珈 琲

透明ガラスボールに浮かぶマリモの写真 前に住んでいた部屋は朝日が顔の真上に差し込む窓だった。夏なんか髪と地肌が焦げそうな気がして目を覚ます。自然と身体が180度回転して逆さまになっ ていることも多かった。避けきれねェ無駄なあがきだ。だから、新しい部屋での最初の目覚めはなんとも頼りない感覚で目が覚めた。お日様じゃなくて体内時 計。それも狂いに狂っていた。

「・・・・う・・・・ん?」

 はめたまま眠ってしまったらしい腕時計を確かめるとほぼ10時。
 10時だぁ?冗談じゃねェ!
 上半身と下半身がそれぞれに飛び起きた感じがした。途端に目に入ってくる見慣れたものたちの配置の違いに眩暈がした。そうだ、ここは違う街だ。違う街、 違う部屋、違う時間。よかった、今日は一日とったゆとりdayだ。
 改めて枕に頭を静めると夢の断片が蘇った。おかしな夢だった。あの変な夢のせいできっと俺、調子が狂っちまったんだ。ぷかぷか浮きながら歌を歌ってるマ リモの夢。
 ・・・・マリモ?
 部屋の音が一気に耳に流れ込んだ。窓の外の人や車、自転車の気配。犬の声。そして。
 ブクッボコボコッボッコン
 何かが小さく沸騰しているような、そんな音。

「おい・・・・嘘だろ?」

 心で拒絶しながら身体はなぜか立ち上がって窓辺を目指す。低いチェストの上のガラスの水鉢に向かって。見下ろせばその中でマリモが1個、暴れていた。朝 日の中で5mm.くらいの浮き沈みを繰り返している。そしてその動きはどう見たって風に吹かれ煽られた結果ではない。

「アツイ、アツイゾ、サンジ!カラダガクサッチマウ!」

「へ?」

 そういえば昨日もそうだったが、目の前のコレを信じたくない俺の気分におかまいなしにブツブツ言ったり叫んだりするマリモのこの声はどうも一瞬で俺に魔 法をかける。

「だってよ、お前らは明るい場所がいいんだろ?そう聞いたぞ」

 俺に平気で返事をさせる。

「モノゴトニハゲンドッツゥモンガアルダロ、バカ!コレハアツスギダ。クサル」

「はぁ・・・・そう言やぁ、カーテンないからな、まだ。今日買いに行くつもりだけどよ」

 窓際を離れたテーブルに水鉢をのせるとマリモは静かになった。
 俺は椅子に座って改めてその緑の丸みを眺めた。

「夢じゃなかったのか、お前。・・・・それとも、実はまだ俺、眠ってんのかな」

 今日最初の1本を口に咥えて火をつける。美味い。ふぅっと煙を水の表面に吹きかけるとまたマリモが怒った。

「ナニシヤガル、テメェ!ケムイダロウガ」

「お前さ、煙とかどこで感じてんの?つぅか、目が見えてるのか?どうやって?どこで?」

「・・・・・・」

 怒りで身体を揺らしながらマリモは黙っていた。こいつにも答えようがないんだろう。ってことは見えてるし感じてもいるわけだ。もちろん、聞こえてるし。 どう見てもただもマリモなのに。

「・・・シルカ」

 答えたコイツの声音だけでそっぽを向いたことがわかった。不思議な気分だった。

「カーテンと食料の買い出し、それから店の下見だな〜」

 一日の予定を喋ってる俺。店じゃなくて外じゃなくて自分の部屋で。まるで同居人がいるみたいに。それが意味のあることかどうか考えながら珈琲を落とす。 煙草と珈琲。これがあれば朝は最高の気分になれる。

「うん、美味いな」

 つい数日前までいた店に新しく入ったブレンドはコクも香りも食後の大切な一杯にぴったりだった。

「・・・ソンナニウマイノカ、サンジ?」

 マリモはガラス容器の中、ギリギリまで俺に近づいてきた。

「まあ、これあっての一日ってもんだな」

 マリモはしばらくぷかぷかやっていた。何を考えてるんだ、こいつは。・・・脳味噌あんのか?

「オレニモノマセロ」

 意味が頭を通り過ぎた。俺は多分かなりのアホ面を晒してしまっただろう。じれたようにマリモが上下した。

「キコエテンノカ?オレモノム」

「え〜と・・・・飲むってどっから?」

「・・・・シラネェガ、トニカクココカラダセ」

 ・・・もしかしたら俺はまだやっぱり夢の中なのかもしれねェな。



 昨日水を替える時に使った小皿にマリモをのせる。
 ・・・何となくこの皿がコイツ専用っぽくなった気がしてちょっと焦る。
 マリモはじっと俺の顔を見上げ・・・・てると思うんだが、身体をちょっと左右に揺らした。と思ったら何だか全身を震わせはじめた。コイツ、力んでる。ふ んばってる様子がおかしくて吹き出した。
 と、突然マリモの顔(・・こう感じてる辺りが実は大問題だ。わかってる)の真ん中にポコッと小さな窪みが出現した。

「うお!」

「ココカラノマセロ。チャントサマシテカラダゾ」

 偉そうなんだよ、お前。
 それでも興味の方が先に立ち、素直にスプーンを取りに行ってる自分がいた。
 ふぅ。

「冷ましてったってよ・・・どんくらいにすれば調度いいんだよ」

 スプーンに掬った珈琲に息を吹きかけながら俺は、やっぱり、かなり抵抗があった。これは俺が風邪をひいて寝込んでいる美しいレディにお粥かなんかを散り 蓮華で、と夢に描いていた図だ。してあげるのもしてもらうのも絶対にしあわせそうだ。
 なのに何でマリモ相手に。この状況は練習にもならねェ。

「おら、行くぞ」

 銀色のスプーンの丸みを帯びた先端をそっと近づける。マリモはじっと動かないで待っている。

「こぼすなよ・・・って・・・・」

 一滴一滴雫を落とし込むような気持ちで注いだ珈琲はちゃんとうまくマリモの『口』におさまった。

「美味いか?おい・・・・ってうわ!お前〜!」

 わかっていていいはずだった。
 茶色の液体はその『口』から入って『身体』を通り抜け、小皿の上に沁み出した。
 マリモは皿の上で転がった。

「おい、どうした、苦しいのか?」
「サンジ、サンジ!カラダガイタイ。ピリピリスル」

 重なる俺たちの声。

「馬鹿!ちょっと待ってろ、今・・・」

 皿ごと台所に運んで流し水でマリモを洗った。何だかもう手馴れた気がした。

「もういいか?」

「・・・アァ」

 水鉢の中に戻してやるとマリモは数回揺れてからすぅっと水の底に沈んで行った。

「無茶すんなよ、させんなよ、お前は〜」

 マリモはコロコロと俺から一番遠い端に移動してからじっと動かなくなった。
 すねてやがるのか。
 それとも・・・・
 ダッテノミタカッタンダ
 そんな呟きが聞こえるような気がして耳を澄ましたが、何の音も聞こえてこなかった。

 クソマリモ

 こうして多分史上初のマリモに珈琲を飲ませてみる試みは見事失敗に終わった。

2005.10.11

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