覚 醒

透明ガラスボールに浮かぶマリモの写真 気配を感じはじめたのは引っ越した部屋の最初の夜だった。
 コポコポとかプクプクとか聞こえる小さな音。勿論、振り向いて見ても誰もいない。いてたまるか。俺はまだこの町の誰とも知り合っちゃいねェ。この部屋を 契約した不動産屋も隣町にある会社だしここはこのアパートの2階の端で、隣は空き室。気楽なもんだ。
 暑苦しかった昼間の空気が嘘みてェに冷えて、開けた窓からなんともいい気分の風が入ってくる。風呂上りには極楽だ。冷蔵庫に入れておいたビールを引っ張 り出したとき、また、音がした。
 コポプクッ
 そんな風に聞こえた。

「あいつか・・・・?」

 窓の下の壁際に置いた背が低いチェスト。その上に何気なく載せておいたガラス容器。中味はただの水と緑色の球体だ。マリモ。どこだか外国の湖から輸入さ れたとかいうこの代物は、昨夜引越し前夜だってのに『引越し前祝〜』とか言葉をくっつけられて渡された意味不明の物体だ。何でマリモ?俺は解けない疑問を 感じたまま2個のマリモを新居に連れてきた。

「てめェか?落ち着かねェ奴だな」

 立って行って覗くと2個のうちの大きい方がぷかぷか浮いていた。風が起こす小さな波に揺られてる様子はなんだかちょっと滑稽だ。必死、という感じがす る。もうひとつの小さい方は昨日からずっとガラスボールの底に沈んだままなのに。こいつ、ほんと、落ち着きねェ。

「・・・・・」

 その時聞こえた音は低めで短くて・・・どうしてか人の声みたいに聞こえた。

「ハイハイ、何だって?」

 俺はふざけて耳をおおげさに寄せた。

「カラダガカユイ」

 小さな低音が言葉らしいものを・・・・
 ・・・・はぁ?今のは何だ?俺は夢遊病の腹話術師だったっけか?それともビールの缶を手に持っただけで精神的効果で酔えるとか。

「アホくせェ。どうせ喋るんならもっとはっきり聞き取りやすく喋りやがれ」

 呟きながらタブを引くと白い泡が溢れた。それは宙を飛んで水の表面にも落ちたように見えた。すると・・・・浮いてたマリモがそれを避けた。ゆるりと身体 (?)を回して。
 ちょっと待て。お前、風向きに逆らってなかったか、今?

「おい・・・・ってつまり、そこのマリモ、お前、動けんのか?」

 今俺がやっていることは端から見ればおそろしく馬鹿馬鹿しい。あれだ、きっとあんな感じだ。お人形に話しかける子ども。いや、それよりもっとアホらし い、多分。こいつが金魚かなんかだったらちょっとだけまだ救われるのに。
 マリモは俺の言葉に答えるようにまたゆるゆると、今度は反対方向に回転した。

「サンジ、コノミズハイヤダ」

 またあの低い声が。コポコポいう音を交えながら。当然のように俺の名前を呼びかける。

「いやだっつてもなぁ・・・・」

 俺はマリモの飼い方とか育て方とかまるで知らねェ。こいつをくれた野郎は『時々水替えるだけでオッケーみたいだよ〜ぉ』って不気味に語尾をのばしながら 言ってやがったが。俺は冷えた缶を唇にあて、一気に呷った。どうせならちょっとは酔って辻褄を合わせよう。きっと明日には夢になってる。

「わかった。水を取り替えてやるからおとなしくしろ」

 ・・・マリモは噛みつくわけもなし、凶暴になんてなりようがないんだがな。
 キッチンに器を運んで中の水を流す。半分くらい流したところでマリモを外に出す。先ずは小さな奴からだ。大きいのは・・・・まあ、いい、後で。持ってみ るとマリモって奴は見てくれの印象とは違って結構硬かった。調理台の上に直に、というのはちょっと気がひけたので小皿の上に置こうとしたら手から落ちて転 がった。一瞬ドキッとしたが、普通に皿の縁にぶつかったところで止まった様子は自然の法則にかなっているらしく思えた。

「問題は、お前なんだよなぁ」

 恐る恐る手を伸ばしてる自分が嘘みてェだと思った。そっと触れたそいつはさっきのよりもさらに硬くて重みがあった。

「なのになんでお前だけ浮くんだよ」

 すると手の中でマリモが揺れた。左右に、小さく、不自然に。

「コノママアラエ」

 水から出ているせいかさっきまでより声が聞き取りやすかった。聞き取れている自分に問題がありそうなことを無視すれば。

「洗えって・・・・こうか?」

 水道のコックを捻って一直線に飛び出した水の下に手を差し入れると流れがマリモの身体を直撃した。すこし飛び上がったように見える動きが苦しそうだった ので水流を弱めると、マリモはおとなしく手におさまった。

「けど、洗えっつってもよぉ」

 かろうじて洗うのに石鹸を使うのはダメだという知識はあったので、ただ水をあてながら両手でマリモを転がした。

「痒いところはねェか・・・・・って、おい・・・・」

 口にした言葉のひとつひとつが情けなくて段々頭を垂れていく俺の手の中でマリモは見るからに元気を取り戻していく。

「ウマイジャネェカ、サンジ」

「はいはい、どうもお褒めに預かりまして。こんなんでいいか?クソマリモ」

 洗い終わって小さいのと一緒に皿に置いたらまるで触れるのに抵抗があるように少し避けたのが面白かった。

「んだよ、人見知りか?仲間同士、仲よくしろよ」

 マリモはふくれた・・・ような気がした。

「コイツハハナシガツウジネェシイキテンダカシンデンダカワカラネェ。オマエノホウガツウジル」

「・・・・お前の方が普通じゃねぇんだけどな、どう見ても」

 ため息とともにボールの水を全部捨ててから丁寧に擦り、新しい水を張ってから皿の上のマリモを転がして落とす。2個は一旦並んで底に沈み、それから予想 通り大きいのだけ浮き上がった。

「気持ちいいか?」

「オウ」

 答えたそいつはクルクルと三回転して見せた。

「じゃあな、俺はもう寝るぜ。朝から引越しで身体がボロボロ、お前のせいで心もズタボロだ」

 マリモは返事の代わりみたいにまた揺れた。
 電気を消した俺はそのままベッドに倒れこんだ。
 プクッポコッ
 薄闇の中、音が聞こえた。カーテンを買い忘れたのでむき出しの窓から風と一緒に街灯の明かりも流れ込む。ほの白い部分的な空間の中、水の中で浮いている あいつが見えた。
 コポポポ
 暢気なもんだ。
 瞼が段々重くなってきて身体が温まりはじめると何だかどうでもよくなった。どうせ明日になったら夢だったってわかる。きっと今の俺は引越し疲れでとっく にソファかどっかでゴロ寝してるんだ。俺は精一杯のあくびをして目を閉じた。
 クプポコッ
 おいおい、何を慌ててる・・・・・
 目の前には本当の闇が広がりはじめていた。

2005.10.5

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