タン!
今夜も一人先に勢いよくステージに飛び出していった悟空があいさつ代わりにスティックでドラムを叩くと、拍手と歓声が湧き起こった。
「お〜お〜、張り切ってんじゃねぇの、小猿ちゃん」
「今夜もほら、
柚螺さん、間に合ったみたいですからね。三蔵、新しい曲、歌います?」
「どっちでもいい」
「んなこと言って、今回はちょっとばかし切なくなるバラードっつぅの?三蔵サマにしちゃ珍しい雰囲気じゃん。書いたとき誰かさんのことが頭にあったんじゃ ないの?」
「・・・いっぺん死にてぇか」
テーブルに座っている客からは談笑しながらとしか見えない三人がステージに出ると再び拍手が起こり店内の熱気が一気に高まった。
柚螺は手を振る悟空にそっと小さく手を振り返しながらいつもの席に座っていた。近くに座っている他の客たちの視線が恥ずかしく、すぐに手を 止めて俯いた。毎晩店を訪れるうちに顔を覚えた客が何人もいた。逆に
柚螺のことを記憶したらしい客もいて、目で合図を送ってくれたりちらりと微笑みかけてくれたりする。そうすると
柚螺はいつも嬉しいけれどどうしていいかわからずに顔を赤らめて深く頭を下げた。
頭を下げる一礼。
これは失くした記憶の中からぼんやりと思い出した人の姿に重なる。誰かがまだ子どもだったはずの
柚螺に静かに深く頭を下げた。ゆっくりとしたきれいな動作だったように思う。もっと思い出そうとするとなぜか心が辛くなる。
「今日は、久しぶりの新曲、いきますね」
「そ〜そ〜。三蔵が珍しく一晩で詞、書いたの。貴重だから拍手頼むね」
「俺、結構好きだな〜、これ」
客たちの気持ちを限界まで高めたところで八戒の指が最初の旋律を奏でた。悟空のスティックが優しいといっていいやわらかさでドラムの表面を撫ぜ、悟浄が 低く抑えた深い音をはじき出す。
柚螺がそっと息を吐いた時、ひとつの曲になった音たちに三蔵の歌声が重なった。伸びのある響きはいつもと同じ、ただ、歌い方が違っていた。 これまでになく穏やかに、時に聞こえるギリギリで囁くように。気がついた
柚螺は顔を上げた。これはあの朝、三蔵が窓辺に腰掛けて歌っていた歌だ。歌いながら店の中をゆっくりと見回した三蔵の視線は止まらずに
柚螺の上を通り過ぎた。歌声に震わされる胸の中の切なさに、
柚螺はぎゅっと自分の手と手を握り合わせた。
止まらない拍手の中で
柚螺は壁にかかっている時計を見上げた。いつもと違い今夜はまだ予定があった。一曲だけでもちゃんと聴くことができてよかったと思った。お まけにそれが新曲、三蔵のあの曲だったのだから、もしかしたら今夜は運がいいのかもしれない。この運の良さはもう少しだけ続いてくれるだろうか。
『君に向いてるかもしれない仕事、紹介してあげるよ』
今朝、突然話しかけてきた声を思い出す。その声を聞いたのは三蔵の部屋に止めてもらった翌朝以来、はじめてだった。
『ホラ、君の話にでてきた店・・・Daybreakって言ったっけ?その店にわりと近いところにある店みたいだよ』
警戒していた
柚螺の気持ちは男の言葉に大きく揺れた。Daybreakの近くに仕事が見つかったら。我慢できずについ明るい想像をすすめてしまう。結局
柚螺は店の地図をもらって面接の時間を聞いた。
柚螺が初めてDaybreakを訪れてからあと二日で一ヶ月になろうとしていた。仕事は見つらず、もちろん住む場所も見つからないまま日々 が過ぎていた。焦る気持ちや失望を心の隅に抱えてDaybreakに行き、三蔵たちの姿に気持ちを癒されてセンターに帰った。このまま期限の一ヶ月目を迎 えてしまったらどうなるのだろう。『調整』という言葉の響きに
柚螺はあまり良い感じを持っていなかった。わからないだけに不安が募り、眠れない夜が続いていた。
「あれ?
柚螺?」
悟空の声に三蔵が目を上げるとテーブルから立った細い姿が見えた。チラリと見えた横顔には緊張の面持ちがあった。何をしようとしているのかはわからない が、少なくとも自分の意志で行動しているのだろう。タイムリミットを前に何か確かなものを掴もうと。
「三蔵、悟空、次、いきますよ。いいですか?」
振り向いた八戒に頷くと三蔵は再びマイクを持ち上げた。
ここ、だろうか。
柚螺はDaybreakから小路3本離れた角に立っていた。そこには確かに店のように見える建物があったが、看板らしいものは見当たらな い。壁も扉も暗い色で統一され、夜の中ではほとんど目立っていない。ここはどういう種類の店なのだろう。
柚螺が躊躇いながら一歩後ろに下がった時、音もなくドアが開いた。
「ナンバーズの人だね?連絡はもらってる。君、何か難しい事情もあるんだってね。まあ、中に入って。時間に正確なのはいいね。見た感じもとても好印象だ」
姿を現した細身の男は背が高かった。穏やかな声に落ち着いた笑み。薄い色のスーツがぴったりと身体にあっている。
「安心して。うちには他にもナンバーズ上がりの人間がいる。今はちゃんと働いて立派にこの町の住人をやってるよ」
男の言葉に嘘はないだろう。そう感じながらも
柚螺は警戒を解けないでいた。それでも相手がナンバーズについての知識を持っている人間という、説明しずらい事情のほとんどを知っている人 間であることにホッとしていた。
男は
柚螺との間に安心感を与えるだけの距離を取りながら
柚螺を店の中に導いた。
二人の背後で音もなく閉まったドアにロックがかかる音がした。ここがセンターならばこれは日常のごく当たり前の音だ。けれど、少しでも多くの客を集めた いと願うはずの店だとしたら・・・これはすこしおかしいかもしれない。閉店後のセキュリティ対策なのかもしれないが。
足を止めた
柚螺の肩に男の腕が回った。
「大丈夫、この先に進んで。君の事をちゃんと知りたいし、この店のことも知ってもらわないといけないからね」
柚螺は男の腕の中で身体を縮めた。
期限まであと二日。
柚螺の頭の中に数字が浮かんだ。今日はもう夜になっているから実質的にはあとほとんど1日しか時間は残されていない。
柚螺は一歩足を踏み出した。男は唇に薄く笑みを浮かべて
柚螺の肩から腕を引いた。
「いい子だ。このまま前に進んで」
廊下の先に見えるのは暗い色の一枚のドアだった。