「三蔵、車、借りますね」
「ああ」
日常の中の当たり前であるように八戒が言い、三蔵が短く答えた。
車。
一瞬聞き間違いだと思った
柚螺は首を傾げた。
柚螺が知っている車といえば以前いた里からこの町まで
柚螺を運んできたキューブ型で灰色の車とこの町に来てから見かけた宙を走る町の公用車、一般道を走る細長い共用モービルがすべてで、一般の 道を走る個人所有の車などまだ一度も見かけたことがない。町全体の地下に迷路のように張り巡らされたチューブを使って移動するのが一般的な手段だ。
「俺、
柚螺と一緒に後ろ座ろ」
気がつけば
柚螺の左手は悟空の右手の中にあった。手から悟空の顔に視線を移すと瞳を大きくした笑みが返ってきた。
「ゆっくり歩けよ、
柚螺」
一歩一歩、階段の一段一段を見守られているのがわかった。足を動かすたびに疼く傷の痛みも悟空のあたたかさには敵わない。微笑みながら階段を下りきった
柚螺は止まっている車を見て驚いた。深い赤。曲線だけのフォルム。開いているルーフ。
柚螺が知っている車とはまったく違う。
「こういう車、珍しいですよね。三蔵がどっからか持ってきたんですよ」
ハンドルに手を置いた八戒が笑う。
「三蔵よりも八戒が運転するのがずっと多いもんな、これ。三蔵、車で昼寝するの好きだし」
先に乗り込んだ悟空が
柚螺の手を静かに引いて車に乗るのを手伝ってくれた。
どこからか持ってきた車。昼寝。
柚螺の中に三蔵の不思議が溜まっていく。これから答えを知ることができるかどうかはわからなかったが、
柚螺は自分の中の気持ちは『嬉しさ』だと思った。
「じゃ、出しますよ。悟空、ちゃんと手を繋いであげてくださいね」
身体を包み込むようなシートに身を任せながら車が動き出した感覚はなんともいえないものだった。思わず
柚螺が悟空の手を握ると悟空は笑って握り返した。
「あ〜あ、行っちまったなぁ」
ガラス越しに遠ざかっていく車を見送っていた悟浄はため息をついた。
「俺さ、あのセンターってとこ、な〜んか近寄りがたいんだよね。
柚螺ちゃんの前では言えなかったけどさ」
三蔵は窓に背を向けたまま煙草を吸っていた。
あの場所に好きで近づく人間はまずいないだろう。中の様子を知っている三蔵はそれを悟浄に教えるつもりはなかった。まだ心が幼い時にあそこにいた悟空は なぜかその頃のことをほとんど覚えていない。その事自体が・・・おかしいのだ。
「元々口数が多いとは言えないお前があそこの話になるとさらにだんまりになるもんな〜。まあ、こうしててもしかたねぇから、出勤時間まで朝寝でもするか」
腕を上に伸ばした悟浄はゆっくりと歩いていき、ドアの前で振り返った。
「これからさ、どうなると思う?」
三蔵は小さく眉を上げた。
「八戒と同じことを聞くな。答えは変わりようがねぇ・・・・なるようにしかならん」
「それじゃあなんだか納得したくねぇんだよなぁ・・・なんか、聞こえねぇの?三蔵サマ」
手を振りながら出て行った悟浄の姿の後ろでドアが閉まった。疑問符を残したまま消えた姿に三蔵は一拍遅れて目を向けた。
白く表面を透明な膜で覆われたように見える質感。まだセンター本体には距離がある門の前で
柚螺は悟空と八戒にぺこりと頭を下げた。ここから先へは部外者が立ち入ることができない。門という形で目に見えている以上に切り離された場 所だ。
「店、来いよ、
柚螺」
「・・・じゃあ、また。
柚螺さん」
離れていく車の二人に笑顔はなくなっていた。何かを訴えるような悟空の瞳と静かな八戒の表情。もうそれが遠くなってわからなくなるまで
柚螺は車を見送った。
「朝帰りとは思いがけず世渡り上手な素材ということなのかな?」
不意に背後から響いた声に驚いた
柚螺が振り向くと、一人の男がゆっくりと内側から門を開いた。髪、瞳、衣類、靴・・・すべて漆黒なその男を
柚螺はこれまでに見たことがなかった。センターの職員たちの制服は建物と同じ白一色。この男はどういう人間なのだろう。外見も話し方もこれ までに会った職員たちとはあまりに異なっている。
「外でいけないことをして来なかったかどうか、悪いけど、確かめさせてもらうね。僕が自分で個人的に確かめてもいいんだけど、まあ、今日のところはB棟の 医療室に行って。それから話を聞かせてもらって、と。もしもまだ身体の落ち着き先が決まってないんならそれから探しに行ってね」
妙に滑らかな男の声は
柚螺にはよく意味がわからない言葉を次々と紡いだ。男の口元に絶えない微笑はなぜか少しもあたたかさを感じさせない。じっと
柚螺の顔を見ている黒い瞳に浮かんでいるのは面白がるような表情と好奇心を表す光。
「さ、おいで」
差し出された男の手をすり抜けるようにして
柚螺は門を通り抜けた。