It's too late now for me

 ぶへっくし!ぶへっくし!

『・・・オヤジくさい、というのはまさにそれなんだろうな』

 うるせぇよ!
 左脇には紙袋を抱えているため片方しかあいていない右手をぶんぶんと振り回しながら口を尖らせるパウリーの顔をルッチは黙って凝視した。それが3秒、5 秒、10秒と過ぎるにつれてドギマギしはじめたパウリーは居心地悪そうに開いた扉から一歩だけ入った戸口に突っ立ったままでいた。

「なあ・・・・・入っていいんだろ?なんたって今日は一応俺の誕生日ってやつだしよ。あんまり好きじゃねぇけど、こうやって胸張ってお前の部屋に顔出せん なら、まあ、悪くもねぇよな」

 恐らく今日も数多くの追っ手(借金取り・同僚の両方を含む)から逃れて来たのだろう。肩に息が上がっている。しかし。
 ルッチはそのまま視線でパウリーを呼んだ。

「・・・んだよ?なんでそんなおかしな顔で見やがるんだ、お前は。・・・・え?」

 言葉を言い切るか切らないかのその瞬間、パウリーの鼻はルッチが突きつけたハンカチの下に見えなくなった。

『水洟垂らして幾つの餓鬼だ』

「え・・・・ええっ?!」

 ハンカチの下からもごもご聞こえるパウリーの叫びを無視し、ルッチはすっとベッドから立ち上がった。同時に指先がパウリーの額の中心に触れた。唇の端か ら漏れた溜息は呆れたからか、それとも・・・何か落胆に似たものということはあり得るだろうか。ルッチは小さく首を振り、さらに一つ、今度は大きく溜息を ついた。

『熱。気づいてなかったのか、この高さで』

 パウリーの目が丸くなった。

「はぁ?おいこら、ルッチ!俺は風邪なんてひかねぇぞ。んなモン、最後にひいたのは・・・・ええと・・・もう、思い出せねぇくらい昔のことだからな!」

 胸を張って言う台詞か。大体、それが何の証明になる。単に物忘れしやすいと言うだけかもしれないではないか。

『・・・・自分の部屋に戻ってとっとと寝ることだ。明日も無事に仕事をしたいのならな』

 パウリーの表情が大きく歪んだ。

「・・・・具合は全然悪くねぇんだって・・・ちょっとばかり寒いのは水路に落ちた後そのまま走ってきたからで・・・・」

 落ちたのか。
 ルッチはパウリーの全身を一瞥し、ジャケットやスボンの袖と裾に濡れた名残を認めた。

『・・・それは、寒気だ、バカヤロウ。熱があれば身体は震える』

「そうなのか?でも・・・・」

 訴えかけるパウリーの瞳にルッチは冷ややかな視線を返した。

『見ての通り、ここにはベッドが1台しかない。お前はこれを占拠するつもりか?』

 ベッド、という単語を聞いた途端、パウリーの顔色が一気に紅に染まった。

「よ、よせよ!お前のベッドを盗ろうなんて思っちゃねぇよ!ただ・・・・いや、だからよ、俺はこのままで構わねぇんだし、いつも通り一緒に酒を・・・・」

 周章狼狽。
 絵に描いたようなその様子にルッチは軽く脱力した後、ふっとごく小さな笑みを浮かべた。
 こういう反応をされると彼の心のどこかに眠っている好奇心がストレートに刺激を受け止めてしまう。パウリーが抵抗を見せるほどそれをさせてみたくなる。 そうして手も足も出なくなった様子を見たいと思ってしまう。自分にはあり得ない心の動きだということを冷静に認めながら。

『ベッドは使わせてやる。酒はやめておけ』

「え・・・おい、ルッチ!うお!ちょっと待てって!」

 素早くパウリーの背後に回ったルッチは湿ったジャケットの後ろ襟を掴み上げるようにしてパウリーの身体をベッドの前に無造作に連れて行った。それから ジャケットを脱がせてソファに放ると、トン・・・とパウリーの背中を押した。膝からベッドの上に落ちたパウリーは慌てて立ち上がろうとしたところをルッチ の手に肩をつかまれ、簡単に引っくり返された。

「お前・・・なんか簡単すぎるぞ、ルッチ!クソ・・・・!!」

 無駄なことを。
 ルッチはさっさとパウリーの足からブーツも脱がしてしまった。

『・・・・ズボンも俺に脱がせて欲しいのか?』

「ば、馬鹿やろう!ンなわけあるか!」

 急いで毛布で身体を隠したパウリーはもぞもぞとその下でズボンを脱いだ。

「・・・なんかやべぇ・・・・」

 その呟きに首を傾げるルッチの前で、パウリーの鼻腔はベッドに残るルッチのシャンプーとそれとは少し違う残り香をとらえていた。




体温計と錠剤の写真  ルッチは部屋に薬や体温計を常備していない。彼にとってそれらはあるだけで自分を弱くするような気がする。傷薬と包帯は置いてあるが、これは治療と言う よりは出血を止め、自分の血がその場に落ちるのを防ぐためのものと認識している。だから、薬局に出かけて目的のものを買い、無理矢理パウリーをシャワーに 突っ込んだ後寝かせ、熱を測りながら薬を飲ませ終わった時には妙に一仕事終わった気がした。
 薬なんていらねぇ、と言っていたパウリーはなるほど、薬に身体が全く慣れていなかったらしくあっという間に眠りに落ちた。すぐに熱を下げてお前と一緒に 酒を飲んでやる!と息巻いていた唇をルッチは黙って眺めていた。
 パウリーの誕生日。彼が知っているのは今日も含めて4回分のそれだ。最初の時には全く関係のないただの傍観者で、追いかけられて逃げ回るパウリーの姿を 無感情にほんの少しだけ意識に止めていたと思う。2度目は突然強引に部屋に押しかけられ、3度目は当たり前のような顔でやって来た。
 4度目。
 W7という街にやって来て4年。
 任務としては随分長く、これまでで最長のものになっている。だが。ル
 ッチは窓の外に目を向けた。夕日が落ちきった宵闇の中、窓から吹き込む風に彼はふと予感めいたものを感じたのだ。これまでは膠着したまま、変わらないま まの状態だったこの任務・・・・これだけの時間をかけた今、彼にはわかる。いずれ近いうちに予想外の要因が状況に加わって何か事が動き出す。時間とはそう いうものだ。弱点も付け入る隙間もないように見えていたアイスバーグもやはり普通の人間なのだ。自分のそばで忠実に腕をふるう職人達を認めずにはいられな いし、もっとそばにいる聡明で美しい女に己の中の何かを預けずにはいられない。これまでかけてきた一見無意味に見える時間。しかし、そこには意味がある。 堅固な壁に少しずつ小さくヒビが入っていく。

 パウリーの額から汗が一筋落ちた。
 生きている証拠の雫。
 ルッチはそれを指先で掬い、その指を唇に持って行った。
 眠る時もゴーグルを外さないのか、と呆れていた。
 酒の後は大いびきをかくくせに、なぜ今はこんなに静かで深いのかと不思議に思った。
 誕生日に熱を出して他人の部屋で無防備を晒して何が面白いのかわからなかった。
 それから・・・・
 それから。
 ルッチは軽く首を振った。
 なぜこうしてパウリーのマイナスを数え上げているのだろう。いつの間にか自分の中に存在を許してしまったプラスを相殺しようとでもいうように。

「・・・・水、くれ・・・・どうせ酒はダメなんだろ」

 薄く目を開けたパウリーが囁いた。
 そのどこかはにかんでいる様な愚かな表情が・・・・ルッチの中の何かを崩した。

『酒をやる・・・・一口だけな』

 ルッチは床に置いていたグラスを取り上げ大きく呷るとベッドの前に進んで膝を落とした。

「・・・・ルッチ・・・・・?」

 無抵抗のパウリーがようやくルッチの意図に気がついて瞳を見開いた時には深く唇を重ねていた。そして一気に酒を流し込んだ。

『・・・・俺からは唇を触れないつもりだった。責任をとって後はお前がやれ。俺を抱いて汗と一緒に熱を流してしまえ』

 囁いた後再び唇を重ねると、パウリーの手が抵抗してルッチの身体を引き離した。

「ちょ・・・・待て。何だ、どうしてそうなるんだ?・・・ていうか・・・・お前はそれを望むのか?そんなわけねぇ・・・・そんな・・・・お前には似合わ ねぇ・・・・」

『・・・・知らないまま終わるはずだった俺を少しだけ見せてやる。・・・・おまえの誕生日だからな』

 唇を重ね、深く与え、奪った。
 初めは戸惑いと抵抗ばかりだったパウリーの唇はやがて体温以上の熱を発し、理性が押し流されていく様子をルッチに伝えた。




 お前を抱くなんて無理だ、やるならお前がやれ。
 パウリーは何度もそう言って抵抗した。けれど、ルッチは認めなかった。パウリーは抱かれることがルッチに似合わないと主張するが、ルッチにしてみればそ れはパウリーにこそ似合わなかった。一歩間違えば苦しみさえ与えかねないということを嫌悪したのかもしれない。それとも・・・・ただ単に彼がパウリーの腕 を望んでいるだけなのだろうか。

『余計なことを考えるな。必要ない』

 そう言いながらルッチも考えるのをやめた。
 パウリーに唇で触れ、指先で撫ぜ、手の平で愛撫し、ごく自然にパウリーのがっしりとした身体の下に横たわった。

「・・・・大事過ぎてどうしたらいいかわからねぇ・・・・」

 囁いたパウリーの声をひどく甘いものに感じた。
 恐る恐る触れてくる無骨な手の感触に肌が敏感に反応した。

「ルッチ・・・・・ルッチ・・・」

 幾度も彼の名を呼ぶ声に応えて背中に腕を回して抱きしめた。

『お前の好きにしろ・・・・何も心配などいらない』

 パウリーはこの熱と柔らかさに溢れた声を不思議だと思わないのだろうか。ルッチは自分の声に心の中で身震いしながら別のどこかで深い安心感と充足感を覚 えていた。
 どこまでも満たされていく。
 いかにも不慣れなパウリーの動きのひとつひとつが例えようもない甘さをルッチの中に送り込む。
 ああ、そうか。パウリーとならどっちが抱いてどっちが抱かれるかなどということはこだわる意味すらないのかもしれない。ただ近くあるための手段として互 いを満たすための手段としてこの抱擁があるのだという愚かな錯覚が溢れどうしだ。

 最後は、指と指をしっかりと結び合ったまま目を閉じた。
 そして、子どものように眠った。




「うおぉぉぉぉ!」

 傍らでオーバーなほど飛び起きたパウリーの姿を、ルッチはゆっくりと目を開けて気だるげに見上げた。

『どうやら熱はすっかり下がったようだな』

「はぁ・・・熱?ああ、いや、確かになんか頭がスッキリしてるっつぅか・・・・・」

 それでも昨日以上に紅いパウリーの顔色にルッチはじっと目を向けた。

『なら、いいだろう。・・・・忘れられない誕生日になったか?』

 言ってしまってからその台詞の全くの自分らしくなさに顔を顰めたルッチの様子には気がつかず、パウリーはごもごもと口篭った。

「・・・大丈夫なのかよ、お前。俺・・・・多分だんだん加減できなくなって・・・・思い切り抱いちまったろ・・・・?」

『・・・・手加減されていたら侮辱と受け取っていただろうな』

「そういうもんか・・・?」

 パウリーはそっとルッチの頬に手を伸ばした。
 ルッチは黙ってそれを凝視していた。

「クソ、お前、なんで・・・あんなに強いのにこんなに綺麗なんだよ。無愛想の固まりのくせにキスは上手ぇし・・・・なんで俺に・・・・。いくら誕生日っ つったって、これじゃあ貰いすぎだろう!俺・・・お前にまだちゃんと何にも言えてねぇのに」

『何も言うな。俺も言わん。言う必要があることなどない』

 ルッチはパウリーの手に頬と額を預け、目を閉じた。もしも本物の猫ならここでうっかり喉でも鳴らしてしまいそうだと思った。

「クソ・・・・ルッチ!」

 パウリーの体温が近づき、温かな両腕に包み込まれた。
 振り払うべきか一瞬躊躇したが、考え直して身を委ねた。
 今はまだパウリーの誕生日だ。あと数分で日付が変わったらこの危険な温かさから身を離そう。
 互いの温度と肌の感触を全身に感じながら。
 ほら、やはり言葉など必要ない。
 ルッチが小さく頭を動かすとパウリーがそっと顎をのせてきた。
 与え合ったのか奪い合ったのか、わからない。それでもいいとルッチは思った。なんと言っても・・・相手はこのパウリーなのだから。

「まだなんか信じられねぇ・・・」

 幸福らしい感情に溢れたパウリーの声が耳元で聞こえた。
 気恥ずかしいこの感情がもしかしたら幸福なのかと自分に訊いた。

2007.7.8

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