鏡 映

 シャワーを終えて裸身のまま髪をタオルで拭いている手はきわめて規則正しいリズムで動き、明るい色の髪から確実に水分を取り去っていく。汗をかかない全身 は水滴さえ拭ってしまえばすぐに僧衣を着ることに不都合はなく、生体部品を休ませる間も起動が要求された場合に即時対処可能な服装でいることができる。彼 がベッドに横たわることを選んだときに僧衣を脱ぐのはあくまでもその彼にとっての戦闘服に乱雑さが現れることを避けるのが目的だ。機械化歩兵 HC−IIIXは髪から外したタオルを床に落とし、ベッドの上に準備しておいた畳まれた僧衣に手を伸ばした。
 その時、彼のガラスの瞳は壁に掛けられている鏡を視界に入れた。
 トレスの手が止まった。
 鏡の中に映っているそのモノは。
 認識している己の顔と肌の色から眉の形、瞳、鼻梁、唇に至るまで同一に見えるその顔は。立ち上がった前髪は彼が今濡れた髪を拭いた時の偶然によって作ら れた造形であることを認識する前に、トレスは一歩、鏡に歩み寄った。

「HC-IIX」

 同型機でありながら身体の内部を構成する部品のほとんどを刷新されて彼を上回るスペックを持つことになった機械化歩兵。あの時、確かにトレスはIIXを IIXと識別した。しかし、それ以上の記憶は蘇らなかった。自分と同じ。それが最初から最後まですべてだった。
 でも、なぜ。
 聖天使城で大破した彼はカテリーナに掬い上げられた。最初の戦いで負った傷の詳細は覚えていない。ただあの時のカテリーナの表情と声が彼の奥深くの中心 にある。再起動した彼はそれ以外の過去を必要とせず、またすべてがリセットされたのだと理解していた。
 しかし、それならなぜIIXがIIXであることがわかったのか。IIXは彼を識別し、彼もIIXがわかった。派遣執行官と異端審問官。状況からも彼は敵 であり負けるわけにはいかない、逃してはいけない対象だった。けれど本当にそれだけなのか。すべてが終わって時が過ぎて。鏡の中から無言の視線を向けてい るドゥオは彼の生体部品に不可解な微小パルスを送ってくる。

「俺は・・・」

 トレスの口から言葉が漏れると声なき言葉でIIXが何かを言う。
 そこに何かがあったはずだと。戦いのために生まれた彼らが戦いに出る前に過ごした時間。
 今は見えないけれど・・・見ようとすると別の強いパルスが回避を勧告する何かが。

「俺は・・・」

 触れた指がコツンと音をたて、鏡が揺れた。IIXの姿は消えて再びそこに映ったのは持ってはいないはずの表情を浮かべた彼自身の顔だった。トレスは手で 己の顔を触った。指先は瞼から鼻を辿り唇で止まった。
 彼が放った銃弾が直撃した頭はかろうじて瞳で追える速度で宙を飛んで行った。弾にえぐられる瞬間までIIXはそれを見つめていただろうか。恐らく彼だっ たらそうするように。

「IIX」

 再び口から零れた“兄弟”の名。トレスはそれを他人が発したもののように受け止めた。両手で握った僧衣を軽く振って広げた時、トレスは鏡に背を向けてい た。これ以上幻を見ることを己に許すことは出来ない。そういう己は認められない。ふと気がついたように手櫛で髪を撫で付けたトレスの顔に表情は皆無であっ た。

2005.10.30

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