異 魂 8

 視界に見えるどの窓からも漏れる灯りがないことに特に違和感を覚えずに『家』に歩み寄ったトレスは扉の取っ手を引いた。鍵が掛かっていた。施錠されている ということがドゥオの在室と不在のどちらを示すことなのか。データを持たない状態では何を推測する必要もない。このまま力を通常の倍に増せばこの扉を外す ことができる。ふと家の扉と鍵の意味を再考しながらトレスはポケットから出したそれを鍵穴に差し込んだ。襲撃者や窃盗から内部を守るという意味では鍵はた だ犯人にいくらかの手間をとらせるという効果しか望めない。トレスとドゥオがこの家に運び込んだ物は大別すれば主に武器と衣類で、つまり鍵をかけたこの 『家』は倉庫と呼ぶにふさわしい場所だ。武器装備と機械化歩兵二体。欲しがるのはテロリストぐらいなものだろう。

「無意味だ」

 テロリストはこんな小さな鍵に無駄な時間をかけることはしない。
 呟いたトレスはそれでも中に入って扉を閉めた後に鍵をそれ専用に決めたポケットに戻した。

 夜の哨戒を終えてカテリーナから生体部品の休息の許可を得た時には時刻はとうに夜半を過ぎていた。

「彼はもう戻っているかしら。・・・よくおやすみなさい、神父トレス」

 カテリーナが言った『彼』がドゥオであることはすぐに理解したが返答はしなかった。推測するためのデータが皆無だった。国務聖省内の設備と施設の案内が 終わったあと、ドゥオは教理聖省に行った。特に任務の内容は聞いていない。

 トレスは居間を横切ると真っ直ぐに浴室へ向かった。今日もアベルとそしてユーグとともに行動し予測不可能な状況に巻き込まれた。その結果頭から75℃前 後のエスプレッソを浴びることになった。真上から重力に引かれて落ちてきたカップは即座に銃弾で粉砕したがすでに零れてしまった液体を止める事はできな かった。その時トレスの足元にアベルが転がっていなかったら・・・避ける事も十分可能だっただろうが。恐縮した店主とウェイトレスがすぐにケープを洗って 乾かしてくれた。しかしその後もトレスは身体・・・主に頭部に残る香りをセンサーで感知しながら行動してきたのだ。
 浴室は司祭寮のものよりも広かった。シャワーだけではなくバスタブも備え付けられている。バスタブのその非機能的な形状の『猫足』(トレスがそれを代わ りに運び込んだ時に業者がそう呼んでいた)にガラスの瞳を向けながら、トレスは素早く僧衣を脱いだ。ハンガーに掛けようとすると小さな金属音が響いた。セ ンサーが捉えたのは床に落ちた銀色の鍵だった。
 やはり無意味だ。拾いながらトレスはそう思考した。司祭寮の部屋には鍵はない。何か用事があって訪れるものは入る前にノックをする。滅多にいないが襲撃 者の類は最初から窓か扉を破壊する。大抵の場合突然名前を呼びながら部屋に侵入してくるアベルはその中間に位置する存在だ。
 トレスはコックを捻って頭からシャワーを浴びた。最初人工皮膚に冷たく感じる温度もただそれはデータ的な確認で実際に『冷たい』ことに驚いたりそれを避 けたりはしない。ある程度の温度があった方が洗浄の効果が高いという事実があるからシャワーは湯を使う。そうでなければ燃料節約のために常に水にするだろ う。
 棚に置いたシャンプーは以前ユーグが持ってきた物を司祭寮から持ち込んだ。これは“教授”がユーグの髪質を研究して調合したものらしかったがトレスの髪 にもいいらしいと聞かされた。いいも悪いもトレスはメンテナンスの時に使用される殺菌・消毒効果のある洗浄剤で十分だと判断するのだが、“教授”とユーグ の考えは違うらしい。アベルまでが時々突然トレスの頭部を手で撫ぜ回して「素敵な香りですよね〜。やっぱり“教授”はさすがです。さりげない伊達男さんで すよね」と理解できないことを言う。トレスはそのアベルを力で排除する。機械に香りは必要ではない。そう思うトレスがこのシャンプーを使い続けているのは “教授”に潜入捜査のためには重要だと言われたからだ。
 洗い終わったトレスは身体の水滴を拭うとタオルで髪を拭きながら浴室を出た。ちょうどその時開いたばかりの扉の外に立っていたのはドゥオだった。その瞳 は赤く点滅し、タオルの隙間からわずかに見える銀色の銃口に向いていた。

「ドゥオ」
「トレス」

 同時に相手を認識した機械化歩兵は常駐戦術思考の書き換えを中止した。トレスはタオルを落として拳銃を握る手を下ろしドゥオは扉を閉めて当然のように鍵 を掛けた。

「この場所に入るときは敵味方識別信号をオンにすることを提案する」

「了解した」

 二人の目はまだ互いを見つめていた。
 トレスの瞳はドゥオの鍵を持つ右手を。ドゥオは人工皮膚に覆われたトレスの全身を。

「機体を洗浄していたのか?」

 トレスの身体の各部の数値が予想と一致していることを確認しながらドゥオが無感情に問うとトレスは短く頷いた。

「肯定。お前は鍵を掛けたのか?」

 トレスの問いの意味を計るように一瞬ドゥオは沈黙した。

「肯定。自室に入室後の施錠は日常行動だ」

 教理聖省と国務聖省における聖職者たちの違い。トレスは『日常』という言葉をメモリーの片隅に書きとめた。元は同じ型の機械であってもその機体の置かれ た状況によって『日常』は異なるものらしい。それは予測して当然であったがなぜかトレスはその可能性を考えた事がなかった。
 銃をテーブルに置き、トレスはガウンを着た。機械の彼は機体をガウンで保護する必要はなかったが、これまでの経験で同僚たちが彼の剥き出しになった機体 を目の辺りにすると視線を逸らすことからはじまり様々な異常行動を取る事を知っていた。同じ機械であるドゥオの前では機体のままでいいかもしれないと考え ていたのだが、ドゥオの目に機体に関するデータをサーチされるのは避けるべきだと判断した。
 やがて浴室から出てきたドゥオの姿がすでにガウンを身につけているのを見てトレスは自分がデータを取り損なった事を知った。
 ドゥオの全身から洗浄剤の匂いが流れていた。

2005.12.1

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