やっべェ・・・・
海から自分が連れて来た気がする潮の匂いと色がいっぱいの庭の香り。この二つが混ざり合うのを鼻腔で感じた時、不意にクラッときた。酔う、というよりも 自分には受け入れられない濃さに手足の指先まで圧倒される感じ。体から力が抜けていく。
・・・・やっぱり俺、弱っちまってる。
ああ・・・みっともねェ。
船を下りてからここまで、ずっと必死で気を張ってきたんだ。で、そんな自分に気づく余裕がないほどクソ弱ってたってわけだ。
こら。立ってろよ、足。宿に入って部屋におさまるまで我慢しろ。誰かの前でぶっ倒れるなんてうすらみっともねェこと、させんな。まして、今そばにいるの は
セラさんだ。こんなにやわらかくてあったかそうな人を驚かせちゃいけねェ。
一歩、一歩、宿の入り口に向かって庭の中を進む。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
喉元に込み上げる気分の悪さを飲み込む。
にじみ出てきた冷汗が落ちないように必死で念じる。
もうちょっとだぞ、足、手、頭・・・
あと少しだから・・・・
「・・・頼むからよ・・・」
ふわりと重力にのって落ちていったサンジの口が小さく呟いたそれを、傍らにいた
セラは聞いていただろうか。
「サンジさん!」
ちょっと前からじっとサンジを見守っていた
セラは細い腕を伸ばしてサンジの身体を捉えようとした。しかし、その腕をすり抜けるように落ちていったサンジのスピードの方が速かっ た。
「お願い・・・サンジさん!誰か!早く来て!」
そんな風に全身の力のすべてを込めた大声を出したのは生まれて初めてのことで、叫んだ
セラは脱力してサンジの身体の傍らに膝をついた。
「お嬢さん?」
ドアが開き、戸口から顔を出した大男が目を丸くして駆けて来た。
「ああ、ミト・・・・サンジさんが。サンジさんの顔がこんなに白い・・・・」
日焼けとは縁がないサンジの肌はうっすらと青みを帯びていた。乱れた金色の髪が緑の芝生に散って光を反射する。
声を震わせながらも
セラの手はサンジの額の温度と首筋の脈拍を素早く確かめていた。
「とにかく部屋に運びます」
サンジを抱えあげようとした男に
セラは静かに指先を向けた。
「そっと・・・・そっとね。サンジさんの身体、体温が下がってる。きっと小さく揺れただけで嵐の海の小船のように感じるはず」
「気をつけます」
男はゆっくりと壊れ物を扱うようにサンジの身体を抱き上げ、その軽さに思わず眉を顰めた。これではまるで・・・女のような。感想は口にしないまま、男は 無言で
セラの前を歩いて建物の中に入った。
「保養のための逗留客だと聞いてはいましたが。必要ならドクターを呼びましょう」
宿帳に丁寧に文字を書き込んでいた女は落ち着いた表情で入ってきた者たちを見た。
「まず、あたたかくして寝かせてさしあげなくてはと思うの、お母様」
セラは女の姿を見ると緊張を解き、てきぱきとした動作で部屋の鍵を取った。
「そうね。それが終わったら、ミト、あなたはなるべく急いでドクターのところへ。
セラはドクターがいらっしゃるまでそのお客さんについていて」
言い終えると女はカウンターの中で再び宿帳を捲りはじめた。その動じない姿は自然と部屋の中の空気を静め、穏やかな日常に戻す。
「弱っている身体でも受け入れられるものを考えましょう」
開いた宿帳の横に女は1冊の古びたノートを置いた。その表紙を撫ぜる一瞬の手の動きはひどく優しかった。
「何か足りないものはある?」
尋ねた
セラに女は微笑んだ。
「大丈夫。あったらミトに頼めますから。だから、
セラ、急がずに落ち着いて。時間をかけて、ね」
「はい」
交わした視線の穏やかさが2人の中に流れる同じ血を感じさせた。
サンジの身体は男の腕の中でぴくりとも動かなかった。