少女が眠りたくないという言葉を口からこぼしたその理由。
それをすぐにミホークは知ることとなった。
エンジェルの手からパンが落ち静かな寝息がはじまった、と思った時、エンジェルの口から小さな悲鳴が漏れた。それに続く懸命にもがくような動作はミホー クが一番初めに見かけたときのエンジェルの姿を思い出させる。少女の閉じた瞳から涙が溢れて頬を伝い始めると、手足の動きが止まり身体を丸めるようにして 床に崩れ落ちた。
ミホークは黙ってその光景を眺めていた。眠る前の少女の笑顔の奥に隠されていたものの正体を。
エンジェルの噛みしめた唇から血が落ち始めた。手で肩の下を押さえているのは傷が疼いているのだろう。その手を見ているとまるで自分で自分の傷を開こう としているようにも思える。
「やだ・・・・・・」
絞り出すような声と一緒にエンジェルは目を開けた。その瞳はまだ夢の続きを見ているのだろう。船べりを向いて伸ばした手の先には何を見ているのだろう か。命か。生活か。失いたくないと切に願うそれは。
エンジェルの身体がへりを越えそうになって初めてミホークは少女の背後に膝をついて腕を捕らえた。するとエンジェルは思いがけなく強い力で彼の手を振り ほどいた。
「触らないで・・・・・・もう誰にも触らないでぇ・・・・・・」
「海に落ちるぞ」
ミホークの声をそれとわかった様子はなく、エンジェルは再びミホークの手から逃れた。
「波に吸い込まれたいか」
ミホークは小さくため息をつくと船尾に積んであるささやかな荷物の中から小ぶりなボトルを取り出した。それをもってまた少女の肩をつかんだが、ガクガク と震えてもがく細い身体はすぐに彼の手をすり抜ける。
(もっと深く眠るがよい)
ミホークはもう一度エンジェルの肩を捕らえると、口でボトルの栓を抜いて吐き出した。それからボトルを口にあてて大きく中味を口に含んだ。
(逃げるな)
ボトルを置くと空いた手でエンジェルの顎をつかんだ。肩と顎、2箇所を捕らえられた少女は半分意識が戻った顔でミホークを見上げた。その一瞬を逃さない ようにミホークはエンジェルの唇に自分のそれを重ね、口に含んだ液体を流し込んだ。
「ん・・・・・」
驚いた少女の柔らかな唇が震え細い身体が力いっぱいミホークの腕を突っぱねたが、ミホークは離さなかった。やがて少女の喉が小さく音をたてた。その飲み 込む音を確認するとミホークはエンジェルから離れ、何事もなかったように椅子にもどった。
「熱い・・・・」
エンジェルが喉を押さえた。ボトルの中身はかなり度数の高い酒だった。普段は少量を口に含んでその香りと焼け付く感じを味わうのだが、ミホークがエン ジェルに飲ませた量はいつもの10倍以上あったかもしれない。
「・・・・ミホーク・・・・・?」
アルコールにむせながら涙目で見上げるエンジェルの顔には戸惑いがあった。それでもミホークが無感情に見返すうちに白い頬に赤みが差しはじめた。エン ジェルは自分が眠ってからどういう状態になったのか、そしてミホークがどうしたのかをほとんど理解していなかった。喉を通っていった熱い酒とその香り、身 体に広がっていくあたたかさがそれ以上思い出そうとする気持ちを止めていた。
(何だか落ち着く・・・・・)
同情も哀れみも非難の色もないミホークの鋭い瞳はエンジェルの心には不思議な鎮静効果があった。初めて飲んだ強い酒の影響もあるのだろう。張りつめてい た気持ちがほどけて自分が見ていたはずの記憶の中の光景がぼんやりと遠くなっていく。
エンジェルは毛布に手を伸ばしてくるまった。
(・・・いそがしいことだ、まことにな)
聞こえ始めた静かな寝息は波音に混ざって後ろに流れ去る。
ミホークは先ほどの小さなボトルから一口飲むと、香りを追って目を閉じた。
次にエンジェルが目を開けると、一瞬、どこにいるのかわからないほどの霧に包まれていた。自分の手さえも見えない濃密な白濁。何も見えないと体を1ミリ すら動かしてないけない気持ちに襲われる。
「・・岸が近いの?」
直感で問いかけると静かな声が霧の向こうで答えた。
「近づいてはいるがまだ時間はかかる。眠るがよい」
「うん・・・・」
エンジェルは素直に目を閉じた。
(さて・・・・どうするか)
ミホークは霧の中でも船がどこへ向かっているのかわかっていた。島の入り江までの距離やかかるはずの大体の時間も。迷うことは何もないはずだった。
だが、彼は腕を組んで選択を決めかねていた。そういう自分の心にも当惑していた。
(まあ、よい)
ミホークは船を島に沿って大きく回し、当初の予定とは反対側に向かった。
そろそろ入り口だと思えた頃、ミホークは立ち上がって霧を透かした。一瞬で通り過ぎそうになった洞窟を見逃さなかったのは彼がこの場所を熟知しているか らだ。ミホークは難なく洞窟に船を入れた。入り口を通ると中は思いがけず広い。ゆったり船を進めて細かくて白い砂地につけるのは容易かった。
船をしっかり固定するとミホークは荷物を肩に掛けた。それから眠っている少女を揺り起こすために手を伸ばしたが、途中でやめた。霧は一向に晴れる気配を 見せていない。起こしたところで少女は1人では1歩も進めないだろう。1人に出来ないのでは眠っていた方が気楽だとミホークは思った。荷物と一緒に少女の 身体も抱え上げる。その細いからだの感触を彼の腕がいつの間にか覚えてしまっていることに気がついて苦い笑みを唇に浮かべた。
(あれ・・・・・・・)
エンジェルはやわらかくてあたたかな温もりの中で目覚めた。何か違和感があった。身体が揺れていない。眩しい光が溢れていて視界がはっきりとしてこな い。そのうちようやく目に入ってきたのは天井の木の色だった。
(空じゃない)
そういえば潮風も感じられなかった。ようやく今いるのがどこか部屋の中なのだと理解したエンジェルは身を起こそうとした。
「う・・・・」
思わず一声、呻いた。肩に激痛が走った。身体も妙にだるい。なぜか唇もヒリヒリしている。
横になったまま首を動かすと部屋の様子がわかった。陽が差し込んでいる窓にはカーテンもプラインドもない。壁も床も天井も木目がはっきりと見える。部屋 にある家具はベッドのほかにはシンプルな形のカウチとサイドテーブルだけで、カウチは暖炉に向けて配置されている。その背に半分引っかかっている丈の長い コートには見覚えがあった。全体的には黒が占める部分が広いが袖と襟、裏地の色が思いがけない鮮やかさを見せている。サイドテーブルには白い羽が刺さって いる黒いつば広の帽子がのっている。
「ミホーク・・・」
エンジェルは予感とともに慎重に身を起こして窓の外を見た。
窓の外には息を呑むほどの海の青が広がっていた。どうやらこの建物は高い場所にあるらしい。窓から見える水平線は途切れることなく視界の向こうにのびて いる。
その青を背景に1人立つミホークの姿があった。上半身剥きだしの肌とガッシリとした腕には筋肉の筋が浮かび上がっている。彼の手には長くて黒い剣が握ら れていた。黒い刃が彼を取り巻く光を吸い込んでいるように見える。剣を構える姿勢には硬さはなく、その姿は静かで平静そのものだった。
(おかしいな)
ミホークに出会ってからの数日間、エンジェルはずっと彼と一緒だった。なのにしっかりと意識してその姿を見たのは初めてのような気がした。
(静かだな・・・・)
窓枠に肘をのせてエンジェルは微笑んだ。
ミホークはエンジェルが彼を見ていることを知っている。そしてそのことをエンジェルは知っていた。ミホークが決して今自分にあの鋭い瞳を向けないだろう ということも。
とらえどころのない男を理解しようと思うのはどこか思い上がりを秘めたことのように思えた。だから自分が信じるままに動こうと決めた。この島に着いた以 上、ミホークとの別れは目の前だ。
(今は眠ろう)
少しでも早く体の調子を取り戻さなければ。
エンジェルは静かに枕に頭をのせて目を閉じた。今、この場所でなら眠ってもあの夢を見ないですむような気がした。そして今自分に出来ることはこれだけな のだと思った。