「ものすごく久しぶり、という感じだね。今は・・・三蔵君、だっけ?」
その男は三蔵の記憶にあるとおりの黒一色の姿で現れ、微笑み、懐かしげに声をかけた。そしてこれも記憶どおり、男の笑みからも声音からも人間らしい体温 を感じることはなかった。この男にここで会おうとは。三蔵は無表情の下に驚きをしまい込んだ。それでも面白がるような男の唇の曲線からこの驚きはバレてし まっているのだろうと思った。
「Daybreak、ね。店の名前から君を連想しても良かったかな。残念だな、やっぱりあの子、連れてっちゃうの?泣きながら僕のところに帰ってくると 思ってたのに」
三蔵は眉を顰めた。あの子というのは間違いなく
柚螺のことだ。とすると事情を把握しているらしいこの男は今夜の出来事に関わりがあるということになる。
「何をした?」
三蔵の鋭い瞳を見て男は笑った。
「仕事を紹介してあげただけ。あの子、可哀想なくらい必死だったから。Daybreakっていうお店をとても気に入っているみたいだったからその近くを探 してあげた。出なくなってる声のショック療法も兼ねてって感じかな」
「・・・泣いて帰ってこさせるためにか?」
「へえ、言うねぇ、君」
ゆっくりと手で顎をこすった男はゆっくりと目を瞬いた。
「君はさ、さっき言ったとおり僕に会うのは久しぶりだろうけど、僕の方は間に一回君を見かけているんだよ・・・ここで」
ここで、ということは。三蔵の表情のわずかな変化に男は頷いた。
「そう、あの時見かけたの。君、あの面白い少年を連れてっちゃったでしょう。ほんと、どうして面白い子ばかり連れてくのかなぁ。僕としては少々悔しいくら いだよ」
「意味がわからないな」
「だよね。わかってもらっても困るし」
相変わらず気に障る雰囲気の男だ。三蔵は男の顔をまっすぐに見た。
「まあ、いいさ。あの子には怖い思いをさせちゃったみたいだから、少々手続きをオマケしてあげる。君のところにサインすればいいだけにした書類を送るよ。 ほんとはあの子、ここに一度戻っていろいろくだらない書類にサインしたりチェックされたりしなくちゃいけないんだけどね。もう、このまま君にあげる。君の 義務はあの子をちゃんと人間にすること・・・それだけ」
センターの時間外の受付にこの男が現れたことは少なくとも話を早くしてくれたようだ。それ以外の事は・・・三蔵はこれ以上言及するつもりはなかった。
三蔵はそのまましばらく男と視線を合わせて立っていたが、やがて黙って背を向けた。
すると、男が低い声で囁いた。
「ねえ、君はもしかして・・・・光明と話をしたりするのかな・・・あの後も?」
この男はどこまで事情を知り、そしてどこまで推測しているのだろう。三蔵は無表情に振り向いた。
「・・・しない。あんたが思っているような形では」
「ふうん・・・じゃあ、違う形ではするんだ」
「どうだかな」
男は笑った。
「相変わらずだね、君は・・・江流君」
「その名前はもう誰も使わない」
三蔵は再び男に背を向けて歩きはじめた。戸口を抜けて扉を閉めた後も背中に男の視線を感じていた。
目を覚ました時から
柚螺の瞳は驚きに大きく開きっぱなしだった。
先ず、すぐ隣りに悟空がいた。片肘をついて上半身を起こし、
柚螺の顔を見下ろしていた。目を開けた途端に「おはよう!」と言われ、返事をしないうちに「腹へった?」と聞かれ、また返事をしないうちに 「やっぱ、隣りの部屋がいいよな〜。な?」と同意を求められた。寝起きの頭はゆっくりと回転して悟空の言葉を消化していったが、最後まで辿りつく前に悟浄 が悟空の首を掴んでソファから引きずり下ろした。
「ったく、おめぇはいつまでひっついてんだよ、ガキ猿!おはよ〜、
柚螺ちゃん。寝起きもキュートね」
窓から差し込む光が朝を告げていた。見れば三蔵はカップを片手に新聞を読み、八戒はエプロン姿で歩き回っている。
「おはようございます、
柚螺さん。すぐに朝食にしますから、顔を洗ってきてくださいね。もう業者を呼んでありますから夜までには
柚螺さんの部屋の準備も整うと思いますよ。今日から隣人さんですね。もっとも、僕らは二つ隣ですけど」
柚螺は目を見開いたままゆっくりと身体を起こした。
さっき悟空が、そして今八戒が・・・何を言った?何か聞き慣れないことを・・・
「おいおい、案外お前も気が早いのね、八戒。
柚螺ちゃん、びっくりしてんだろうが。ほれ、三蔵。保護者からちゃんと説明してやれよ。
柚螺ちゃん、目ん玉、落っこちそうじゃん」
柚螺が目を向けると三蔵は新聞を置き、眼鏡を外した。その顔はいつも通りの無表情で、昨夜見た幾つかの顔は夢だったのかと思わせる。
「・・・そういうことだ。センターに戻る必要はない。工事が終わったらそこがお前の部屋だ」
告げられた結論。
柚螺は言葉をゆっくりと噛みしめた。
「か〜っ!この説明不足!」
「そうですよ、これじゃあ
柚螺さん、ちゃんと安心できないじゃないですか」
悟浄と八戒が額に手をあてた時、悟空が
柚螺の隣りに座った。
「
柚螺、俺と同じになったんだって。三蔵が昨日の夜、センターに行って決めてきたんだ。俺、寝ちまったから知らないんだけど、目覚ましたら三 蔵が教えてくれた。俺と一緒に学校行って、いっぱい勉強しろってさ!」
頷きながら八戒が
柚螺の反対隣に座った。
「そういうことなんですよ。今日から三蔵は悟空と
柚螺さんの二人の保護者ということになりますね。
柚螺さんは安心して勉強したり先のことをゆっくり考えたりしながら日々を過ごしていけばいいんです。毎日一緒に学校に行けますね。すごく嬉 しいです」
八戒の隣りに立った悟浄が手を伸ばして
柚螺の頭を撫ぜた。
「よかったね〜。あの保護者さんは仏頂面の無愛想屋だけど、俺がついてっからさ、大丈夫。あとで一緒に買い物でも行っちゃう?
柚螺ちゃんに似合いそうな服、バッチリ見立ててあげるから。それからちょっと可愛いお店でお茶して、手繋いで帰ってくんの。最高でしょ?」
柚螺はただ、三蔵を見ていた。何もかもがゆるやかに解けて全身の力が抜けていた。それと反対に気持ちだけが昂り、これを現実と信じていいの か怖いほどだった。
柚螺は待った。ただ、三蔵の言葉を待った。
小さく舌打ちした三蔵の唇に微笑の気配が通り過ぎた。
「ここにいろ・・・長い付き合いになりそうだな」
柚螺は小さく頷き、それからもう一度今度は大きく頷いた。例え今普通に声を出せる状態だったとしても、きっと頷くことしかできなかっただろ う。それだけで心がいっぱいになり、両手をぐっと握り込んだ。
三蔵は黙って
柚螺の顔を見ていたが、手に持っていたカップを唇にあて中のコーヒーを飲み干した。
「メシ食ってちゃんと学校行って来い。八戒、
柚螺の編入手続きを頼むぞ」
「わかりました。さあ、ご飯にしましょう。今朝はちょっと張り切りましたからね、ご馳走ですよ〜」
「やっり〜!俺、おかわりいっちば〜ん」
「気が早すぎなんだよ、お前は!」
四人が交わす言葉を耳で拾いながら
柚螺はそれぞれの顔を見た。これからこの四人のどんな表情を見ることになるのだろう。そして
柚螺自身はどんな表情を見せるのか。
今日、
柚螺は自分の居場所を与えられた。この幸運を今はただ信じたかった。信じて時間を重ねていけば失くした声を取り戻すこともできるだろうか。 四人を見ていると自然と希望が膨らんだ。
「なあ、
柚螺!
柚螺は何か楽器、弾ける?」
悟空が言うと八戒が続けた。
「そうですね・・・キーボードなんかだと初めてでもすぐに弾けるようになりますよね。僕、教えますよ」
キーボード。早速知らない世界が目の前に開けた。
柚螺は胸の中に高まりと緊張を感じながら微笑んだ。