やはり、来たか。
不貞腐れていることが一目でわかる仏頂面を晒しながら部屋の前に立っているパウリーと向き合い、ルッチは不機嫌そうな顔をさらにじっくりと観察した。
ルッチの言葉を待っていたパウリーの視線は自然とハットリの嘴に移動し、それが動く様子がないことにさらに頬を膨らませた。やがてその喉の奥から搾り出 された一声は。
「・・・・なんでカクが当たり前みたいにお前の誕生日を知ってやがるんだ」
それはルッチの予想通りの言葉だった。
6月1日、深夜。
カクはどこかで職長達と飲んで来た帰りであることがすぐにわかる酒の香りを漂わせながらルッチの部屋を訪れた。その中にパウリーもいたらしいことをルッ チは葉巻の残り香から察した。だからどうということもない。黙っているとカクは帽子を抜ぎ陽気な動作でベッドの上に放った。
「風呂にはもう入ったんじゃろ?わしも借りるぞ。部屋の風呂は故障中で湯が出ないんじゃ」
時々、カクはルッチと2人だけの時には我侭を許されることを知っている子どものように振舞うことがある。そんなことを許されるのは自分だけだと知ってい て得意気に笑う顔は確かに幼かった日々にルッチの記憶に刻まれたものの面影が濃い。
「もうすっかり身体、冷めたじゃろ?一緒に入るか?」
こんな時のカクの笑みは子どもとも大人ともつかない色彩を纏っている。
ルッチは面倒臭げにガウンの紐を縛りなおした。
「一人で行け。好きにしろ」
「なんじゃ、つまらん」
笑ったカクはバスルームの前まで歩いて行きクルリと振り向いた。
「そう言えばな、わし、ちょっとばかりミスったかもしれん。パウリーのやつがあんたの誕生日がどうとかもぐもぐ喋っておったから、ああ、明日じゃな、2日 じゃろ、と返事をしたんじゃ。そしたらあいつ、目を真ん丸くしておったんじゃが・・・・わしはあいつはとっくに知ってるもんじゃと思っていたからのう。で も教えておらなかったんじゃな、ルッチ」
カクの真っ直ぐな視線にルッチは片手を小さく動かした。
「別に構わん。どうでもいいことだ」
カクの唇が弧を描いた。
「そうか?パウリーのやつには何かよく知らんがショックだったみたいじゃぞ。その後、やけ酒を飲んでおった」
興味はない。
ルッチの表情から無言の言葉を読み取ったカクは笑みを深めた。
「パウリーは今アイスバーグの一番近くにいる職長じゃ。それを考えないあんたでもあるまい?」
「・・・あれだけ外から中身がわかりやすい男にアイスバーグが肩の荷を分け与えるとも思えないがな」
「そして、そのことがあいつがあんたのそばに近づくことを許されている理由だとしたら・・・・正直、あんまり面白くはないのう。妬ける」
「的外れなお喋りはやめてさっさと湯を浴びて来い・・・・バカヤロウ」
「わかったわかった」
笑いながら浴室に姿を消したカクは結局その夜、ルッチのベッドを半分占領した。
まだ湿り気と石鹸の香りを漂わせながらベッドの中で身体を伸ばし、腕にはめ直していた時計を確認するとうつ伏せになってルッチの顔を覗きこんだ。
「誕生日じゃ、ルッチ。わしはあんたがどこかで生まれてくれて、出会えた時から一緒に大人になってくれたことにいつも感謝しとる。これまで言う機会はな かったし、これからもないかもしれないから今夜はどうしても言っておきたかったんじゃ」
ルッチはカクに背を向けたまま黙っていた。
カクはその沈黙を楽しむように微笑みながら仰向けになって天井を眺めた。
「わしのこの身体を今夜あんたに差し出しても構わないんじゃがのう。まだ触れる気にはならんか?」
「・・・ならない。これからも、な」
ルッチの手はまだ幼く小さかったカクの手を握った感触を今も覚えている。
何度も、何度も。今思えば不思議に思うほどカクと手を繋いで歩いたことがあった。内側に壊れかけた心と感情を抱えていた幼いカク。生まれて初めて他人に 手を差し伸べたちっぽけな己の姿を思うとひどく滑稽に感じた。
「そうなった方がいろいろ楽じゃし簡単だと思うんじゃがのう・・・」
「何もないのが一番簡単だろうが。もう寝るぞ」
「つまらんのう」
カクの呟きを聞きながらルッチは目を閉じた。
傍らに感じるカクの体温に遠い日の記憶を揺さぶられながら。
それが昨夜のことだった。そして今日、6月2日。ルッチは仕事の間ずっと無視し続けていたパウリーの周りに立ち込めていた空気を、今、目の当たりに感じ ていた。葉巻を口に咥えることも忘れて突っ立っているパウリーのふくれっ面。それでも律儀に両手にそれぞれひとつずつ紙袋を抱えている。中身はどうせまた 酒と食料だろう。本当に、律儀なことだ。
「・・・俺が何度聞いても教えなかったじゃねぇか、誕生日」
『・・・・まだ言ってるのか。ドアの前からどけ。俺は中に入りたいんだ』
口の中でまだぶつぶつ言いながら脇に寄ったパウリーは、当然のような顔をしてルッチの後ろから部屋に入った。その姿を一瞥したルッチはシルクハットを脱 いでベッドに腰を下ろした。パウリーはまた当たり前のようにキッチンカウンターに進み手に持っていた袋を置いたが、不機嫌な顔を保っていられたのはそこま でだった。コンロの上にのっている2つの鍋。その中身をリアルに想像してしまった途端、口元が緩んだ。
「・・・んだ、迷惑じゃなかったんじゃねぇか」
そっと蓋を開けて鍋の中身を確認すると、パウリーはドスドスと足音を立てながらベッドに座っているルッチに近づいた。
騒々しい男だ。
その足音がパウリー流の照れ隠しであることを承知の上で、ルッチは黙って歩いてきたパウリーを見上げた。
まず、両手を数回握ったり開いたりしてから意味もなくポケットの辺りを探る。それから上着に手を小さくこすり付ける・・・・残っている汚れを落とすよう に。
手を伸ばそうと考えた1秒後にそれを堪え、心持ち目を一回り大きく見開いてルッチの顔を見る。そこに現れているのは懇願の気配で、ルッチはここでいつも 笑い出したい衝動を覚える。
「た・・・誕生日、おめでとう、ルッチ・・・」
今日は余計な台詞がくっついてきたか。
ようやく顎に触れたパウリーの指先に逆らわずに顔を上向けたルッチはパウリーの唇を受け止め少しだけ熱を返した。
『お前のキスはとにかくタイミングが下手だ。さり気なさとかそういうものを身につけてみろ』
「んなこと言ってもよ・・・」
見事に顔面が紅潮したパウリーは眩しそうにルッチの表情を見つめながら手を離した。
あれから、1年だ。海に落ちたルッチを助けたパウリーがはじめてルッチの唇に触れた日。あの日、勢い余って歯をぶつけてしまったパウリーは後日、改めて ルッチからキスを学び、それから数回、ルッチに自分からキスをした。もう自分からはしない、と言ったルッチはその言葉どおり自らパウリーに口づけることは なく、ただパウリーの唇を拒まずにいつも少しだけ柔らかさを返した。
この1年の間の数回のキス。
パウリーは段々自分がルッチにキスを習っている見習いであるように感じていた。ルッチは彼からキスを受けても勿論うっとりした表情など見せてはくれな い。それどころか今のように批評めいたことを口にする。自分がいつまでたってもこんなに緊張しながらキスをするのはそんなルッチのせいなのだ。確信しなが らパウリーはそれでもこんな風に2人きりになる機会があるたびにそっとルッチに手を伸ばしてしまう。
このキスは何だ?
今は意味さえ見えなくなった。
自分の中の意味はわかっている。以前と少しも変わることがないからだ。ルッチを「好きだ」という気持ち。友人としてなのか、同僚としてなのか、恋をして いるのか。友愛も人間愛も性愛も思いつくすべての愛情を全部ひっくるめたような感情だと思う。日々強まりこそすれ冷めることなど想像できない強い感情だ。
しかし、ルッチは。最初にキスをパウリーにくれたのはルッチだ。だがそれは、パウリーの技術の無さに呆れたルッチが歯をぶつけられたことの仕返しにやっ たのだという記憶がある。それから、何回。いつも同じようにうっとりするような心地よさをパウリーに与えるルッチの唇。その感触に夢中にならずにはいられ ないパウリーが長くても10秒で口づけをやめるのは、ルッチが彼を見守っている視線を感じるからだ。いつも無表情なことが多い視線の中に感じる何か別の気 配。それが何なのか知りたくなって、その好奇心に救われる。そうでなければもっともっと彼一人だけがルッチとの口づけに与えられる快楽に溺れていただろ う。
ルッチはパウリーを見上げながら僅かに首を傾げた。
『どうした?酒の準備でもするんじゃないのか?』
「ああ・・・いや・・・そうなんだけどよ」
パウリーはガシガシと頭を掻いた。
「なあ、ルッチ。俺のキスって・・・っていうよりも俺たちのキスって何だ?このキスによ、何か意味とか続きとかそういうもん、あるのかな」
『お前が・・・女のように抱かれたいとか、女を抱くように抱きたいとか、そういうことか?』
ルッチが自分が座っているベッドを見やりながら言うとパウリーは飛び上がった。
「ば、バカ!なにハレンチどころじゃねぇこと言ってやがる。男同士だぞ、俺たちは。・・・・いや、正直、そういうのも含んでだけどよ。このキスって何か な・・・って時々気になるんだ」
『余計なことを考えるだけ無駄だ。お前はなぜ俺に唇を触れる?』
「・・・・そうしたいし・・・・気持ちいいから」
『それ以上に何が必要だ?』
「う・・・ん。確かによ、考えたって答えは出ねぇんだけどよ」
パウリーは躊躇いがちにルッチの表情を探った。
「お前さ、・・・・嫌じゃねぇのか?俺とキスするの」
『・・・・不快で不必要なだけならとっくに排除してる』
ルッチが言った途端にパウリーの表情がいっぺんに晴れた。その効果覿面具合にルッチは自分が口にした言葉を後悔さえした。
「そっか。うん、そうだよな!お前、強ぇもんな〜、俺と真っ向勝負できるくらい。大体、最初にキスしたの、お前だしな!」
『・・・・その前にお前が歯をぶつけたんだったと思うが』
「あれはお前が突然溺れたからじゃねぇか。くそ、思い出させんな!」
ふくれ面を見せたかと思えばおかしなほど慎重に唇を与えてよこし、何かに凹んでいるかと思えばすぐにいつもの脳天気な笑顔を見せる。本当に喜怒哀楽が忙 しい男だ。
ルッチは足早にキッチンカウンターに向かうパウリーの後姿を黙って眺めた。
「・・・あ!」
今度は何だ。
パウリーは声を上げ、頭をガシガシと掻いたかと思う間もなく紙袋の片方を抱えてルッチの前に戻ってきた。今度はいかにも意気消沈している。
ルッチは溜息をついた。
『・・・何だ、今度は』
「・・・これ、お前に。ほんとはよ、作ってから渡そうと思ったんだけどよ」
誕生祝の類なら受け取る習慣は無い。ルッチは無表情に紙袋を見た。胸のうちに湧き上がりだした慣れない感情は多分好奇心と言う名のものだろう。
何をしょぼくれているんだか、こいつは。
ルッチは再び口から零れた溜息とともに袋を受け取った。手触りからして中には瓶の類が入っているらしかった。酒ではない。中に液体がつまっているにして は重量が軽い。
ルッチは紙袋の中身をベッドの上に広げた。
ガラス瓶、長いピンセットらしいもの、たくさんの細かな部品をひとまとめにいれてある袋。
『・・・ボトルシップか』
パウリーはひとつ、頷いた。
「俺は指先の器用さなら結構自信あったんだけどなぁ・・・・・カクにお前の誕生日が今日だって聞いたのが夕べだろ?仕事は休めねぇし、まあ・・・間に合う はずもなかった。こいつを買ったのだってついこの間だったし」
昨夜、カクたちと飲んで帰ってから酔っ払いのくせに船を組み立てようとしたのだろうか。
カクだけがなぜ誕生日を知っているとか何とか口では文句を言いながら。
まったく、本当に、このパウリーと言う男は。
ルッチはベッドの上に設計図を広げ、部品を等間隔に並べた。
「おい、ルッチ・・・!今、作るのか?」
『・・・・お前は早く酒の用意をしろ』
「お、おう!」
ルッチは素早く設計図を記憶し、部品を眺めた。ピンセット一つでは少々頼りないように思えたので部屋を見回し、やがて鑢などをひとまとめにしてある船大 工の道具袋を引っ張り出した。
木製の部品の削りが粗い部分に鑢をかけていると氷の音をさせながらパウリーが戻ってきた。いかにも嬉しげに興奮に目を輝かせているその顔に、ルッチは短 く鼻を鳴らした。
「鑢は俺に任せてお前、組み立てろ」
瓶の口が通るように削られた木を積んでいき、船体を作る。
ピンセットを持つルッチの手は滑らかに動き、ひとつふたつと接着剤を塗った部品を積んでいく。やがて、瓶に目線の高さを合わせる必要を感じたルッチは靴 を脱いでベッドの上にうつ伏せになった。
「お前、上手いな〜」
無邪気に言いながらパウリーは次にルッチが使う部品を予想して先回りして準備する。
気がつけば床に座り込んだパウリーとベッドに寝転がったルッチの視線は瓶の高さとぴったり一致し、少し動かせば互いの顔が見えた。その視線で互いの次を 伝え合いながら作業を進める2人の前で、船は確実に形になりつつあった。
カラン。
氷の音をさせながらルッチの手がグラスを掴み、唇を触れて酒を飲み干す。杯を重ねても手元が狂うことなく無駄のない動きで船を組み立てていくルッチの 手。パウリーはいつの間にかルッチの唇と手に見惚れていた。それに気がついたはずのルッチは何も言わず、パウリーの顔を見ず、ただ黙々と作業を続ける。
静寂に満ちた時が穏やかに過ぎて行った。
目の前の船に集中しきったルッチの横顔を、パウリーは綺麗だと思った。
一人幸福そうな笑みを浮かべながら座り込んでいるパウリーを、ルッチは愚かだと思った。見れば接着剤がついた部品をひとつ、髪の毛にくっつけて。
『部品を返せ。そいつがないと完成しない』
ルッチが遠慮なく髪の毛数本ごと部品をパウリーの頭から引き剥がした時、ルッチの指先がパウリーの頬に触れた。
「熱いぞ、お前の手」
言ったパウリーの頬を指で挟んで思い切り引っ張り、ルッチは素知らぬ顔で作業に戻った。
「ってぇ〜!容赦ないのな、お前はよ、いつも」
文句を言いながらパウリーは目を細めた。
「・・・俺、やっぱこういうのがいいな」
『・・・何のことだ?』
「お前とさ、こういう時間がいい。一番いい」
ルッチはパウリーの顔を見なかった。
何か言葉を切り返すべきだと思ったが、口は閉じたまま動かなかった。
その反応の無さを予想していたパウリーは一瞬強く感情を込めた視線をルッチに向けたが、すぐに肩を竦めて笑った。
「いいけどよ。俺を追い出そうとしないってことは、まあ、喜んでいいんだってことだからよ」
本当にわかっているか?
ルッチの心にカクの声が蘇る・・・・パウリーはアイスバーグの一番近くにいる職長だと。
そして。
傍から見てもわかりすぎるほどにわかるパウリーのアイスバーグへの心酔ぶりを利用するのはいかにも容易そうだが、そうする代わりに自分が時々感じるこの 感情は。
妬ける、と冗談のように言ったカクの声がまた蘇る。
その時、ルッチの頬にそっとパウリーが指先を触れた。壊れやすい部品を触るようなその触れ方にルッチの身体がピクリと反応した。
「ルッチ・・・」
小さく名前を呼びながら重ねられたパウリーの唇の熱をルッチは目を閉じて受けた。口腔を侵すことなど想像したこともないはずの不器用な口づけに浮かびそ うになった笑みを秘めたまま柔らかく唇でパウリーのそれを包んだ。奪うことより与え与えられることに満足を覚えるこの短い時間。まだ彼の頬を包み込んでい るパウリーの指の熱に身体の芯が溶け出すような錯覚を覚えた。
どちらからともなく唇を離し目を開けると、もの問いたげなパウリーの顔が見えた。
まったく。本当に思っていることを読みやすい顔だ。
ルッチはピンセットを持ち直し再びボトルに向き直ったが、その直前に短く一言だけ囁いた。
『今のは・・・悪くない』
「ほんとか?」
横目で見える範囲の中でも赤くなったパウリーの顔色が十分識別できた。
『・・・呆けるな。次の部品を早く寄こせ。船ができるまで食事は後回しだ』
「おいおい、これの予想完成時間は半日だぞ。まあ、お前、普通の人間よりずっと器用だけどな」
肉欲より食欲。まあ、こんなところだろう。
ルッチの口元にほとんど見えないほどの笑みが浮かんだ。
1時間後に出来上がった船の完成を祝いながらよく食べ、よく飲んだパウリーはまた、床に転がって眠ってしまった。何となくこの光景を見慣れたものに感 じ、ルッチはそんな自分に向けた苦笑を浮かべながらベッドに入った。
不意に小さな衝動を覚え、枕と毛布を片手に床に下りた。転がっているパウリーの背中に自分の背を合わせて枕に頭をのせ、毛布で2人の身体を覆ってみた。
やがて感じたパウリーの体温はカクのものより心持ち高かった。
やはりな。
予想が当たったことに満足したルッチはそのまま眠りに落ちた。