顔の上の空気が熱い。熱くて重い。
どこまでも沈んでいこうとする身体を浮き上がらせるために深く息を吸おうと思う。思うのに何だか全然違うものになっちまってる空気が暑苦しくて鼻にも口 にも上手く通らねェ。
いつまでも頭を下に引っ張られてる。嫌な気分だ。
何とかしてェのに自分の手がどこにあるのかわからねェ。
クソ・・・クソッ、クソッ!
流し台で皿を洗ったあとの水を流した時に出来る小さな渦。ずっとあの中を落ちて行ってる気がする。黙ってたら行き着く先は嵐の下の海の底だ。
苦しいなんて言えねェ。
言ったらあのクソジジイ・・・残った足も食っちまう。
人に食わせるのがコックだってのがあんたの生き方。
けどよ、あんた、あの時は海賊だったじゃねェか。あの後自分の足を食っちまうなんてことさえしなけりゃ、まだまだ一旗上げられたんじゃないのか。
なあ、ジジイ。
お宝集めの海賊の頭と店に来た客を大事にするコックのあんた。俺は時々まだ迷う。どっちが本当のあんたなのか。どっちも本当だなんてことがあり得るの か。オールブルーを探すって夢を抱えて海を渡っていたあんた。夢と海賊とコック。それが全部あんたのものだとしたら、相当欲張りな人生だ。
「海賊に戻りたいって思うか?」と尋ねた俺にあんたは言った。
「あん時のあの仲間はもういねェんだ、未練なんぞ一つもねェ。それともお前、海賊の手下になりたかったのか?チビナス」
・・・誰がチビだ。クソジジイ。
「海賊なんて大嫌いだ。俺はコックだ。海賊じゃねェ」
そう答えた俺にあんた、何も言わずに笑ってた。
そんな俺が今はコックで海賊だ。我ながらおかしな気がする。けど、今の俺には海賊にも色んなヤツがいるんだってことがわかってる。あんた、どんな海賊 だったんだろうな、赫足のゼフ。聞いてもどうせ素直な返事なんて返ってきやしねェけど。
なあ、ジジイ。
おっかしいよな。俺はもうでかくなって、絶対にチビじゃねェのに。
呼べば答えるあんたの声が聞こえる気がするなんて。
ただ衰弱して身体が弱っているのだと医者は言い、滋養のあるものを食べさせること、とにかく休息を取らせることを勧めた。おそらくかなりの間まともな食 生活をしていなかったのだろうとも言った。確かにそっとむき出しにされたサンジの白い胸にはくっきりとあばら骨が浮き出していた。骸骨がかろうじて筋肉を キープしながら動き回っている状態を想像させた。
サンジが来る前に宿の部屋を予約に来たオレンジ色の髪の娘は、痩せてはいたがとても元気そうだった。ミトは黙ったまま記憶を辿った。娘は自分達と一緒に いるとその仲間がどうしても無理をしてしまうから一人でゆっくりさせたいのだと事情を話していた。その無理の結果がこの姿なら。このサンジという男がどう いう種類の無理をしてきたのか、少しは想像がつく気がした。
そんな事情はまだ何も知らないはずの
セラは医者の言葉を聞きながらじっとサンジの顔を見下ろしている。労わるようなその表情が時折泣きそうに歪むのは目を閉じたままのサン ジの苦痛を感じ取っているからなのだろうか。
サンジ。
これまでに会ったことがない種類の男。
この男もつまりはこの宿を通り過ぎていく客の一人に過ぎないことに、なぜかミトは安堵のようなものを感じた。
「・・・・」
サンジの唇の動きに目を留めた
セラが屈み込んだ。
「わからないけど・・・・誰かを呼んでるみたい、サンジさん」
セラが言った瞬間、サンジの表情が一変し、目を閉じたまま無防備な微笑を浮かべた。まるで幼い子どものようなそれに
セラも思わず微笑んだ。
「・・・苦しいだけの夢を見ているわけじゃないのね。よかった・・・」
こんな風に深い理解とともに見守られていることをサンジは感じているのだろうか。ミトはそっとサンジの額にかかっている髪を分けてやる
セラの指先を眺めた。閉じたままの目。それがどんな色をしているか、彼はまだ知らない。その代わり。
「あら」
小さく呟いた
セラの声と同時にミトの喉が妙な音をたてた。
「・・・素敵な形の眉毛ね」
と言うよりは変、だろう、やはり。雇い主親子に忠実な使用人としてそう突っ込むわけにはいかなかったが、思わずまじまじと細く渦を巻いたその形を眺め た。
「う・・・・」
サンジがやわらかく呻いた。
息を止めて顔を見合わせた
セラとミトの前で唇をもごもごと動かしてから、再び規則正しい呼吸に戻った。
「こうやって静かにしていれば、きっと、サンジさん、元気になるわ」
そう言った
セラの横顔を通り過ぎた刹那の真摯さを。
ミトは感じるすべてを内包したまま小さく頷いた。