波打ち際ってのは案外歩きにくいモンだ。少しでも長く立ってると、波がやってきて足の下からあっさり砂を持って行きやがる。そうすると身体がグラリと傾 く。
カッコ悪ィ。
後ろを振り向く気はなかった。
きっともう、船は大分離れて小さくなっちまっただろうな。
ああ。
大丈夫だ。
頭の中のこの声は誰に向かって呟いてやがるんだろうな。
片手にひとつずつ靴を持ってひょこひょこ裸足で歩いてる今の俺は、傍から見るよりよほど無防備だ。靴のあるなしで蹴りの破壊力は全然違ってくるからな。
足に触れる波は冷たい。
でもよ。
考えてみたら、こうやって波と遊びながら歩いてるだけじゃいつまでたっても街の中には入れねェな。ぐるぐる島のまわりを歩くだけ。どっかのクソマリモみてェに。
それでもよ。
なんでか、まだこのまま歩いていたい気がしてる。
街に入って賑やかな人の中に混ざるのはもう少し後でいい。
新鮮な食材たっぷりの市場があるかもしれねェし、綺麗なレディが微笑みながら俺を待ってくれてるかもしれねェけど。俺はもう少しこうやって冷たい水とか 砂を足に感じていたい。
なんだろな、この気分。
背中をジリジリさせやがるお日様背負って、一面に広がる南国ムードの砂浜で・・・・俺、何やってんだろう。
サンジは自分の足を見下ろしながらゆっくりと歩いていた。
包丁セットを船に置いてきた。そのことに気がついたとき、煙草を咥えた唇に自嘲の笑みが通り過ぎた。
なんだ、俺、身体だけじゃなくコックも一休みってことなのか。
なんとなく、あの包丁たちはあの船のあのキッチンにすっかり馴染んでいた。だから、持ち出すことを思いつかなかったのだ。こんなことは今までにはなかっ た。あの魚の形をしたファンキー・・・に人には見えるらしいレストランを離れる時には、真っ先に荷物に入れたことを思い出す。
ふぅ。
吐いた息はすぐに宙に溶け込んだ。
煙草もやめてみようか。
そんなことを考えた。
「・・・やけに楽しそうに遊んでやがるな、あれは」
遠く離れた波打ち際に波と戯れている細い少女の姿があった。ワンピースの裾を海風にそよがせながら裸足で波を追いかけては逃げ戻る姿は、どこか透明な空 気を纏っているように見え、サンジは思わず足を止めた。このまま歩いていけば自然とあの楽しげな姿の邪魔をしてしまうだろう。かと言って、突然進む方向を 変えて海から離れる気持ちにはまだなっていなかった。
近づく大波を跳んで避けた華奢な身体と一緒に長い髪が跳ねる。
ガリガリと言っていいほど細い足が白い踵を見せながら波を追う。
追いつめた時がつまりは追われる側に回る時で、喉の奥から笑い声を溢れさせながら、また逃げる。
「・・・・犬っころ・・・いや、子猫みてェだな」
そのサンジの呟きが聞こえたはずはないのだが、その時、笑みが満ちた顔のまま細い姿は顔を上げた。
「え・・・?」
距離を置いて見たその表情と髪を後ろにかき上げる仕草からサンジは直感した。
子どもじゃない。
恐らくはサンジと同じくらいにはなっている・・・・少女ではなく、娘だ。
本当なら『レディ』と呼びたいところだが余りに細いその身体を見ると、なぜかサンジは心の中でいつものようにそう呼ぶことができない。
でも、とにかく、子どもじゃない。
俺の基準はナミさんとロビンちゃんになっちまってるからなァ。
サンジは頭の中に浮かんだ2人の豊かな曲線を、慌てて頭を振って消し飛ばした。
歩きはじめたサンジを黙って見ている娘の顔に警戒の類の気配はなかった。
不思議そうに僅かに首を傾げながら小さく微笑んでいる姿からはやわらかな声が聞こえる気がした。
こんなところでどうしたの?
そんな台詞が似合いそうな顔だ。
「あの〜、実は・・・ちょっと宿を教えてもらえないかと思って。宿の名前は・・・」
「・・・飛鴎荘(フライング・シーガルズ)?」
サンジの言葉の後半を娘が自然と引き継いだ。
「あ、そう!それそれ!ご存知だったら、こっからどっちに歩いていけばいいかだけ・・・」
娘の顔に浮かんでいた微笑が深まった。
その瞬間。
サンジは娘の年齢がほんの少しだけ自分よりも上なのだろうと不意に感じた。
「ご案内しますね。私もそろそろ戻ろうと思ってたところなので。うちはあまり大きくはないけれど、もうずっと前から続いているの。ゆっくり休むにはとても いいところよ」
少女のようで、同じ年くらいにも思え、そして今、大人になりかかった片鱗を感じる。
いつの間にか娘の姿や声に気持ちを集中していたサンジは、一拍遅れて言われた言葉の意味を理解した。
「・・・・宿屋のお嬢さん?」
娘はにっこりと笑った。
すると再びその姿は幼い者に似た無垢さを帯びた。
「
セラと言います。本当はお荷物をお持ちするところなのだけど持てなくてごめんなさい・・・・って、あら・・・身軽な旅をしてらっしゃる のね」
背中にはデイパックをひとつ。手にはそれぞれ片方の靴。
その姿でサンジは
セラと名乗った娘の笑い声を半ば呆然と聞いていた。
クルクルと踊りだしたくなる、あの、素敵なレディたちに会った時の抑え切れない興奮とは全く違う何か。
静かな胸の底でほとんど聞き取れない声が囁いている気がする予感。
・・・やっぱり心も身体も本調子じゃないみてェだな。
唇に笑みを浮かべたサンジは胸の中の戸惑いを払うため、大げさな身振りで
セラに深く一礼した。