戻った街に残る大波の傷跡を見た時、パウリーの胸を通り過ぎたものは後悔に似た色をしていた。意外だった。アイスバーグを傷つけ、裏切り、去ろうとしてい た者たちを追うために海列車に潜り込んだ時には生きて戻ることは出来ないだろうと心のどこかで信じていたのだ。それをようやく実感している。
追って行ったことを後悔はしていない。
この街を離れて大波の中に放り出して行ったことだけに後悔があった。
自分達が直接身体で感じたあの脅威を受けとめた時、街は揺れただろうか。騒いだだろうか。尊敬してやまない一人の船大工・・・市長という職も兼ねている 人物ではあったが、パウリーの中ではその存在はいつも、いつまでも船大工だ・・・が島に残っているという、ただそれだけのことに心を支えられてパウリーは 無謀としか思えない追跡に走ったのだ。そのことをもまた、今ようやく実感している。
瓦礫と化した裏町。
崩れ落ち、以前と比べるとあまりに簡素で小さなプレハブ小屋に取って代わられている本社。
すっかり様変わりしてしまったこの島で、この街で、自分はなぜこんなものを見つけてしまうのだろう。
見下ろすパウリーの表情には他の全ての感情を覆い隠す静かな驚きだけがあった。
給料日だった。ドック全体が早仕舞いの日だった。
1番ドックの連中のほとんどは多分もうブルーノの店に着いている。まだまだ明るさの残る午後から懐もあたたかく酒を飲む。一杯飲んで勢いをつけて別の場 所へ飛び出していくのもいい。時々外に出て日向ぼっこでもしながら長くのんびり飲むのもいい。そんな輪の中に加わろうと、パウリーは早足で道を歩いてい た。
給料日は借金取りとデートの約束をしたも同然の日。巻くのにどれだけ時間がかかるかはパウリーの知力・体力と運しだい。その勝負に勝った今はこの上なく 気分爽快、足取りも自然と軽かった。
そして、運がある日というのはどこまでも幸運なのかもしれないと。一人の男の後姿を見つけたパウリーは葉巻を咥えなおして大股で走った。
「ルッチ!めっずらしいなぁ、お前も行くのか?ブルーノのとこ」
パウリーは知らない。ルッチがパウリーが気がつく遥か前にパウリーの存在を感じて気がついていたこと。パウリーに見つかる前に姿を消すべきかどうか迷う 己に心の中で苦笑していたこと。
『・・・帰るところだ・・・買い物をしてからな』
「買い物?食い物か?」
『・・・ガキか、お前は』
子どもの頃に自分はどんな風に飢えを感じていただろう。そもそも、感じたことがあっただろうか。人為的に与えられた飢えの記憶のみが蘇り、自然なそれの 記憶はひとつも浮かんでこない。ルッチは隣りに並んだパウリーの顔を見なかった。
「え・・・!じゃあ、女か?!とんでもねぇぞ、このハレンチ・ルッチ!」
一足飛びに見当違いも甚だしい結論に飛びついて何を一人で慌てているのだろう・・・この子どものままの・・・太陽のような男は。
ルッチはため息をついた。
『俺が買うのは衣類だ。好奇心が満たされたんならさっさと酒を飲みに行け』
「お、なんだ、服かよ。ったく、おどかすなよな〜」
お前が勝手に騒いでいただけだろう。大体、給料日に自分が稼いだ金を握りしめて男が女を買いに行くというのは特に驚いたり騒いだりする事柄でもないはず だ・・・・多分。
ルッチは頭を小さく左右に振り、そのまま歩き続けた。
「お前、どんな店で買ってるんだ?その白シャツと黒ズボン。もしかして、タッポーの店とかか?あそこはわりといいのがバカ安で売ってるよな!」
タッポー?
ルッチは黙って歩き続けた。半歩の更に半分ほどを追うタイミングでついてくるパウリーの足音と体温を感じていた。不思議とわずらわしくはない。
「俺のこのジャケットはなぁ、あの店で一目で気に入っちまってよ。葉巻を上手い具合に仕舞えるようにちょっと工夫してもらったしな」
それにロープもだろう。ルッチは思う。そして閉じた唇に軽く力を入れる。パウリーの身体のどこにどれだけのロープが仕込まれているのか、ほんの時たまで はあるが思わず疑問を口にしてしまいそうになる時がある。今のように。
「おい、タッポーはこっちじゃ・・・・って、待てよ!おいこら!そこはこの街じゃ3本の指に入る高級な・・・・」
無意味に思えるパウリーの騒々しさにはかまわず、ルッチはさり気なく開かれたドアから店の中に入って行った。
「そういや、あいつ、他所から来たんだったよな・・・・やべぇぞ、ここは俺が何とかしてやらなきゃな」
ぶつぶつと呟きながら小走りに後を追ったパウリーだった。
けれど、深呼吸までした後で飛び込んだ店の中で見た光景はあまりに静かなもので。
「できておりますよ、ルッチさん。今回も3着ずつ仕立てておきました」
静けさを切り取ったような所作の小柄な老人がルッチの前に大きなトレーを持って立っていた。トレーの上を一瞥したルッチは小さく頷いた。
「お前・・・・初めてじゃなかったのかよ、この店・・・」
地味なことこの上ない白い袖なしのシャツに黒いスラックス、サスペンダー。目を丸くしたパウリーの前で老人が丁寧に包んでいるのはまさしく見慣れたルッ チの服装そのもので。パウリーは包みを受け取るルッチのどこか優雅にさえ見える無駄のない動作にいつのまにか見とれていた。
『葉巻が落ちるぞ・・・口を閉じろ』
まるで大人が子どもに言うような口調に感じられたルッチの言葉に腹も立たず。
パウリーは無言のまま店を出るルッチの後ろについて歩いた。
「・・・ただのシャツにズボンだろうが・・・」
『素材の布地と糸、針目の組み合わせが心地良い』
「・・・ったくよぉ。どうせ仕事で毎日汚しちまうんじゃねぇか」
『汚さぬ衣類に意味があるか?』
「・・・わかんねぇ。でもなぁ、あの店はきっと俺には一生縁がない場所なんだろうなって思ってたんだよ。入ってみたらよ、意外と普通に感じいいのな」
『相手も職人だ』
「そっか、そうだよな!いやぁ、お前、すげぇな!」
何がだ。
どうやら何か訳の分からない理由で真剣に気持ちを昂らせているらしいパウリーの顔にちらりと視線を向けたルッチは、その満面の笑みを心の中で受け止め た。
パウリーはなぜか嬉しくてたまらず、ひとつ、いいことを思いついた。
「おし!今度はちゃんとタッポー行くぞ!ほら、こっちだ。ついて来いって」
なぜそうなる。
この上なく冷ややかな視線を向けたルッチと思いつきに胸を躍らせているパウリーの笑顔が正面から向き合った。
脳天気な太陽と闇。ルッチはため息をついた。いつかは自分が生きてきた場所、背後に常に存在する闇にこの男を飲み込んでしまうときがくるかもしれない。 そうしたらこの太陽はどうするだろう。絶望するのだろうか。それとも、人間らしい怒りを届かぬ彼にぶつけたいと願うのだろうか。
今はいい。
眩しいばかりの陽光に肌を晒してやるのも潜伏期間なら任務のうちだ。
胸のうちで囁いた『理由』に束の間心を預けた。
ルッチが素直に足を向けるとパウリーはまた嬉しそうに笑った。
「さあ、好きなヤツがあったら言えよ。今日は俺がお前に上着、一枚、買ってやるからよ!」
だから、どうしてそうなる。
ルッチは傍らの喜色満面男に凍りも震えるばかりの視線を向けた。
確かにパウリーがルッチを連れてきたこの古着屋は品数が豊富そうだ。色とりどりなペンで書かれた値段も冗談かと思うほど安い。色や型に統一性も一貫した 好みの存在もまったく感じられない衣類の洪水。軽い眩暈を感じたと思ったのは錯覚だろうか。ルッチは上機嫌そのもので店内にディスプレイされている服を見 て回りはじめたパウリーの姿をただ目で追った。
「遠慮すんなよ!お前、さっきの店でシャツとズボンに結構大金はたいただろ?俺はよ、ほら、まだ給料丸ごと手付かずだ。お前らしいヤツ、買ってやる」
給料日に服を買ってやるなら普通は女が相手なのが自然ではないか。恋人、妹、母親・・・なんでもいい。まあ、性別はどうでもいい。ただ、血でも気持ちで も何かひとかけらの繋がりがある人間を相手にするべきだ。本来の姿のときも決して饒舌ではないが無口でもないルッチは、パウリーに言う言葉を見つけられな いでいた。
「お、これ!これ、いいんじゃねぇか?ルッチ!似合いそうだぞ、お前に」
似合う、か。
聴きなれない言葉に過敏に反応しかかる心を殺したルッチはふわりと身体と視線をパウリーの声が聞こえてきた方向に向けた。
そして、一瞬すべての動きを止めた。
『・・・パウリー・・・』
パウリーがどこからか引っ張り出して嬉しそうに両手で振り回しているそれは黒地に薔薇の花をペイントした革製のジャンバーだった。ポイントとしてあしら われたチェーンがパウリーの腕の動きにあわせて軽い音とともに揺れている。
「どうだ、これ?お前も気に入ったか?」
黒地に薔薇。
ルッチの言葉も合図も待たずにハットリが頭と羽を横に振っている。この相棒は賢い。目の前で尾を千切れんばかりに振っている犬のごとき様相を見せている 金色頭の船大工とは比べ物にならないほど賢い。
『念のために聞いておこう・・・・。これは、冗談か?』
「はぁ?何言ってんだ、ルッチ。俺はよ、前から気になってたんだよ。お前、寒そうな顔とかちっともしねぇけどな、結構やせ我慢してる時もあるんだろ?やた ら丈夫で強くてぶん殴っても顔色一つ変えねぇヤツだけど、なんかよ、ほっとけねぇ感じがする時があるんだよ」
『真面目だと言うんなら・・・・とにかくほっとけ。俺に構うな』
「って言ってもよ、勿体ねぇじゃないか、これ。絶対似合いそうなんだしよ」
薔薇の花がか。
『・・・もういい。俺は帰る』
背を向けたルッチの後ろでは一騒ぎが起こった。
「おやっさん、これ、ツケな!わかってるって、ちゃんと明日払うからよ!おやっさんのとこのツケは踏み倒したりしねぇ」
店主とパウリーの間で支払いに関する意見の相違があるらしい。これも日頃の行いのせいだろう。ルッチは無表情のまま歩き続けた。
やがて、派手な値札をつけたままのジャンバーを無造作に抱えたパウリーが息を切らせながら走ってきてルッチの前に回りこんだ。
「ほら、着ろよ。俺の見立てに間違いはないって」
『・・・他の誰かに見立てたことがあるのか?』
「いや・・・ねぇけどよ。まあ、その、照れるなって!」
顔を赤らめているのはパウリー一人なのだが。
ルッチは不機嫌に最大級に冷えた視線でパウリーの顔を射抜いた。効果は高く、ルッチが無言で前を通り過ぎても数秒の間パウリーは身体の動きを止めたまま でいた。
「おい・・・・、ルッチ!」
『知らん。お前が買った衣類はお前が好きにしろ』
靴音も高く離れていくルッチの後姿を目で追いながら、いつの間にかパウリーは自分がその背中に見とれていることに気がついた。慌てて自分の頬を一発手で 叩き、首を傾げた。
「・・・なんだ?なんで俺・・・」
自分の中に湧いた疑問の答えをパウリーが見つけるまでにはそれから半年あまりを要した。
「ったく、なんでこんなもんが無事に残ってんだかな・・・」
半分崩れた部屋、崩壊したクローゼット。泥と潮の匂いがするぐちゃぐちゃになった衣類の一番上にのっていた黒い革ジャンバー。白い塩の結晶で粉をふいた ように見える表面には花開いた薔薇がペイントされている。
何年か前。今は遥かに遠いことに思えるあの給料日にルッチに買ってやったもの。あれからずっと受け取ることを拒否され続けてきた日々の記憶さえ今は泥を 塗られてしまった。そのことを自分がどう思っているのか、今のパウリーには実はわからない。どんな言葉も彼の中の気持ちを言い表すことなどできそうにな い。
でも、これは。
パウリーはジャンバーを持ち上げた。少し湿っぽくて重い。彼が金を払ってからずっと誰にも着られることなく時間を過ごしてきたもの。これに罪があろうは ずもない。何もかもが壊れ、流され、失われていった中では貴重な衣類に過ぎない。ほんの少しばかりくっついている記憶という名の思い出は避けようがないオ マケみたいなものだ。
「・・・案外、俺の方が似合うかもな」
着ていた借り物のジャケットを脱いで、湿った袖に右手を通した。大きく羽織って左手も通すと重さが身体にのった。
ああ、これは・・・
パウリーは僅か3秒ほど目を閉じた。瞼の裏に過ぎった姿はひどく無表情だった。
許しはしない。
今どこにいるのか・・・命が残っているのかさえわからない。
そんな相手ではあってもやはり簡単に忘れることができるような男ではないのだ・・・ロブ・ルッチは。
パウリー
耳の中には二種類の声が蘇る。
何年も聞いてきた『ハットリの声』と、そして、本当のルッチの声。
ハットリの声が語ってきたものはそのすべてが嘘だったのだろうか。
パウリーは葉巻を咥えた。
立ち止まっている暇はない。街も彼自身も以前の姿を取り戻すだけでなく、さらに強くならなければならない。どんな大波が来ようともビクともしないですむ 存在に。
「もう・・・くれって言われたってやらねぇからな」
両手で襟元を自分好みに広げる。
パウリーの唇には微笑が浮かんでいた。
来れるもんなら取りにきてみやがれ
零れそうな光を浮かべた瞳は空を向いたまま閉じられた。