極 光

イラスト/オーロラ  「入るよ、アベル」

 継ぎ目ひとつ見当たらなかったガラス壁の一部がポッカリと消滅したように口を開けた。灯りを落とされた独房に隣接した廊下の非常灯の乏しい光は、その声 の主の頭部を覆う陽光に似た輝きを照らし出していた。

「来るなよ、カイン。何かの規定に違反したことになってお前まで罰則を適用されるぞ」

 空間の隅で白い拘束服に包まれた身体を丸めていた少年が勢いよく身体を起こすと月光に似た色の髪が幽かに存在を示した。侵入者を拒むような身体の動きと は裏腹に凍りきれない感情を露にした凍てつく湖色の瞳を見下ろしたのはそっくりな形と色の蒼色の瞳で、そこにはやわらかな光が浮かんでいた。

「僕は優等生だからね。弟を想う兄の気持ちはむしろ歓迎されるよ、多分ね。今日はさ、この世界の何分の一かの人々が信奉している神の誕生を祝う日だから。 寛容と許しの日だよ」

 金髪の少年カインは弟の身体を拘束している衣類に視線を落とし、ほんのわずかに嫌悪の色を浮かべた後でそのいましめを解いた。

「やめろ。お前まで・・・」

 カインは微笑んだ。その顔は長い歴史の中で幾多の芸術家たちがキャンバスや大理石、その他様々な素材に写し取りたいと願ってきたであろう天井人の面影を 連想させた。

「何を恐れているんだい?君は自分が捕らえられて屈辱的な姿で拘禁されることにはまるで無頓着なのにね。何十万、何百万という人の生き死にさえ気にかける どころか積極的に破滅を望んでいるのに」

 アベルは解かれた拘束服を脱ぐことを忘れて傍らに腰を下ろしたカインの横顔を見つめた。カインの声は言葉とは違って一言も責めているようには響かなかっ た。己のすべてが理解されて受け止められている・・・そう感じることができるアベルはカインの隣りではいつも静かに座っているだけで自由を味わうことがで きた。

「見せたいものがあって来たんだ。ちょっと綺麗なものだよ」

 カインは脇に抱えていた小型の端末を膝の上で開いた。透明なレンズを中心にはめ込まれたその機械をアベルはよく知っていた。今日の日中もこの端末から投 影される自我修正プログラムを延々3時間見せられた。愛、希望、溢れてしまった人類の救世の地となるべく決定された赤い星。そこに楽園を構築することを使 命として生み出された存在である遺伝子調整ベビーたち。映像が流れている間中アベルは目を閉じていた。しかしふさぐことの出来ない耳から専門用語と建前を 綴った理想の計画を淡々と語る声が流れ込んできた。そのどれもが彼の心と神経に細かい棘のように突き刺さった。それを思い出したアベルはカインから目を逸 らした。
 カインは笑った。

「大丈夫、これは喋らないよ。君の神経を逆撫でするために作られたものじゃない。僕がコピーしてきたただの映像さ。ほら、いいかい?」

 カインの指先が軽くキーに触れた。途端に独房の天井は空になった。他に侵すもののない夜空。そこから二人の上に降るのは遠い宝石のような星々とまるで意 思があるように揺れる極光の光だった。
 アベルはただその光を見上げ、見つめた。独房と名のついた空間は消滅していた。無限に広がる空間の切り取られたその部分。アベルは傍らのカインの存在だ けを意識しながら果てしなく広がる夜空の動きを眺めた。

「大きいだろう?オーロラは神話の中の女神の名前でもあって、その意味は『夜明け』なんだ。でも、こうして見ていると夜明けなんか永遠に来なくてずっとこ の光が続いていくような気がするよね。離れたところから見る星はどれもひどく清浄で。このオーロラの仕組みはある程度は解明されているが人の手で再現する ことはできていないんだ。おかしいよね、自分たちの存続のために星の中に手を伸ばそうとしている人間たちなのにこの気まぐれな美しささえも自分たちのもの にすることができないなんて」

 カインの穏やかな声が語ることの意味を。
 アベルはカインを見た。カインは微笑を浮かべたまま見返した。

「僕たちは人種も宗教も国も年齢も・・・この星の上で定められたすべてのものを超えるように作られた。疎外されて追い出されているわけじゃない、超越して るんだ。だからもしかしたらほんの少しだけこの光に近い存在なのかもしれないね」

 カインの言葉を聴きながらアベルは再びオーロラの動きに目を向けた。限られた数の遺伝子に手を加えられたくらいではこの眺めの下では彼自身も見えないほ どちっぽけな点のひとつに過ぎない。彼らを作り出した人間たちと同じだ。そのことを不快に思うべきなのか、それとも安心するべきなのか。アベルは長く静か に息を吐いた。

「リリスに見せたら、このオーロラを奇跡だと言ったよ。自然の恵みだと。でもその答えを聞いたらあの子にはこの僕の中にある気持ちは全部伝わっていないっ てことがわかった。だから来たんだ。君と一緒にこれを眺めるためにね、アベル。言葉はいらないよ。君の顔を見れば君が感じたものがわかる。君と一緒にこれ を見ることにして正解だったこともね」

 カインの肩がアベルの肩に触れた。

「僕たちをそのままそっくりに作ってもよかったのにね。わざわざ髪の色を変えて識別しやすくするなんて、ちょっと馬鹿げているよ」

 触れ合った部分からゆっくりと広がっていく互いの体温の感触と一体感。アベルは目を閉じた。広がる空間の中にあって存在を認め合う相手がいてくれること に対する充足感。それは幸せと呼ぶにはさらに深く、幸運と呼ぶよりも必然に思えた。

「・・・同じものを見てるのか?カイン」

 金と銀の髪が混ざり合った。

「別々の個体としては限界があるけどね。でも、僕は君が見ているものをわかるように思うよ」

 ならば自分はカインが見ているものを見ているということなのだろうか。カインに理解されていることには自信を持てるのに逆を考えるとふとその気持ちが揺 らぐ。アベルは目を開けて極光の揺らめきを見た。己の中に重なるものがある気がした。

「ああ、そうだね。このオーロラはとても君に似ている」

 カインの囁きを聞いたアベルの頬を一筋の涙が落ちた。
 カインはそれに気がつかないように繰り返される星空のレビューに瞳を向けていた。

200512.21

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