爆 発

透明ガラスボールに浮かぶマリモの写真 昨日下げたばかりのカーテンを通して窓から差し込む朝日。目を開けて視界に入ってきた部屋の中はなかなかいい感じに見えた。やっぱりカーテンは少し光を通 すやつがいい。完全遮光とかいって朝になっても全然わからないタイプはどうも好きになれねェ。テーブルの上のガラスボールの中で元気に浮き沈みしている丸 い影。腹減ってるんだろうな。何となくわかった。

「・・・おはよ、ゾロ」

 よかった・・・普通に名前を呼べた。ホッとしている心の中にため息をついてる部分もある。うわ、これじゃあ子どもみたいじゃねェか。ぶるるるる。

「ハヤイナ、サンジ」

 カーテンを開けてレースのやつ一枚だけにしてやるとゾロは嬉しそうに顔を半分出した。朝食開始。手間要らずだな。
 ゾロに言われて時計を見ると目覚ましをセットした時間より40分ほど早かった。気分がいい感じに緊張して自然と背筋が伸びる。今日は初日。決めてやる。
 珈琲を淹れる間も皿にクラッカーを並べてチーズをのせてる時も、俺は頭の中で昨日覚えてきた店の様子を再現していた。キウィを半分に割ってスプーンを探 す。店は想像していたよりも広かったし厨房も立派だった。気持ちがいいくらい掃除が行き届いていた・・・きっとこれからは俺がやるんだろうな。俺は掃除は 嫌いじゃねェ。まだほんの餓鬼の頃から包丁とモップは俺の大事な相棒だった。どっちも俺専用の小さなサイズのやつがあって・・・でも小さいのはサイズだ け、切れ味も拭き上がりも普通の大人サイズのやつには負けてなかった。

「なあ、ゾロ」

 ゾロはクルリと振り返った。

「俺さ、これからしばらくは朝早く出て帰りは夜中になると思う。見習いだから早番も遅番もねェと思うんだ」

「ミナライ?オマエ、コックジャネェノカ?」

「前はコックだったしこれからまたコックになる。間のつなぎだ」

「・・・ソウカ」

 マリモに人間社会のあれこれがわかるわけもないかもしれねェが、ゾロに伝えた事で何となく気分がすっきりした。さあ、先ずは朝食とって熱いシャワーだ。 俺は煙草を灰皿の上で捻り、袖を捲くった。




 1日目。いやな予感がしていた通り、俺に目をつけた野郎がいた。運良く一目惚れされたわけじゃなかったが、あれだあれ、新人いびり。お前なァ、仮にも店 の先輩だからとりあえずしばらく様子を見るけどよ、あんまり阿保なことを続けたら・・・俺にも考えはちゃんとあるぞ。ったく、旨い物を作って人を幸せにし ようっていう仕事の世界がどうしてこういう風に歪んじまうんだ。悲しすぎるぜ。

 2日目。きちんと掃除して帰ったはずなのに朝行ったら厨房の床に油が零れてた。・・・餓鬼かよ、あの野郎。これが小学生とかだったら靴に石ころつっこん だりペンケースを隠したりしてんだろうな。馬鹿くせェ。おまけに『新人いびり』から品を変えやがったのか、今度はやたらと俺が前いた店はどんなだとか何と か人の過去に突っ込んできやがる。後ろばっか振り向いてる野郎らしいぜ。あのなァ、レタス一つ洗うんでも料理人は真剣なんだぞ!くだらねェことで話かけん な!

 3日目。今度は空にしたゴミ箱にまたゴミが入ってた。・・・わざわざどっかからゴミを運んできたってのか?そんだけの行動力をもっと別のもんに向けてみ ろ。店長も他のコックやウェイターたちも何となく感じるところがあるはずだが、それでも特に俺たちには何を言うわけでもない。すぐに怒鳴り散らしていたク ソジジイが懐かしいぜ。自分で何とかしてみろってことかもしれねェな。でも俺はしばらく騒ぎを起こすつもりはない。結局俺だけの問題じゃなくなっちまった ら辛いから。

 4日目。急病で休んだウェイターの代わりに店に出た。やたらと受けがいい気がする。悪い気分じゃないがそれほど嬉しくもない。心の底から料理を旨いと 思ってくれてる顔を見ると思わず微笑んじまうけど。俺はやっぱりこの手で料理を作りたい。前は時々楽しんでいたウェイター仕事が楽しめないのはきっと俺が まだ全然コックじゃないからだ。時々厨房から覗いているあいつ。ギラギラの目しやがって。そんなに悔しかったらお前がちゃんと客の食欲を誘ってやれ。言葉 や態度だって立派な店の顔なんだ。

 5日目。切れた。俺は怒った。




 ちょうどいい大きさのビニール袋がなかったのでスーパーのでかい袋に氷をザラザラ流しこんだ。ぎっちり縛って顔にあてるとやたらと冷たい。面倒だからす ぐそこに掛かっていた布巾をとって袋を包んだ。乾いてパリパリの布巾は漂白剤の匂いがした。
 ベッドに寝転がると天井が回った。フラフラした。まだ怒りが抜けてない。咄嗟に蹴り出した足があいつの腹に当たる手前で慌てて力を加減した。それでも 吹っ飛んで調理台に背中からぶつかって行ったあいつ。そのくらいでそんなに驚いた顔をするな。涙なんか滲ませるな。蹴った俺が馬鹿だったってことはもう とっくにわかってる。それでも、俺は。
 だから殴らせた。あいつの前に膝をついて顔を出してやった。そうしたらやっと殴れたあいつは、結局その一発きりしか殴れなかった。それが料理人の命の手 を守るためだったなら・・・・いや、わかってる。俺を殴った事そのものがあいつは恐くなったんだ。ったく。お前がやったことは俺を殴るよりもどれほど許せ ねェことか。あれ以上あいつの顔を見たくなかった俺は店を出てここに帰った。怒りはまったくおさまっていなかった。

 コポッ
 ブクク・・・

 ゾロの音がした。
 そう言えば店に行きはじめてから俺はほとんどゾロと話をしていない。気持ちも身体も毎日結構ボロボロに疲れていたからいつも帰ったらすぐにベッドに倒れ 込んでいた。朝も時間ギリギリに起きて自転車をフルスピードで飛ばして出勤する日々だった。

「よう」

 立って行くとススス・・・と顔を出したままゾロがガラスボールの端に寄って来た。たったそれだけのことなのに。
 俺は何だか一気に気持ちの表面が和んじまって、途端にダルくなった身体を椅子に投げ出した。

「・・・マケタノカ?サンジ」

「誰がだよ。負けねェよ。こいつは俺が自分で殴ったみたいなもんだ」

 プカプカ浮いているゾロを見てると怒りがおさまったわけじゃぁなかったがそれでも胸の中でふつふつとしていたいやなものは消えて行った。

「ひでェんだぜ。あいつ、俺が帰った後にこっそり冷蔵庫のドアを細く開けやがったんだ。鮮度が命の食材は全部パァ。店は臨時休業だ。俺のミスだってことに するつもりだったらしくて何か必死に喋ってやがったが、俺は怒ってたから何も言わずにあいつを蹴り飛ばした。・・・・考えてみたらよ、俺、俺のせいじゃな いってことを言ってねェんだ。せっかくの食材が・・・って思ったらそっちばかりで頭に血が上っちまって。あれ以上あいつの顔を見たくなかったからすぐに出 てきちまったし。・・・・多分、あれだな。クビ。俺はまだ店に出て一週間も経ってねェ見習いだし、あいつはもう何年もあの店で働いてた仲間ってやつなんだ ろうからよ。・・・・仕方・・・ねェよな」

 少しだけ最後の方が情けない口調になったな、と思った。
 ゾロはそのまましばらく浮いていたが、やがてクルリと身体を回した。

「・・・カタヅケハミナライノシゴトジャネェノカ?」

「・・・へ?」

 半分聞き取れなかった言葉がなぜか胸に刺さった。

「ソノレイゾウコッテヤツノアトシマツヲスルノハ、オマエノシゴトジャネェノカ?」

 今度はちゃんと全部聞こえた。
 水から少し出ているゾロの顔が滲んだ。ああ、そうだな。何だかすっきりしなかったのはきっとそのせいだ。騒ぎの原因を作って前の店を辞めた。潔いなんて 言われたりもした。引きとめてくれる人もいた。辞めた事は間違ってない。今もそのことには自信がある。ただ。潔さを見せる前に・・・楽でカッコのいい生き 方をする前にまだ何かできること、しなきゃいけないことがあったんじゃないかと時々思った。思うと不安になるその瞬間がいやで、考えないようにしてきたけ れど。今度は俺はコックじゃなくて見習いだし新入りだし前とはだいぶ違うこともあるけれど。でも先に足を出したのは俺で、あの店に俺が行かなかったらこう いうことも起きなかったんじゃねェかってことも本当だ。だから、俺は。

「だよな〜。俺、何を忘れちまってんだろうな。お前に言われたのはちょっとばかし悔しいけど、まあ思い出せたからさ。・・・ありがとな、ゾロ」

「・・・ハヤクイケ」

「おう、行ってくる!」

 飛び出した俺は階段を駆け下りて自転車にまたがった。何を言われてもいい。仕事は最後まできっちりやらなきゃな。この分だと今度はオーナーから紹介状は もらえないかもしれねェけど。それでも探せば絶対どこかに仕事はあるさ。実は一度女子大の学生食堂とかカフェテリアって憧れてたし。
 店の裏に自転車を止めると忙しそうに出入りするみんなの姿が見えた。

「遅くなってすみません。仕事します」

 声を掛けると全員が動きを止めた。おいおい、オーバーな。スローモーションかよ。誰かが『サンジが来たぞ!』とか何とか叫ぶと中にいた連中も外に出てき た。・・・コックに怪我させるわけにはいかねェし・・・こりゃ、ちっとばかしヤバイかもな。軽く身構えた俺にオーナーがゆっくりと近づいてきた。




「ゾロ!ゾロ!何か袋!でっけェやつ!まだそんなに傷んでない食材をオーナーがみんなで持って帰っていいって言ってんだ。しがない見習いじゃあ滅多に買え ねェようなものもたっぷりある!これはしっかりもらっとかねェと大損だ!楽しみにしてろよ〜、あとで特別に腕をふるってやるからな!」

 キッチンの片隅に押し込んであったビニール袋を引っ張り出したサンジは一度靴を履いて、それからまた戻った。

「いけねェな、こいつを忘れるところだった」

 さりげなく呟きながら唇に微笑を浮かべたサンジが脇に抱えたのは仕事用の包丁セットのケースだった。

「じゃ、行ってくるからよ!」

 ドタドタと掛け出す音、ドアが叩きつけるように強く閉められた音、階段を転がるように下りていく音。全ての音が遠くなって空気が静けさを取り戻したこ ろ、ゾロはボワッと溜まっていた空気を吐き出した。

「・・・アイツ、オレガニンゲンジャネェッテコト・・・ワスレテネェカ?」

 部屋の中にはその呟きに答えるものは誰もいなかった。

 マ、イイカ

 ゾロはクルクルと回転しながら水の底に沈んで行った。

2005.12.1

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