わせた二人は同時に微笑んだ。不器用な笑みはどこか似ていた。

「そう言えば、書かれてあった私の名前のあたりが他と比べるとずいぶんと滲んでいた。あれは溶けた雪のせいだったんだな」

「小さいが結構硬く握っておいたんだがなぁ・・・」

 ため息混じりに男は煙草を咥えて火をつけ、娘も煙管を咥えた。
 その時、食欲を誘う匂いが部屋に流れ込んだ。二人分の膳を載せた盆を持った老婆が部屋に入ってきた。

「あ、夜更けに悪かったな、おたまさん。すぐ出るから。明日出直させてもらうよ」

「ギンコ・・・」

 言葉の先を飲み込んだ娘の顔を一瞥した後、老婆は膳のひとつを男の前に置いた。

「少々作りすぎたと思っていたところだ・・・お嬢さんと二人では食べきれないほどにな」

「え・・・・」

 戸惑うような男の目に娘の微笑が映った。

「たまの許しが出たなら遠慮することはない。毎年年が暮れて明ける時にはな、たまと二人でいろいろな話をしながら過ごすことにしているんだ。今年はお前も 一緒なのだな・・・ギンコ」

 それでもまだ立ち上がりかけた身体をそのままにしている男に老婆はじろりと短い視線を送った。

「こんな夜中に宿を貸す家もあるはずもない。人に迷惑をかけたくなかったら、素直に好意を受けておけ。ほら、そのくたびれた外套を脱げ。・・・言っておく が、酒は杯に一杯の祝い酒のみ。期待はするなよ」

「あ・・・ああ」

 ようやく腰を下ろした男は恐らくもう一人分の膳を取りに出て行った老婆の姿を見送った。

「珍しいな、おたまさんが・・・・」

「年越しは年に一度だからな」

 もしかしたらこの男と年を越せるのはこれが最初で最後かもしれない。ふと娘は思った。娘の身体を侵食する蟲は娘の努力しだいでまだ抑えていくことができ るだろう。でも、この男が身をおいている世界は。そこにはまだまだ正体が知られていない蟲も多く、知っているつもりの蟲にしてもその深さは底が知れない。 男を取り巻く危険の度合いは想像するのが恐ろしいものだ。
 それでも。娘は思う。生きていろ、ギンコ。娘の足が自由を取り戻すその日まで・・・いや、もしもそれが間に合わなくて娘の存在が尽きた後も。

「やっぱり本物がある場所に行くしかないな」

 男の呟きに女は瞳を見開いた。

「今のうちにちょっとでも足腰を鍛えておけよ。雪の中を歩くのは慣れないと意外に難儀だぞ。まして婆さんと爺さんの二人連れならな」

 二人でのんびりと曲がった腰を伸ばしながら真っ白な雪原に足跡をつける。
 娘はその光景を想像して微笑んだ。気持ちがふわりとあたたかさに包まれた。

「その頃には私の髪も白くなっているかもしれないな」

 こうしてのんびり語り合いながら新しい年を迎えよう。のぼる朝日はきっと例えようもないほど明るくて眩しいに違いない。
 娘は結局火をつけないままの煙管を置いた。今は必要ではない。これ以上は何も入らない。己の中の充足感を噛み締めながら娘は静かに眼を閉じた。
 その娘の姿を映した男の澄んだ色の瞳はやわらかな光を浮かべた。

2005.12.22

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