その日、季節を感じさせない強く明るい陽光が降り注ぐ中のんびりと足を進めていた中年紳士は、ふと前を通り過ぎたカフェの建物の壁に視線を戻した。正確に 言うとそこにできている黒い影の中に白い人影と己に向けられた視線を感じたのだ。巡回神父の顔とは別の場所で大勢の人の視線を浴びることに慣れている“教 授”は通常レベルの視線はほとんど気にかけることがない。つまりこの時彼に向けられた視線には何か意味を感じたということだろう。
一歩足を踏み出した姿は白い尼僧服を纏い真っ直ぐに視線を送る琥珀色の瞳と同じ色の髪が印象的な小柄な女性のものだった。ウィリアムは足を止め、尼僧の 顔を見続けていた。化粧気のない顔に浮かんでいる生真面目な表情とどこかシニカルな口元。年齢不詳なその顔を彼は確かに以前見た覚えがあった。その時、光 線を受けた尼僧の髪が明るい茶色に輝いた。その光景から蘇った別の記憶が別の深い記憶に結びついた。
「あなたは・・・・!」
己の感情の変化を露にすることを嫌うアルビオン紳士の顔と声が一瞬彼自身を裏切った。それから彼の瞳をさらに見開かせたのは尼僧服の方に小さく光る“神 の鉄槌”の徽章だった。
周辺哨戒中の機械化歩兵はその日何度目になるか、乱れない歩調で進む足を止めた。備わっている数種類のセンサーが彼の周囲半径20メートル以内に動体の 存在を確認していた。それなのにその正体を捉えることができないまま、トレスは順路を変更して歩き続けていた。敵ならばなぜ仕掛けてこない。敵でないなら なぜ執拗に彼を追う。判断する材料不足からトレスは結論を引き出せないまま、ただ相手の反応を待って歩いていた。このまま主人がいる“剣の館”に戻るわけ にはいかないだろう。この正体不明の相手を引き離すか連行するか、そのどちらかの状況に持ち込まなければ。
一陣の風が吹いた時、トレスの白いマフラーが舞い上がった。
気配は急速に近づいてきた。片手で視覚センサーを遮るマフラーを引き剥がしもう一方の手がホルスターから銀色の大型拳銃を引き抜いたとき、その気配が目 の前に立った。攻撃の気配はない。そして・・・
「敵味方識別信号を認識。・・・お前がなぜここにいる、HC-IIX。回答の入力を要求する」
一部の隙もなく着込まれたトレスの僧衣・・・それに負けないほどぴっちりと着込まれた灰色の特務警察の制服。彼とそっくりなどこか作りものめいた端正な 顔。片目のみを覆う小型のシェード。のぞく首筋に見える接続孔とワイヤー。トレスの瞳はそのひとつひとつを記憶に残るデータと照合していった。
「否定。言ったはずだ、HC-IIIX。俺の現在の呼称はブラザー・バルトロマイ。異端審問官だ」
人間ならば『感触』という言葉を使うだろう。トレスの腕と手、指に再現されたのは目の前の機体を撃った時に返ってきた物理的な衝撃だった。映像的に蘇っ たのは飛んでいく首から上の頭部と吹き上げる皮下循環剤、そして重い音とともに崩おれた身体。今目の前にあるこの機体とそっくり同じに見えた兄弟機。
「・・・ブラザー・バルトロマイ。了解した。改めて問う。なぜお前がここにいる?」
無感情で平坦な口調は互いに同じ。けれどトレスのそれがわずかに躊躇いがちに響いて聞こえるのは錯覚だろうか。
「960時間前にお前によって破壊された俺の身体は即刻回収され復旧された。生体部品が一時的に機体から接合を解かれた影響は甚大だったが破損度に関して は46912時間前の聖天使城での損傷の方が遥かに深刻だった。今回の復旧が迅速なのはそのためだ」
バルトロマイの手が自分の首を触った。
「俺を完全に破壊するつもりだったのなら生体部品を確実に破壊しておくべきだったな、IIIX」
冷たい視線と口調に対して見返すトレスの瞳に変化はなかった。
「俺には時間が必要だった。それだけだ」
「肯定。そしてミラノ公への提訴は取り下げられた。俺はお前の戦闘記録と機体を回収できず、6時間前に再起動されるまで停止状態にあった」
2体の視線が絡みあった。
「お前はまだ俺の戦闘記録と機体の回収にあたっているのか?」
トレスの手は未だにジェリコ13を握っている。目にそれを映しながらバルトロマイは空のままの手を胸の前で組んだ。
「否定だ、IIIX。状況は変わりもはやお前は非合法活動に従事しているわけではない。異端審問官が派遣執行官に対して一方的に攻撃をする理由はない。命 令も出されていない」
「了解した」
トレスは銃をホルスターに戻した。その間も視線はバルトロマイに向けられている。
「・・・お前はなぜここにいる?俺の後をつけるのが任務だとは思えないが。回答の入力を」
「俺が受けた命令は“剣の館”に行ってお前と合流しミラノ公の執務室に出頭することだ。向かう途中でお前を発見したので予定合流時間と場所を変更した」
ではなぜバルトロマイはすぐにトレスの前に姿を現さずにしばらくの間尾行したのだろう。カテリーナはバルトロマイの復旧を知っていたのだろうか。そして なぜ2人が呼ばれたのだろう。不必要な疑問は持たないはずのトレスの中央演算機構がいくつものそれを弾き出す。
「了解した。これより“剣の館”に帰館する」
言ったトレスが歩きはじめるとバルトロマイが隣りに並んだ。同じ顔、同じ身体。違うのは服装と髪型・・・・その髪型の違いがほんの数センチメートルの身 長差を生み出していることにトレスは気がついた。ちらりと送った視線がバルトロマイのそれとぶつかった。恐らく彼も気がついたのだろう。トレスは無言のま ま正面を向いて歩き続けた。
「では・・・あなたもこの要請には応じるべきだと考えるのですね?“教授”」
カテリーナは白い指先を片眼鏡の縁にかけた。
「はい。良くも悪くも人の手で作り上げられた最強の機械化歩兵たちが辿った運命を考え直す機会になると思うのです。それに・・・・自分を機械と信じている 彼らにももしかしたら得るものがあるかもしれません」
答えたウィリアムは物思わし気に手の中のパイプを動かした。
「失うものはないと・・・・本当にそう思うのですか?」
そっと尋ねるカテリーナの抑えた声には何かを守ろうとするような硬さと温かみがあった。
「それがわかれば・・・と今度ばかりは思いますね、猊下。何にせよ、僕はトレス君のためになることを祈りますよ」
カテリーナはトレスがいつも呼ばれるまで立って控えている部屋の片隅を見た。
「そうですね。少なくともこの建物はいろいろにぎやかになるでしょうね」
二人は微笑を交わしあった。