不思議と早く目覚めたあの朝。まだ眠りの余韻に半分気持ちを渡したまま居間に行き、窓のカーテンを開けた。目に眩しい白々とした光が差し込んだ時、思い出 して視線を部屋の中央に向けた。ソファで眠る
柚螺と床に座り込んだまま眠っている悟空。どちらの寝顔も邪気が無く、透明な朝の光が似合っていた。
その時、三蔵の唇は音と言葉の一節を紡いだ。己の内側に広がりだしたそれを捕まえようと、三蔵は咥えかけていた煙草を窓に置いた。あたたかそうに毛布に 包まっている二つの姿にぼんやりと視線を向けながら気持ちを泳がせる。ひとつ、ふたつと生まれたばかりの言葉を繋げていく。
柚螺のことを考えながら歌を作ったのだろう、と茶化した悟浄。実はそれは半分当たっているのだ。三蔵は苦笑した。
柚螺と悟空。あれは二人を見ていたらできた歌・・・腕に二列の数字を持つ者たちへの言葉・・・なのかもしれない。
ガラじゃねぇがな。
最後の曲を歌い終わってマイクを置いた三蔵はステージ奥のドアを見た。誰かがそこで彼を視線で呼んでいる。Daybreakのマスターだ。
「・・・何だ?」
悟空と同じくらいの身長のこのマスターを三蔵は軽く見下ろすことになるのだが、時々その事に違和感を覚える。バーテンダーというレトロなイメージをぴっ たりと身につけて崩さない寡黙な男。それは表でも裏でも変わることがない。穏やかな表情の中にほんの一瞬浮かんで消える鋭利な眼光。外見では判断しきれな い大きな男だ。
「三蔵・・・ちょっといやな感じがしますよ。うちの近くのあの店・・・あそこの前にあのお嬢さんが立っているのを見かけたお客さんがいるんです。ついさっ きのことだと言ってるんですが」
「なんだと・・・?」
最初の曲が終わった時にそっと席を立って行った
柚螺。思い詰めたような横顔を三蔵は思い出した。
「・・・先に行く。あいつらにも後で伝えてくれ」
もう、今は時間との勝負の段階に入っているのかもしれない。予感した三蔵は歩き出した足を速めた。
これはどう考えたらよい世界なのだろう。目の前の光景を受け止めきれないまま、
柚螺は開いたドアの前に呆然と立ち尽くしていた。
暗いトーンを保ったままゆっくりと色を変えるライトの中、どこまで続いているのか奥が見えない部屋で蠢く沢山のものが見えた。最初、白っぽい何かだとし かわからなかったそのものたちが人の裸身であることに気がついたのは何秒かが過ぎてからだった。思わず目を背けた
柚螺の顎を傍らに立つ男の手がそっと掴んだ。
「ダメだ、ちゃんとよく見て。ここは君にもとても居心地のよい場所になるかもしれない。この中では誰も気にしないから・・・腕に余分な数字が並んでいて も、君がどこの誰のお腹の中から生まれたかわからなくても。それに、ここはまだ最初の部屋だ。もっと自由に様々な使い方を楽しんでくださるお客様のための 個室もいくつか用意してある。もっともそちらは今見せてもらうわけにはいかないけれどね」
鼻腔に流れ込む濃厚な甘い香り。喉元にこみ上げる吐き気を堪えるために鼻と口を手で塞いだ
柚螺に男はため息混じりの微笑を向けた。
「ダメか。まあ、無理も無い。これはちょっと癖がある香りだから・・・大抵はすぐに慣れてこれを好きになるがな」
裸身と裸身。性別を見分けてしまうことさえ
柚螺には怖かった。懸命に目をそらし続ける
柚螺の顔から手を離して男は笑った。
「何も知らないのか、この手のことを。面白い。これまでどうやって生きてきたのかな?君にはハンデもあると聞いているが」
ここから出なければ・・・逃げなければ。
柚螺の身体は震えていた。
「できるだけ騒がしく声が出るのを好む人間もいれば、黙って沈黙の中でいろいろ楽しみたい人間もいる。君はとても理想的な人材だ。逃すには惜しいな」
一歩後ろに下がった
柚螺を見下ろす男の顔にはただ笑みがあった。
「大丈夫、ここで君をどうこうしようなんて思っていない。ここは君のような人間が生きていくにはとても良い場所だということをわかってさえもらえれば自由 に出て行って構わない。表のドアは横にあるボタンを押せば開くから。ああ・・・そうだ、最後に握手をしよう。君に出会えた記念、ということでね」
すばやく柔らかな動きで男の手が
柚螺の手を握った。その瞬間、小さくて鋭い痛みが走った。驚いた
柚螺は男の手を振りほどいた。手のひらには一滴の赤い血が浮き上がっていた。
「なるほど、君は本当に声が出ないわけだ。合格だ。さて、行っていいよ。長い廊下を真っ直ぐ戻って外に出るだけだ。きっとまたすぐに会えると信じている よ」
手のひらのその一点から何か冷たい感覚が広がりはじめていた。男がそっと隠した指輪の裏の細い針は
柚螺には見えなかったが、それでも何か時間に迫られている感覚があった。身を翻して走る
柚螺の後姿をしばらく見送った後、男は指を鳴らした。
「ここでどうこうはしなくても、外なら・・・・、ね」
呟いた男の横をいくつかの影が通り過ぎた。
廊下はこんなに長かっただろうか。
照明はこんなに暗かっただろうか。
最初走ることが出来た
柚螺の足は次第にもつれ、ゆっくりになった。全身に冷や汗がふきだしていた。身体の中にある血管の一本一本が冷たくなっていく。薬だ。
柚螺は唇を噛んだ。この薬は
柚螺の運動機能を次第に麻痺させていく。ドアの前に辿りついた時、
柚螺は肩で大きく呼吸をしていた。鈍る腕を叩きつけるようにボタンを押すと静かにドアが開き、外の冴えた空気が顔に触れた。
追われていることに気がつかなかったのは薬のせいだろうか。一歩外に出た瞬間、
柚螺は背後から強く抱きすくめられた。あの甘い匂いが鼻をついた。
「待てよ、外の方がいいならこっち、来な」
あっという間に引きずり出され、路地の奥に引きずられた。
「こういう時には声が出ねぇってのも便利だな。こっちのやりたい放題だ」
「殺すなよ。それだけは守らないと俺たちが首だからな」
三人の男が
柚螺を囲んでいた。
柚螺を拘束している男の手が喉元にかかり上衣を引き裂いた。絶望の二文字を心に浮かべた
柚螺は首を振った。まだできることがある。何とかして逃れること・・・今考えなければならないのはそれだけだ。
男の手が剥き出しになった
柚螺の胸を掴んだ。
柚螺は悲鳴にできないすべての気持ちを抱えて男の腕に噛み付いた。
「ってぇ!こいつ!」
口の中に血の味が広がった。男は腕を大きく振って
柚螺の身体を張り飛ばし、傷を押さえた。
「何だお前、血、流しやがって」
「煩ェ!今度はこっちが血まみれにしてやる」
柚螺は必死で立ち上がり、走ろうとした。足はさらに言うことをきかなくなっていた。
「とにかく、寝なよ!」
男の一人に足をはらわれて倒れた
柚螺の身体に三人が群がった。
「足、押さえろ。一発やればもっと楽しませてくれるさ」
両方の足首にかかった手が氷のように感じられた。もがいているはずの身体は思うよりも動きが遅く、男たちの顔には嘲笑が浮かんでいた。何をしてももう抵 抗にすらならない。無力感に涙が滲んだ。もっと強ければ。せめて声が出れば。強く願った
柚螺の指先に何かが触れた。硬くて細い・・・そっと探った指先はそれ以上の情報を知らせてはくれない。
男の手が下衣にかかった。
柚螺は指先にあるものを掴んで力いっぱい男に叩きつけた。
「うわ・・・おい!」
男の太い悲鳴と男たちの声。噴き出して顔に降り注ぐ温かなもの。目をつぶる直前に
柚螺が見たのは薄闇に散った鮮血と己の手の中の鈍い輝きだった。
柚螺の上にいた男の身体がぐらりと傾いて脇に倒れた。目を開けた
柚螺の全身は大きく震えていた。
「こいつ!」
殴られた痛みが妙に遠かった。喉を掴まれて引きずり起こされた・・・その自分の状態は何となくわかった。
倒れた男は息絶えたのだろうか、とぼんやりと思った。悲鳴で一杯になっている自分の心をその横で無感情に眺めているような切り離された感覚があった。
ガウ・・・・ン
離れだしていた
柚螺の意識を覚ましたのは重く響いた一発の音だった。
「誰だ、てめぇ!」
喉にあった男の手が離れると
柚螺の身体は支えを失って地に落ちた。ゆっくりと落ちていく感覚の中で
柚螺は輝く金色の髪を見たように思った。あの日、窓辺の明るさの中で輝いていた三蔵の髪。開いた唇の間から流れていた声と言葉。目を閉じた
柚螺の耳にあの歌が聞こえた。
戻ることができたら。
心が小さく祈った。