(おかしなことになったものだな)
己の身にふりかかったその出来事を、男は他人事のように無関心に噛んでいた。時に『棺桶』と呼ばれる彼の船・・・・・グランドラインという海にはあるま じき大きさというか小ささの彼の船の隅には毛布にくるまった小柄な姿が身を丸めて眠っている。その細い身体や長い髪は海風の中に煙と血の匂いを放っている ように思える。そのうち潮の匂いの方が勝るだろうが。
(まあ、いい。すぐに道は別れる)
男が約束したのは島から連れ出すことのみ。その約束にしても、本当はあの赤毛がするべきものだったのではないかと今も思う。さすがに大海に放り出すわけ にはいかない。だから、次の島が終点だ。
孤独と平静が男の世界だった。最近では心を熱くしてくれる戦いはほとんどない。
ジュラキュール・ミホーク。『鷹の目の男』と呼ばれる最強の剣士。
首から下げた十字架が揺れた。
「この先に街が・・・・?」
少女の声は静かだった。身にまとった衣類は焼け焦げと切り裂きで無残なありさまで、コートの裾を翻しながら前を行くミホークとは対照的だ。
「そうだ。着いたらそこで別れる」
無感情に答えるミホークの後姿を見上げる少女の顔にも感情はなかった。
2人は黙って歩き続け、やがて港から続くメインストリートに出た。にぎやかな街だった。表の顔と裏の顔がしっかりありそうな空気が漂い、昼間の今は香し い料理の匂いと音楽が流れている。
ミホークの足は自然とこれまでに幾度も訪れたことがある1軒の静かな酒場に向いた。扉を押しながら目をやると、少女はかたい表情ですこし離れて立ってい る。
「中に入るか。それともここでいいか」
少女はかすかに身震いした。ミホークの視線と声はどちらもあたたかいとは言えなかった。元々感情を表すことがない男だ。船の上では2人はほとんど言葉を 交わさなかった。
「久しぶりだな、旦那」
大きなゴミ箱をもった店主が店の横手から顔をのぞかせた。
「なんだい、随分とボロボロのお連れさんと一緒じゃないか。・・・・女の子かい、おい!」
店主は驚いたように大声を出した。
無理もないな、とミホークは珍しく心の中で苦笑いをした。
「店の姉さんたちが悔しがるなぁ。さあ、入ってくれよ。お連れさんはちょっとシャワーが必要みたいだし」
街についた今はもう自分の連れではない。
口にはせずにミホークはもう一度少女を見た。煤と埃と血の染みで汚れた衣類。そこから出ている手足も煤けて傷だらけだ。それでも少女の瞳には苦痛も悲し みの色もなく、それが違和感を感じさせた。
「金はあるのだろう。身支度を整えたほうがいい。そんな無様ななりでは何もできまい」
少女の手が懐の辺りをそっと押さえた。炎と煙の中で女たちが懸命に手持ちの金を集めて入れた布袋。今は少女の唯一の拠り所のはずだ。
ミホークはそのまま店に入り、途端に集まる人々の視線の中、カウンターに向かって腰を下ろした。
店主がミホークの好みの酒をグラスに注いで彼の前に置いたとき、ミホークに集まっていた視線がいっせいに動いた。
「・・・なんだ、ありゃぁ」
「ボロボロじゃねぇか」
少女は寄せられた視線を無言ではね返しながらカウンターの前に歩いてきた。
「シャワーと傷薬、それと何か服を」
大人びた口調とまっすぐな視線。少女は店主に案内されて2階への階段を昇っていった。ミホークとは一度も視線を合わせなかった。道は別れたのだ。
(潔いな)
ミホークはグラスを口に運んだ。
それからゆっくりと3回ほど杯を重ねた頃、2階から少女が降りてきた。
「おい・・・・」
「まだ餓鬼だが・・・女だったんだな」
男たちの声が漏れる中、少女は1段ずつ階段を降りてくる。汚れを洗い流した肌は透けるように白く、身体全体が細くて華奢な印象を与える。少女は店の女と 数語言葉を交わして誰もいないテーブルに座った。
「なんだ、旦那の連れじゃなかったんだ」
店主がなぜかがっかりした声を出した。
「ああ、連れではない」
ミホークは杯を干した。
1時間後。店内は異様な熱気に包まれていた。その中で平然としていたのはミホークと当事者の少女の2人だった。少女のテーブルには4人の男が座り、手に はカードを持っている。同じようにカードを持つ少女の手の前に積み上げられた硬貨の山が状況を示していた。
「すごいわぁ、また勝ちよ!」
少女を囲んでいるのは店の女たち3人。すっかり自分たちより幼い同性の虜になっている。不思議と、そんな女たちに向けられる時だけ少女の瞳には柔らかな 光があった。
最初はダイスだった。無表情に氷が入ったドリンクを飲んでいた少女をからかうように、1人の男が勝負を持ちかけた。少女はほんの一瞬意味がわからない視 線を男に投げたが、黙ってうなずいて勝負を受けた。そして、勝った。静かにダイスを振る少女の手つきは鮮やかで、男の派手なだけの動作ははっきり言って比 べものにならなかった。少女がダイスで数回勝ったあと、今度は別のテーブルでカードをやっていた男たちが声を掛けた。そして、今に到ったのだが。
店中の視線が少女の姿に注がれていた。
「そろそろ・・・・・やめさせた方がいい。あれは」
誰にともなく店主が呟いた。店主はミホークが少女を連れではないといったことを覚えていた。だから、聞こえるように独り言をいうしかなかった。鷹の目の 男。世界の頂点に立つこの男の心を動かすことなどできないと知っていても。
ミホークは黙って少女の姿に目を向けていた。静かな、静か過ぎる感じがするその姿。勝負に勝った喜びはひとつも感じられない。それが男たちのプライドを 刺激し始めている。
(あの顔で無邪気に喜んでみせれば丸くおさまることだろうに)
幼さが抜け始めた少女は美しさの片鱗をみせていた。精神性の高い顔だ、とミホークは思った。
また少女が勝った。
と、男の1人が腰の辺りに手をやった。恐らくナイフを帯びている。
(あれは・・・・・)
ミホークが目を留めたのは男の手ではなくて少女の顔だった。今見たと思ったあの表情は何だ。どこかで見覚えがあるあの感じは。少女の視線の動きは男の行 動を読んでいることを示していた。
すべては一瞬の間に起こった。男がナイフを抜いて立ち上がった。少女は光る刃を見つめたまま動かない。ナイフの切っ先が少女の喉もとを狙ったとき、女た ちが悲鳴を上げた。その悲鳴を聞いた少女の表情に一時に感情が溢れた。少女は両腕を広げて女たちをかばうように立ち上がり、ナイフは少女の肩を突いた。
赤い流れが腕を伝って床に落ちはじめた。女たちの口から再び悲鳴がもれた。
「怪我は・・・・?」
少女は自分に刺さったナイフを握る男の手に自分の手を重ねてナイフを引き抜くと、女たちを見回した。刺した男は呆けた顔で自分のナイフについた血を見つ めている。
「怪我してるのはあんたよ!ああ、早く手当てしないと。痛そうだわ・・・・大丈夫?我慢できる?」
女の1人が少女の頬に手を触れた。青ざめた顔の少女は何かをこらえるように一瞬目を閉じると、唇を噛みしめて女の手を振り払った。
「あ、ねぇ!」
少女はそのまま店から外へ駆け出していった。
少女は背後から自分を静かに絡めとった腕に対して本能的に激しく抵抗した。背中の後ろの相手の顔も見ないで足で蹴り上げ、身を振りほどこうともがく。身 体を大きく動かすたびに左の肩から熱いものが吹き出した。次第に暗くなっていく視界の中で、見覚えがある翻るコートが見えた気がした。何をしても揺るぐこ とがない力強い手に両方の手首を捕らえられた。
「吐き出してしまうがいい。ぬしが抱えるには重過ぎるものだ」
冷たく平然としていたはずの声が聞こえた。そこに何かかすかな別の響きを感じるのは自分の心が弱っているからだろうか。少女はこらえきれずに一筋の涙を 流すと、そのまま目を閉じ、やがて力を失った細い身体はかたい腕の中へ倒れていった。
揺れている。身体になじんだこの感じは波だ、船の上で感じる海の波。でも、そんなはずはない。自分は記憶を溯って夢を見ているのだろうか。
少女は目を開けた。そして自分を見下ろす金色の瞳を見た。
重い音とともに、口を紐でしばられた布袋が少女の顔の前に落ちた。硬貨がぎっしり詰まっていることがわかる。
「これを渡すように酒場の主に頼まれた」
記憶にあるとおりの無表情なミホークの声だった。
「どうして・・・?」
「ぬしがカードで勝った金であろうが」
「そうじゃなくて。どうしてまた、海にいるの?」
「皆、揉め事はご免なのだろう」
少女が聞きたかったのはそういうことではなかった。そして、少女が聞こうとしていることをミホークは十分わかっているのだという気がした。わかっていて 答えない。少女はじっとミホークの顔を見た。ミホークも視線を外さなかった。
やがて少女は息を吐いた。
「・・・どうしてまた船に乗せてくれたの?」
「あの街に未練があるのか?」
「そんなわけない」
少女が首を横に振る仕草は年齢相応に見えた。島についた時よりも表情が出てきたようにも思えた。この数日間は死んだように眠っているか黙って海を見つめ ているかだったのだが。
「暇つぶしだ。前と同じく次の島までのな」
ミホークは言った。自分でもそうとしか思い当たる理由がなかった。
少女はミホークを見上げた。
「ミホーク・・・・・、最初に船に乗せてくれた時のお礼をずっと言ってなかった。ありがとう。あんな、あなたには訳がわからない成り行きでの約束を守って くれて」
少女の目から涙が溢れていた。拭おうとしないところをみると、自分では無意識の涙なのかもしれない。
「ぬしに礼を言われる筋合いはない。あの赤髪が無理やり押し付けたことだ」
「・・・・シャンクスは・・・・・大丈夫かな」
少女の声は震えていた。
ミホークから答えはない。少女も答えを期待しているわけではない。それでも口にせずにはいられなかったその言葉は、ミホークの心に数日前のあの街の情景 を浮かび上がらせた。
渦巻く炎と煙の中で建物は崩れ落ちようとしていた。
「わたしが行く!」
飛び出そうとする少女を懸命に押さえる女たち。シャンクスとミホークが現れた時、色町を襲った海賊団はすでに最後の仕上げにかかっていた。
「煙があがってたんで来てみたんだが、久しぶりだな〜、ミヨン」
暢気なシャンクスの声が場違いに響いた。
「シャンクス!」
少女の腕を抱えていた女が振り向いた。血を流しながらも艶やかさを失わないその姿とは違ってその声には張りつめた響きがあった。
「手伝おうか?」
陽気なシャンクスの声と一緒に彼の背後から何人もの男たちが現れた。赤髪海賊団の幹部たち。見るからに一癖ありそうな連中だ。
「ああ・・・・シャンクス!もう、わたしたちはいいの。ここはどうにもならないから逃げるしかないわ。あいつら、何もかも滅茶苦茶にしやがっ て・・・・・・。お願い、シャンクス!今は先にこの子を逃がして!この島から連れ出してやって!」
「この子って・・・・エンジェルか?大きくなったなぁ。思ったとおり、いい女になってきたぞ」
必死な形相の女と笑みを浮かべた海賊と。
対照的な2人の姿をミホークは無言で眺めていた。島に着く直前にシャンクスの船に出会った。シャンクスが一杯やろうと誘ってきたので珍しく肩を並べて酒 場に入った。それから間もなく、騒ぎの気配と知らせが街を駆け抜けた。
「そんな暢気なこと言ってないでお願いよ!この子はわたしたちの大切な子。絶対にあいつらに渡すわけにはいかないの。ここから地下通路が島の反対側の入り 江まで続いてるわ。この子を連れて行って船を出して!」
シャンクスは女に微笑み、ミホークの方を振り返った。そこには厳しい面持ちと真剣な眼差しがあった。
「鷹の目・・・・あんたがこの子を連れて行ってくれ」
「おれには関係のないことだ」
「そう言うな。おれたちはちょっと片付けなきゃならないことができた。お前は1人。身軽だ。だから・・・・・行ってくれ」
「崩れるわ!早く!」
女は素早く金を入れた袋を少女の手に持たせ、抱いていた細い身体をシャンクスとミホークの方へ力いっぱい突き飛ばした。
「でも、わたしが行けば・・・・・」
叫んだ少女の鳩尾にシャンクスの拳が入った。シャンクスは右腕で軽々と少女の身体を抱え上げてミホークに放った。
「さあ、さっさと片付けて上手い酒を飲もうぜ!」
シャンクスが声を張り上げるといくつもの返事と拳が上がった。
「悪いな、鷹の目。次にあったら奢らせてもらうぜ」
壁が崩れると同時に扉が破られ、なだれ込んでくる海賊たちの姿が煙の中に浮かび上がった。
ミホークは離れていくシャンクスの後姿をしばらく眺めた後、腕の中の少女を肩に担ぎ上げた。とても軽かった。血まみれの女が必死で床の隠し扉を持ち上げ てミホークを手招きした。
「中は暗いけど、とにかく通路のとおりに行って。恩にきるわ」
穴の中に身を躍らせるとすぐに扉は閉められた。暗闇の中で着地した地面は硬かった。恐らく石が敷いてあるのだろう。靴音がした。
視覚を奪われたまま進む道中、少女の呼吸が耳についた。やがて着いた入り江は平穏そのもので波さえも穏やかだった。ミホークはそのまま夜の中を自分の船 まで歩き、少女の身体をまるで荷物の一つのように床に下ろすと、ちょっと考えた後に毛布をかけた。そうすると一層本当の荷物のように見えた。
船を出すと月の光が船の上に満ちた。
波に揺られるうちに色町での出来事がすでに遠くなった気もした。それでも足元には毛布に包まった姿が転がっていた。
「あやつと仲間たちに心配は無用だろう。それよりもぬしと一緒にいた女たち・・・」
ミホークは最後まで言葉を続けなかった。少女の目からさらに涙が溢れ、それを恥じるように少女は毛布を頭からかぶってミホークに背を向けた。それでも時 々押し殺した声が漏れ聞こえた。少女が声を出して泣いたのはあの日以来はじめてだった。
「名前を聞いていなかったが」
ミホークが言うと、毛布の中から細い声が答えた。
「エンジェル」
(そう言えばシャンクスがそんな風に名を呼んでいたな)
耳にはしていたが、本当の名前だとは思っていなかった。
エンジェル。天使。
毛布をかぶって震えている姿の背中には翼は見えなかった。無理やりに毟り取られてしまったようだ。そんな風に思った自分をミホークは心の中で馬鹿げてい ると思った。