相 夢

 沈黙の月夜は忍び込む冷気と薄く照り映える蒼白い光で室内を満たしていた。やわらかく整えられた寝台に横たわってなお真面目な表情を顔に浮かべた少女は 真っ直ぐに天井を凝視していた。薄闇色のそのスクリーンに記憶から映し出される光景のひとつひとつから目を逸らすことがないように。そのひとつひとつをい つまでも色褪せることなく心に刻んでおけるように。美しく温かなものは温かく、冷たく心を凍らせるものはそのままに。繰り返すことはとても大切なことのよ うに思えた。
 あの時、流された血はまだ温度があるはずなのに少女の目には氷のしぶきのように見えた。もうこれから自分は二度と恐怖心なく血の色を見ることはできな い・・・そう思った。けれどその時少女に血の温かさと尊さを教えた存在があった。静かに少女を抱き上げた腕は震えていたがぬくもりがあった。

 ふと耳を澄ませた少女は起き上がると静かに床に足を下ろした。磨き抜かれた床はとてもひんやりとした感触を伝える。一瞬躊躇った後、少女は白くて長い寝 巻きの裾を翻しながら部屋を出た。靴も室内履きも履かなかったのはなぜなのか自分でもわからないまま・・・隣室に行くだけなのに足音を響かせてはいけない 気がした。少女のことを気遣うあまりほんの少しの物音にも反応するようになっている執事をはじめとする、城に、少女の父親と母親に仕えてきてくれた者た ち。彼らの眠りを妨げてはいけない。
 そして。彼を驚かせてもいけない。彼の名はアベル。人との会話をほとんど忘れかけている銀色の髪の守護者。
 少女はドアを小さく2回ノックした。返事はなかったが、中で空気が動いたような気配があった。開かれていくドアの向こうは少女の部屋と同じく月明かりだ けが明度を持っていた。空間にぼんやりと浮かんでいるような白銀にむかって一歩ずつ進んで行くと振り向いた仄白い顔の中で青い瞳が光を反射した。少女は足 を止めそれと同時に呼吸も止めた。この深く青い色が真紅に染まった時を思い出していた。



 あの時。逆立った銀髪はまるでそれ自体が生きているように揺れ、その揺らめきは焔に似ていた。恐怖は最初の一時だけで男が少女を守ろうとしていることに 気がついた後はただその背の高い姿に見とれた。

「俺は・・・人間を守らなくちゃいけない。だから、君を助ける」

 絞り出すように男の口が紡ぎ出した言葉を少女は聞いた。

「私は人間の敵と戦わなくちゃいけない。だったら、一緒に戦いましょう」

 答えた自分の声を少女の耳は半分驚きをもって聞いた。その時ただ守られていただけの自分の心に形となって刻み込まれた思い。死から逃れることに必死だっ た恐怖を追いやってくれた心の熱さ。敵をすべて退けた後疲れたように少女の前に膝を落した男は静かに少女を見上げて白い手を伸ばした。血がついたその手を 見つめながら少女はただ待った。待っているとその手は少女の金色の髪に触れ、その時男は目を閉じた。この髪が嫌いなのだろうか。不安になった少女の前で再 び目を開けた男は髪から指を離して手を下ろし、その手は頬を撫ぜるように通り過ぎた。

「俺は・・・君を・・・守る」

 傷を負っているはずの男は無造作に少女を抱き上げ、少女はその腕の温かさを感じながら身体の力を抜いた。

「あなたの・・・名前は・・・?」

 男は忘れていたものを思い出すように大きく瞬きをしてから呟いた。

「・・・アベル」

「アベル・・・」

 少女は口の中でそれを繰り返した。
 灰色の瞳と青い瞳が互いを見つめた。

「私の名前はカテリーナ・スフォルツァです」

「・・・・カテリーナ・・・」

 繰り返した男は一度肩越しに後ろを振り向いた後、ゆっくりと歩きはじめた。



イラスト/薔薇の花 「・・・アベル?」

 囁くように呼びかけたカテリーナの声は終わりがかすれた。
 静かに歩み寄ってきた姿は少女を見下ろした。

「カテリーナ・・・」

 少女の名前を呼んだ口元に微かな震えが残る。
 彼は何を失ったのだろう。カテリーナの心に隙間ができる。あの日からずっと心を占めている彼女自身が失った、彼女から奪われたもののことが少しだけ脇へ 寄る。これまで彼は何を守ってきたのだろう。
 アベルの全身にも細かい震えがあることを見て取ったカテリーナは一歩自分から近づいた。

「寒いのですか?それなら誰かを起こして暖炉に火を入れてもらいましょう」

「・・・寒い?」

 アベルの瞳に映るのは少女の金色の髪と灰色の瞳、色がない唇と裸足、白くて薄い生地にふんわりと包まれた華奢な姿だった。

「俺は・・・寒くない。君は・・・」

 迷うようにゆっくりと上がった腕が少女の身体を包みこむ。アベルの予想と違って少女は逃げることも退くこともしなかった。彼の腕の中で少女は呟いた。

「帰りたいですか?アベル・・・・あの・・・場所へ」

 闇と静寂に包まれた場所。時の流れの奥にその存在が沈んでいる場所に。

「俺は・・・・」

 少女と触れ合っている身体の部分から伝わってくるほのかな温かみは今にもどこかへ霧散してしまいそうに感じられた。長いこと感じることがなくほとんど忘 れかけていた温かさ。もう自分には許されないと決めていたもの。そして奪い続けた自分が今度は守らなくてはいけないと決めたもの。
 アベルはカテリーナを抱き上げて彼に与えられた、まだ一度も使用したことがない寝台の上に腰掛けさせ、毛布で細い身体をくるみ込んだ。

「カテリーナ」

 膝をついて自分を見上げる姿に視線を注いでいた少女はそっと手を伸ばした。ざんばらに乱れて額に落ちかかった銀色の髪は思ったような触れれば溶ける氷と は違った確かな感触を少女の指に伝えた。

「そうだ・・・」

 カテリーナは自分の髪をゆるく束ねていた黒いリボンをほどくとアベルの視界にそれが入るようにゆっくりと彼の首の後ろに両腕を回した。

「こうした方が・・・きっとあなたには似合います」

 近づいた時と同じようにカテリーナの手がゆっくりと離れると、アベルは頭の後ろに手をやり不思議そうな表情を浮かべそれからほんの僅かに唇の端をあげ た。露になった顎と首の線が月明かりの中で繊細に浮かび上がり荒ぶる神のようにも見えていた姿に人間味を与えた。

「ほら、やっぱり」

 微笑んだ小さな唇にはやわらかな色が戻っていた。
 目に映るすべてをどうしていいかわからないまま、失うわけにはいかないという衝動に動かされてアベルは再び少女を腕の中に包み込んだ。

「カテリーナ」

 カテリーナはアベルの体温の中で目を閉じた。

「明日、日が差す時間になったら温室でお茶をいただきましょう、アベル。咲き遅れていた冬薔薇が見ごろになったと聞いたわ。」

 頷いたアベルの顎がカテリーナの頭に触れた。
 二人一緒に溢れる陽光の中に。
 目を閉じた二人は互いの呼吸を感じながら眠りの中に落ちていく感覚と命脈の温度にそれぞれの肌身を委ねた。

2005.10.19

楽々さんからいただいたリクエスト「昔の、少女カテリーナとアベル」
「あまりつらくない方が」というご要望だったのですが、これ、大丈夫でしょうか
アベルの髪を最初に黒いリボンで結んであげたのはカテリーナさん、
という妄想を形にしたかったのです
出会ってからまだ日が浅く、あの事件からのもろもろがようやく外側的に
一段落した辺りの二人・・・・という感じです

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