己の船にこの少女が存在していることは偶然の仕業に思えた。
そのため、という訳でもないのだがミホークはつい先刻まで忘れていた。少女が食べ物らしい食べ物をずっと口にしていないこと・・・・・前の島で冷えたグ ラスを重ねる様子を目にしただけで。
この少女・エンジェルは空腹らしい様子を見せないし、まして訴えることもない。毛布に包まって海を見つめるその後ろ姿は次第に見慣れたものとなり、船首 を飾る造形のように感じるときもある。
「ぬしは・・」
言いかけるとエンジェルは振り向いた。そこには笑顔があった。なんとなく意表を突かれた感じでミホークは口を閉じた。振り向いた拍子に頭からかぶってい た毛布がずれて長い髪がやわらかく溢れる。エンジェルが髪を払う首の動きは優雅だった。
「何を言おうとしたの?」
透明な声はやわらかく、昨夜の涙は夢だったのかと思わせる。
「いい加減腹が減っている頃だろうと思ったまでだ」
「でも、食べ物は持っていないもの。だから、考えない方がいいと思うの」
ミホークの無関心な表情がわずかに動いた。飢えを知らないゆえの大胆さか、それともその反対なのか。
「これまでにもこういうことがあったのか」
ミホークの口から出た言葉は彼をよく知る者ならきっと驚いたに違いなかった。他人への、それも年若い少女への関心。ほんの僅かではあるが。
エンジェルは言葉の意味を考えるように一瞬首を傾げた。それからまたやわらかく微笑んだ。
「わたしはみんなに守られて育ったからお腹がすいた経験はごく日常の空腹感しかない。でも、食べたくても食べられない時の話はたくさん聞いたことがある。 こんな、ほんの何日かというんじゃなくて、自分の身体を投げ出して抜け出すしかなかった空腹・・・・・だから、このくらいは我慢できなきゃおかしい」
少女の年齢はいくつなのだろう。聞いたところでミホークには比較対照できる知識はないのだが、それでも少女の口調は年齢を超えている気がした。
「心配してくれたの?」
「そういう訳でもない」
ミホークの冷たい声も少女の心に刺さった様子はなく、エンジェルは笑った。降り注ぐ日差しと海の青さが似合う笑顔。無邪気で無垢な羽を持った生き物。
ミホークが無言のまま食料が入った皮袋を置くと、エンジェルは目を丸くした。
「食料、あったの。・・・・そうね、ミホーク、酒場ではお酒しか飲んでなかった。鷹の目の男もお腹すくわよね。あのね、どれだけ払ったらいいの?どれを食 べていい?」
今度の無言は真の絶句だった。この少女は剣豪の頂点に立つ男から食料を買うつもりなのだろうか。また同時に、ミホーク自身もエンジェルと同じくらい何も 食べていないことに気がつかされた。少女はミホークが食料を持っていないと考えて尋ねもしないで我慢していたのだろうか。
(いや・・・・昨日までは空腹を感じなかったのだろう)
無表情で感情をすべて失っていたエンジェル。それを呼び戻したのは昨日の涙かもしれない。
「あのね・・・・食料を見せびらかしてるだけ・・・ということはないわよね?」
エンジェルは皮袋を指でつついた。この少女、大剣豪を絶句させる天賦の才の持ち主かもしれなかった。
「金はいらぬ。好きにしろ」
エンジェルはミホークの顔を見つめた。深い色を浮かべた瞳は彼の金色の瞳の奥を覗こうとしているような感じがした。やがて、少女は微笑んだ。
「ありがとう」
エンジェルは袋の口を開いて干し肉とパンを取り出した。一緒に入れてあったナイフで器用にパンを二切れ切り取ると間に干し肉を挟んだ。
「はい」
少女の白い手がそのシンプル極まるサンドイッチをミホークに差し出した。ミホークは小さく手を動かしてそれを断った。
「じゃあ、いただきます」
エンジェルは微笑んだままパンを口に運んだ。端を少し噛み切ってもぐもぐと口を動かす様子は、少女がそういう食べ物に慣れていないことを示していた。そ れでも真剣に噛み下して飲み込むと喉の動きが外からもわかった。昨夜はナイフが狙った白い喉もと。
しばらく少女が目を白黒させながら食事するのを黙って眺めていたミホークは瓶詰めのワインをまた少女の前に置いた。
「酒は飲めるか」
エンジェルはじっと瓶を見た。
「水で割ったものしか飲んだことない。乾杯の1杯目は別だけど」
「では少量ずつ口に含むがよかろう。無理にとはいわぬがな」
エンジェルはそっと瓶の首の部分を握り、コルクの栓を見た。開ける場面は何度も見たことがあるが、実際に自分で開けたことはない。道具もない。一応ナイ フを持ってはみたがどう頑張っても栓をボロボロにするのが関の山に思えた。
「う・・・・・ん・・・・・・」
少女の唇はかすかに開いて集中力の高まりを示していた。頭の中で様々な可能性を試しているのだろう。
「あ・・・・そうか」
不意に無言のミホークを見上げるエンジェルは嬉しそうな表情を浮かべていた。
「その剣を貸してくれる?」
「・・・・ぬしにこの黒刀が振れるとは思えぬが」
「うん、そうね。あのね、貸して欲しいのは胸に下げてるその十字架」
「ほう。どうしてこれが剣だと思う」
ミホークが問うとエンジェルは笑った。
「抜いてたでしょう、ミホーク、あの暗い通路の中で」
「ぬしは意識を失っていたと思ったが」
「ほとんど覚えていないけど、でも、暗い中であなたの手が動いたのは覚えてる」
闇の中で見えていたはずはなかった。それでも少女の声はありのままを語っているのだとミホークにはわかった。
「これでどうしようというのだ」
ミホークが小さな剣を抜いて差し出すとエンジェルは慎重な手つきで受け取った。ふぅっと息を吐き出すのが聞こえた。
「気持ちの問題よね・・・・・・」
自分に言い聞かせるように呟くと少女は瓶を床に置き、瞳を見開いた。その時少女の身体から放出された気は驚くほど研ぎ澄まされていた。少女は深く息を吸 い込み、次の瞬間に細い腕が弧を描いた。
瓶の頭が飛んだ。エンジェルは鮮やかな切り口を確かめるようにそっと指先で自分が作った穴をなぞった。それから光にかざして刃を眺めた後、柄をミホーク に向けて差し出した。
「ありがとう」
ミホークは黙って受け取った。エンジェルは切り口の部分を口にあてて小さく喉を鳴らした。そして眉をしかめた。
「ごめんなさい・・・・・血が出ちゃった。ワインに入ったかもしれない」
少女の唇の端をワインの赤とは違う紅が細く伝った。手の甲でそれをぬぐう少女の手から瓶を受け取ってミホークは無造作に口をつけた。
「さして味が変わるわけでもあるまい」
気合一つでガラスを切り落とした少女。少女が切った位置は、もしも切らなければならないとしたらミホークも選んでいたはずの場所だった。
(勘がいいのだな)
勘のよさは少女の特性であるように思えた。カード勝負の強さ、十字架を剣だと気づいていたこと、そしてガラス瓶の切り口。
手の甲で唇を押さえて顔をしかめる少女は無邪気に見えた。
と、少女は笑いはじめた。
「どうした」
「飲むことばかりでとって置くことを忘れてた」
エンジェルは床から自分が切り落とした瓶の頭を拾い上げた。まだかたくコルクがはまっている。
「この栓を抜いて使ったらいいかもしれないけど、それだとまた最初の問題に戻っちゃう」
「一度開けたら飲み干すのが適ったやり方だと思うが・・・・」
ミホークの右手が再び十字架の剣を抜いた。と思う間もなくその手が柔らかく上下した。
「ミホーク・・・・・」
目を見張るエンジェルの目の前でガラスの部分が縦二つに割れ、中から飛び出したコルクと一緒に足元に落ちた。
「速い」
エンジェルはため息とともにミホークの手を見つめていた。
「見えたのか?」
「ううん。見えなかったけど、でも、通ったのはわかった」
肌で感じた空気の流れ。コルクを拾い上げたエンジェルは小さく身震いした。
ミホークは瓶をエンジェルに渡した。エンジェルは今度は静かに口をつけて少しずつ飲んだ。白い肌にほんのりと色が差しはじめる。
パンを噛みワインを啜りながら食事を続けるうちに段々と少女の頭が左右に揺れ始めた。
「・・・・眠くなったみたい・・・・・」
少女は瓶を置いてコルクをなんとか捻りこんだ。それから手にパンを持ったまま船べりに身体をもたせかけた。
「眠りたく・・・・ない・・・・」
無言の抵抗もほとんど効果はなく、やがて少女の頭が垂れた。
(いそがしいことだな)
ミホークは視線をそらすように波打つ水面を眺めた。