「いいのかい・・・・そんな無防備で」
月の光に照らされた寝台の上、青白く冴えた肌の上に閉じられた睫毛が曲線を描いている様はビスクドールを連想させる。枕の上に広がる黄金の髪はかろうじ て月の白金に輝き勝っていたが、それでもどことなく冷たく見える。血の気のない唇は引き結ばれたまま言葉も呼吸すらも発することはなく、かすかに上下する 胸の動きが生命の存在を示していた。
「何とか言えよ、ミラノ公。あたしを束縛するたった一人の女、カテリーナ・スフォルツァ・・・あんただよ」
掠れた声の囁きが少し音量を増した。毒と怒りを含んだその声に見え隠れする悲愴感は孤独な空気から生まれた錯覚だろうか。
閉じられた瞼も唇も動く気配を見せず、女は自分がそこに一人きりで佇んでいるような気持ちに襲われる。何も恐れるものがない女の瞳に焦れたような渇きが ちらちら揺れる。
「言えよ、ミラノ公。あんたが言えばこのうざったい首輪に関係なくあの赤い髪の小娘を殺してやるよ。あんたからあんたの男と弟と・・・あんた自身を盗み 取ったあの小娘を・・・」
女の声の低い激しさはその豊かな胸の中に燻る焔そのもの・・・今にも燃え上がりたいのにそれが出来ない苦痛に声なき叫びを上げている。
「お前が言えば、あたしは・・・」
右手を包む黒手袋の指先を噛んでするりと脱いだ女はまるで躊躇うようにゆっくりと白い手を伸ばし、金色の髪のひと房を指に絡め取った。怒りと憎悪、そし てそれを超えた激情がかすかに震えるその指から零れる。
「カテリーナ」
真紅に彩られた唇がその名を呼んだとき、白い面に生気が細く湧きあがった。ゆっくりと重たげに開かれた瞼の下から灰色の瞳が女の姿を映す。薄い唇が曲線 を描こうと揺れる。多くを失う前は神に最も近しい代理人にすら見えた麗人は微笑もうとしていた。その口元が僅かに開いて空気と音を吐き出せば、それは女に はとても甘いもののように思えた。
「聞こえないよ・・・ミラノ公」
口元に耳を寄せた女はいつの間にか呼吸を止めていた自分に気がついて小さく苦笑した。
「・・・光を消してはなりません・・・・彼女が光なら・・・・私はこれから闇となります・・・これまで・・・他人の手を借りて流してきた・・・ 血・・・・・今度は・・・私が・・・刃となります」
そこに浮かんだ表情を女はよく知っていた。それは女の前で麗人が人間として女としての情炎と妄執を女に見せたあの時の遥か以前、女が屈辱とともに隷属を 強いられた時に見たものだ。強い意思と極美。一筋の赤い血が地に落ちて紅玉に変化するのではないかと思ったあの時。
あの時、女は捕らえられた。今の首に在る輪とともに心の中の見えない何かに。
「あんたは・・・・」
言いかけた女は気配を感じて後ろを振り向いた。薄闇の中には見慣れた人形の姿とさらに小さな姿があった。
「半径100km.以内では・・・って、怒らないのかい、おちびちゃん。久しぶりだね、ちび天使・・・あんたはやっぱりここに来たのか」
「卿がここにいる理由が不明だ、モニカ・アルジェント」
人形の手の銀色の光を見た女は唇を歪めた。
「ほんとにつれない男だねぇ、イクス。見舞いに来ただけじゃないか。たまには役に立ってやろうかとまで思ってるのにさ」
「不要だ。アルビオン女王暗殺はミラノ公にとって何の利益も生み出さず作戦にとってマイナスでしかない」
「作戦?」
女は自分の唇を舌で湿した。人形とその傍らに立つ少女に順番に視線を向け、寝台に向き直った。女を見上げる灰色の瞳には恐れも惑いもなく、まっすぐに女 を見ていた。
「・・・お行きなさい。私はもう・・・」
言いかけた言葉を遮るように女は床に片膝をついた。灰色と漆黒。二人の瞳が近づいた。
「行ってやるよ・・・どこまでも堕ちてやる。・・・最後にあんたの命をもらうのは・・・あたしだからな」
月の光が部屋の中のすべてを存在を凍りつかせた。
それはまるで一枚の絵のようだった。