夢の船、と船大工は言った。
外見的にはおよそその言葉の響きが似合うとも思えない男だったから(なにせ、サイボーグ人間だ)、サンジは不用意に胸をつかれてしまった。
そうか、これがあいつの夢の船か。
一歩一歩、静かに踏みしめながら、視線を動かしながらサンジは静まり返った夜の船の中を歩いた。真新しいキッチンはピカピカに磨いた。明日のための仕込 みも終わった。少しだけホッとしながら、サンジは気が向くままにその部屋に足を向けた。
アクアリウムバー。
実は一人でこの部屋に入るのは初めてだった。ここは釣った魚をそのまま放り込んでおける大きな水槽が壁と天井を占め、水族館気分を味わうことができる場 所だ。仲間内でも人気の部屋で、サンジはここによくキッチンから飲み物を上げたり、おやつを運んだりする。予算が許される限りの厳選した酒も置いてあるの で、それを目当てにのんびりくつろいでいく人間もいる・・・・例えば筋トレを終えた剣士なんかが。
そんな訳でここは賑やかな時間が多い印象があるのだが、今はとても静かだった。サンジはゆっくりと部屋の中央に立ち、ぐるりと目の前の夜の海を眺めた。
「悪いな、起こしちまって」
水の中で身体を休めていた魚達の中で、敏感な種類らしい数匹がどこかダルそうに動いた。サンジが持ってきた小さなランプの灯りが気になったのだろう。そ の魚達に起こされて、さらに数匹がふわりふわりと灯りが届かない方へ姿を消した。
海の中もこんななのかな。
サンジは思った。もちろん、自然の海の中には敵もいるだろうし水槽という切り取られた場所とは違うだろうけれど、それでも魚達は静かな時間を過ごすこと もあるはずだ。
コツ、コツ。
サンジの耳に自分の靴音が響いた。
シュボッ。
煙草を咥えて火をつけると、薄い煙の匂いが周囲に広がった。
波の静かな穏やかな夜。
そんな夜がきっとあの海にもあるのだろう。
まだその在り処をサンジが知らない、あの広い広いオールブルーに。
夢の船、なのだ、このサニー号は。
それも完成した夢じゃない。いくつもの海を越え、困難を越えて”海の果て”に届いた時、初めて夢の船と呼ぶことができるのだという。まだまだ夢には続き がある。そのことをサンジは気に入っていて、ひそかに意識を鼓舞されている。この大きな水槽の海水は常に新鮮なものと入れ替えられている。だから、釣った 魚もどんよりと瞳を濁らせることなく、イキイキとした姿を見せてくれるのだ。基本、ここに来る魚達は食材だから、ただ視線で愛でて終わる対象ではない。そ のことを気の毒だとは思わない。料理する直前までできるだけ良い環境に置く事が肝心であり、料理人としての礼儀であるようにサンジは感じている。
そう。この大きな水槽があれば。
そして、サンジが夢を追い続けていつかオールブルーに到達したなら。そこはありとあらゆる海の魚が集まっている宝箱のような場所なのだ。
勿論、存分に船を走らせて色々な魚を獲り、料理に腕をふるう。そしてその中でサンジが特に気に入った種類を・・・・生きたまま連れて戻ることができるか もしれないではないか。見せること、味あわせること、そして料理をさせることもできるかもしれないではないか・・・・あのクソジジイに。大昔に今のサンジ と同じ夢を抱えながら海賊をやっていた頑固な元気印のコックに。
ふぅ。
サンジは細く煙を吐いた。
ルフィと出会って海に出たあの日から、サンジは一度も自分の夢を不可能だとか手が届かないとか思ったことはない。海賊王になる予定のルフィも大剣豪とや らを目指すゾロも、他の連中も多分みんな同じだろう。メリーからサニーへと船の遺志は受け継がれ、新しい仲間と新しい夢を積んで船はただ前へ進むのだ。近 づいているのだ、日々確実に。サンジの夢、オールブルーは。
サンジの目は半分焦点をぼかしながらじっと水槽を眺めていた。
瞼を閉じれば見えてくる。今夜のこの海のように穏やかな表面に月の光の道ができた伝説の海。月明かりの波間に跳ねる魚達。
ジジジ・・・・
ふと、異臭を感じたサンジは目を開けた。一瞬、どうしたのかわからなかった。
「なぁに自分の煙草で前髪焦がしてやがるんだ、アホコック」
「え・・・?俺・・・髪?!」
驚いたサンジはゾロの口調に対して怒り返すのを忘れて慌てて左手を下げた。
ゾロが言った通りだった。前髪の一部が焦げてチリチリになっていた。
「うわ、みっともねェ」
サンジは惨めな姿になった数本の髪を思い切って抜いた。一度に抜いたので涙目になったが、それをゾロに気がつかれない様に慎重に灯りに背を向けた。
「寝酒かっくらいに来たのか?クソマリモ」
「・・・・どっち向いて喋ってんだ、お前」
不思議そうな声が聞こえたかと思った時、足音高くゾロがサンジの前に立った。
「・・・何だよ」
「いや、デコの真ん中に火傷でもしたかと思ってな」
「するか!そこまで鈍くねェ。てめェと一緒にすんな」
「ふぅん」
ゾロは薄明かりの中、確かめるようにサンジの額を一瞥し、腕を組んだ。それから水槽を見た。
「髪焦がすほど面白ェもんが入ってんのか?今、この中に」
「入ってねェ。チョッパーがタコを随分気に入ってたみてェだがな」
「ふぅん」
ゾロは水槽から目を離し、再びサンジの顔を見た。
「じゃあ、お前、何を見てた?さっき、ここで」
「何ってよ・・・・」
何でそんなことをお前に教えなくちゃならないんだ、と・・・・そう言うこともサンジにはできた。これが昼間だったなら、きっと言っていただろう。だが、 薄明かりの中サンジの方を振り向いたゾロの顔にはいつもサンジをイライラさせるあのゾロ特有の笑いがなかった。ただ不思議そうに、今にも首を傾げそうに、 それこそタコを見たときのチョッパーに似た表情だけがあった。それを見ているとサンジまで不思議な気分になりそうな気がした。
「この水槽、すげェよな、とかまあ、そんなことを考えてたらよ・・・・もっと遠い海のことなんかも心に思い浮かんでよ」
「・・・・ああ、お前が言ってた、色んな魚が泳ぎまわってるっていう、あの海か」
「まあな」
「で、そこで捕まえた魚をここに放り込んだらってか?」
「・・・そうだよ!」
思わず語尾に力が入ってしまった。サンジは無性に照れ臭くなり、それのはっきりした原因がないことに苛立った。
何を怒ってるんだか。そんな表情のゾロは、部屋に入ってきた時にサンジがしたように、ぐるりと水槽全体を見た。
「まあ、こんだけ広けりゃ結構な数の魚を放り込めそうだな」
ゾロの声が急にサンジの心の中の小さな場面に現実味を与えた。当たり前のように、いつもと同じ当たり前の顔でゾロが言った。たったそれだけのことだった のだが。
サンジは肩の力を抜いた。
「お前は毎日でも刺身が食えればご機嫌なんだろ」
「煮付けも悪くねぇぞ?酒のつまみにちょうどいい」
また、こいつは。
サンジは自分の中の喜怒哀楽の激しさをゾロのせいだと確信した。ゾロ自身が無意識なだけに余計に悪い。無意識にサンジを怒らせ、そして無意識に・・・こ うやって無性に照れさせる。
「この船は随分頑丈そうだし、サイボーグな船大工もいるんだ、ちゃんと俺らをどこの海にでも運んでくれるよな」
どこまでも、行けるよな。みんな一緒に。
サンジの顔を見ていたゾロは、そこに幼い少年の面影を見たのかもしれない。彼は口から出掛かっていた言葉をやめ、ただ、ひとつ頷いた。
「へへ」
サンジは新しい煙草を口に挟んだ。
室内に戻った静けさが2人を包んで満ちた。
なあ、ゾロ。
心の中で言いかけたサンジは真っ直ぐに自分を見ているゾロに気がついた。
いいや、もう。どうせわかってんだろ?お前は。俺がジジイのことを考えてるときはたいていそんな顔してるもんな。
サンジが煙草に火をつけると、部屋の中の空気が動いた。
「まあ、いい。飲むぞ」
そう言ったゾロも、もしかしたら気分はサンジと似ているのかもしれない。
「・・・酒、選んでろ。上に行って残りモンを下ろしてやる」
「ああ」
足取り軽く部屋を出たサンジは口笛を吹きかけて慌ててやめた。ぐっすり眠れている連中を起こしちゃ気の毒だ。特にレディには睡眠が大切なのだから。
オールブルーに行くまでに極上の酒も選んでおかねェとな。その時は全員で盛大に酒盛りだ。
サンジは我慢できずに一節だけ口笛を吹いた。
それから片手をポケットに突っ込んで、リズミカルに前に進んだ。