石畳を走る靴音が重なって響く。互いの呼吸音が次のリズムにつながる。
ガウ・・・・ン
夜に響いたその音に三人は一瞬足を止めた。
「聞こえた?!」
「あの銃声は・・・三蔵ですね」
「くそ、もっと急ぐぞ!」
見えてきた目的の建物の前、小路から転がるように走り出してきた二人の男がその建物の中に駆け込んで消えた。
「あそこ!」
悟空を先頭に三人が小路の入り口に飛び込もうとしたその時、地に膝をつき背中を向けたままの三蔵の声が飛んだ。
「来るな!・・・いや、そうじゃねぇ・・・少し、待て」
「三蔵・・・?」
一枚だけ羽織っていたシャツを脱いだ三蔵の上半身は裸だった。そのシャツを膝の前に横たわる姿にふわりとかけてやる動きは静かだった。
「三蔵!その血は・・・
柚螺さんの?」
シャツに覆われていない
柚螺の首、顔、髪・・・そのすべてが細く差し込む街灯の灯りの下、紅に染まっていた。
「いや・・・そこに倒れてる男のだ」
少し離れて倒れている身体を三蔵は軽く足で押しやった。漏れた呻き声が命がまだ残っていることを知らせた。八戒は男の血まみれの衣類に残る切り裂けから 男を襲った凶器が三蔵の銃ではないと見て取った。とするとこれは・・・。
「三蔵・・・
柚螺さんは?」
「・・・目を覚ます前に連れて行く」
細い身体を抱き上げた時、
柚螺が薄く瞳を開いた。まだぼんやりとした表情のまま
柚螺は三蔵の腕を見てそっと指先を触れた。
「・・・忘れろ。こんな時に考える必要もねぇものだ」
呟いた三蔵の声に反応するようにゆっくりと見上げた
柚螺は唇を小さく動かした。そこから声は出なかった。けれど三蔵は確かにまだ少女のような声色が囁いた音を受け止めたような気がした。
歌が聞こえる・・・三蔵の
そのまま
柚螺は再び目を閉じた。
「何かありましたか?」
ハッとした全員が振り向いた先には背の高い男が立っていた。
「てめぇがこの店のオーナーかよ。
柚螺ちゃんに何しやがったかちゃんと説明してもらおうか」
睨み付けた悟浄の視線に男は笑みを返した。
「とおっしゃられても、こちらも事情がまったくわからない立場でしてね。何か銃声のような音を聞いたと従業員が知らせてきたので様子を見に来ただけですか ら」
「何だよ!
柚螺はあんたんとこの店に来たんだろ?」
「おや・・・?どなたかその
柚螺さんとやらがうちの店に入るところをご覧になったとでも?」
入る場面は誰も見ていない。店の前に立つ
柚螺を見かけた人間がいるだけだった。悟空は次の言葉につまった。
「ここのお店は・・・売りたい人が売りに来て欲しい人が買う・・・それだけではなかったんですか?」
問いかける八戒の低い声の裏に隠れた感情の複雑さを男は気にかける風もなく首を横に振った。
「ああ、もちろん基本はそうです。売り手と買い手の自由と信頼、これがうちの方針ですから。ただ・・・そうですね、滅多に手に入らないタイプの素材を見つ けたとしたら・・・ちょっと強引にお誘いすることもないとは言えないですがね。見たところ、あなたたちもとても素材として魅力的な方ばかりのようだ。生活 に困るようなことがあったらうちを思い出してください。優遇させていただきますよ」
「けっ!勝手に言ってろ」
悟浄が歩き出すと八戒、悟空が後に続いた。
柚螺を抱いた三蔵は男を無視したまま脇を通り過ぎようとした。
「・・・相変わらず魅力的な素材ですね、あなたは。まだうちに来てくれる気はないんですか?」
一瞬足を止めた三蔵は顔を前に向けたまま口を開いた。
「倒れてる男を何とかしろ・・・死なせるな。騒ぎになったらてめぇは損するだけだろう」
「殺すなと?意外ですね」
それ以上は何も言わずに離れていく三蔵を男は面白がるような顔で見送った。
ずっとこのままこの歌声を聴いていられたら、何も怖くないだろう。透明な空間で眠りながら願う気持ちの後ろには追い詰められた気持ちがあった。身体に伸 ばされる複数の手、すぐそこに迫っているタイムリミット、そして失いたくないと願う何か。
額に触れた指先に意識が覚醒した。腕に触れた手の温かさに目を開けた。
触ったらいけない。わたしに触れたら汚れてしまう・・・
言葉なく振り払った手は悟空と三蔵のもので、身体を起こした
柚螺の前で二人は一瞬動きを止めていた。
「ゆ・・・・ら?」
目を丸くした悟空の視線が心に痛い。
柚螺は震えだした身体を止めようと唇を噛んだ。顔に、首に、腕に、まだ鮮血が降り注いでいるような感触があった。悟空と三蔵の手には汚れた 濡れタオルが握られている。顔や腕を拭いてくれていたのだということはすぐにわかった。けれどどれだけ拭いてもきっとこれはとれないだろう。ぬぐってもぬ ぐっても心の底から滲み出る。
「
柚螺?どっか痛いのか?」
心配そうに覗き込んでくる悟空から目をそらして首を強く横に振った。拒絶と受け取られてもいい。悟空が傷ついてしまってもいい・・・これ以上
柚螺に触れて汚れさえしなければ。
三蔵は頑なに悟空を拒絶する
柚螺を黙って見ていた。そうやって悟空を拒絶しているようで実は自分自身を強く退けているのだと
柚螺はまだ気がついてはいない。そのことに気がつくのに何年もかかる可能性もある・・・三蔵は遡りはじめた記憶に唇を歪めた。全身を染めた 血とその匂いの中に閉じ込められている一つの魂。それは三蔵にはとても清らかに思えた。
「
柚螺さん、目を覚ましたでしょうか」
八戒の声に悟浄は足を止めて抱えていた買い物の包みを持ち直した。二人は夜中まで開いている数軒の店を回って必要と思われるものを買い整えていた。
「あの店で何があったかわからねぇけどよ・・・・やっぱ、よっぽど、だよな。でも、怪我はしてねぇんだろ?」
「ええ・・・
柚螺さんの身体に外傷はありませんでした。あの血は全部・・・あの倒れてた男のものでしょう」
「そっか。そりゃあ、まずはよかったな。まあ、怪我しててもお前さん、手当て上手いからさ、大丈夫だろうけど」
「僕、医者になりたいと思ってたんですよ、子どもの頃。近所のお医者さんのところにしょっちゅう入り浸ってました。大きなセンターとかのお医者さんじゃな くて民間療法っぽい小さな病院でしたけど」
「あら、それ、初耳じゃん。でも、お前は結局教える方の先生になったんだな」
「ええ。人の命を救うとかそういうのは僕には全然似合わないと・・・自覚したものですから」
深い意味を感じさせる八戒の言葉に悟浄はただ、頷いた。
「ま、人生いろいろだわな。俺、ほんとは博打屋とか代替プレイヤーとかじゃなくてジゴロとかがいいもん」
「・・・あなたに女性を騙したり利用できるとは思えないんですが・・・」
「騙す?ひっでぇこと言う〜。俺はさ、ただ一人って女を見つけてよ、その女が仕事とか人生に疲れて帰って来たら、ほれ、お前に教わっとく料理とか全身マッ サージとかそういうあったか〜いもので出迎えてやるのさ。おかえりなさ〜いってな」
「それは・・・普通の恋愛とか結婚とどう違うんです?」
「・・・知らね。何となく俺には普通は無理だろうってわかってるからよ」
「お互い、ちゃんと自覚してるってわけですね」
顔を合わせた二人は小さく笑った。
「でも・・・
柚螺ちゃんの場合は、心に受けた傷・・・だよな」
「そうですね。だから・・・こういう時は僕じゃなくてやっぱり彼の出番でしょうね」
「・・・・三蔵、か?」
「そう。それから、悟空です。最強の凸凹コンビでしょう?・・・二人の前では言いませんけどね」
「最強、ねぇ・・・」
確かに、と悟浄は思う。大体、そう思っていなければこうしてあの二人に
柚螺を任せたまま買い物に出たりはしない。
「声が聞こえたのかもしれねぇな、三蔵には」
「悟空の時ほど賑やかにではなさそうですけどね」
二人は揃って夜空を振り仰いだ。町が放っている光の中で遠く見える月が小さく揺れた。