細く透明な雨が降っていた。
柚螺は懸命に走っていた。今日は間に合わないかもしれない、と心が焦る。もしも演奏がはじまってしまっていたら、もう中には入れない。そう いう決まりがあるわけではないはずだとわかっているが、
柚螺自身が嫌なのだ。音がひとつ流れた瞬間から高まり出す店内の空気。楽しそうにドラムを叩く悟空の笑顔、綺麗な笑みを浮かべながら聴いて いる全員の様子に目を走らせる八戒、あたたかく時にはやんちゃな悟浄の表情。そして、三蔵の喉から放たれる声・・・心を惹きつけられてやまないもの。その どれをも崩したくない・・・たとえほんのわずかでも。
一歩足を踏み切るごとにその遅さを意識した。
急げば急ぐほど周りの風景も足の下の石畳もちっとも先に進んでいかない気がするのはなぜだろう。それは今日もうまくいかずに小さく落胆した一日の終わり にはあまりにぴったりな焦心だった。
声が出ないということがこんなにもあるはずの可能性をつぶす。もしも
柚螺がもうずっと声のない暮らしをしてきたのならきっと日常を上手く生きて楽しむ方法を身につけているだろう。けれど声の喪失は多分突然の 出来事でほかのいろいろな記憶の欠如とともに
柚螺の気持ちを途方にくれさせるばかり。
もう、日にちがない。
今のシステムの中で生きていくには早く条件を満たさなければならない。
一分一秒ごとにつのる焦りを忘れさせてくれるのがDaybreakでのひと時だった。
気がつけばそこは見慣れた街角になっていた。ここを曲がって少しだけ行けば店の入口に届くはずだ。
間に合うかもしれない。
自然と次の一歩に力が入った。
それが誤りだった。濡れた石畳の表面は滑る。
柚螺が大きく踏み出した足はしっかり路面をとらえきることができなかった。それでも身体には勢いがついていて、斜めに滑ったつま先に続いて 身体がゆっくり倒れていった。足の側面を冷たさと同時に焼けるような感覚が通り過ぎた。
「・・・」
音にならない呻きを口の中で漏らしながら地面に手をついた
柚螺は自分の足から流れはじめた温かなものが雨とともに伝い落ちるのを見た。その瞬間、目の前が滲んだ。原因が雨ではなく涙だと気がついた 時、身体から力が抜けた。
もう、間に合わない。
そのことが苦しいほど悲しかった。
とめどなく溢れる涙は濡れた頬の上で雨と同化する。今だけは声が出なくてよかったかもしれない。
柚螺は静かに泥だらけの手のひらを雨に晒した。
「・・・何をしている」
不意にどこからか降ってきた声に
柚螺は顔を上げた。初めて聞いたのに胸の中をギュッと握られたような気がする声。低く、無関心でどこか不機嫌。一瞬の予感。
降り続く雨の向こう、建物と建物の間に気配があった。目を凝らすとゆらめく細い煙が見えた気がした。「誰?」と唇の形だけで問いかけるとまるでそれが聞 こえたようにゆらりと立ち上がる人影が見えた。
「立ってこい。ここから中に入れてやる」
見間違うはずのない金色の髪。尊大な口調・・・なのに心臓がはやくなる。身体に力が戻ってくる。
柚螺は足の痛みをこらえながら慎重に立ち上がった。頭の先からつま先までがずぶ濡れで、あちこちが泥まみれなことを強く意識した。
「早くしろ」
足が自然に言うことをきこうとする・・・それはそんな声だった。
「なぁ、あの子、いなくね?」
最初の曲が終わり2曲目までの間のその時。悟空が一番近くに立っている悟浄に囁いた。
「・・・だな。テーブルは空、だ」
この数日でいつのまにかあの少女の決まった場所のようになっていた席を紅の瞳が一瞥した。
「きっと何か用事でもあったんじゃないですか?誰だってそう毎日来てくれるわけにはいかないでしょう」
言い終えた八戒はふとステージの奥を見た。普段よりもちょっとだけ深い呼吸の音。ほんの一度のそれをしっかりと耳でとらえていた。
「・・・三蔵?」
「え、なになに?」
「あん?」
三人の視線の中で不機嫌そうな横顔がかすかに動いた。その動きが指し示したように思えた先には奥の部屋に通じるドアがある。
「・・・あ!なんだ、三蔵、ちゃんと連れてきてたんじゃん」
「三蔵が?!」
「・・・へ?」
すぐに納得したように笑う悟空と揃って瞳を見開いた八戒と悟浄。その視線の先には細く開かれたドアとその奥で小さく揺れた青い瞳があった。