ライブは三蔵が最後の一節を歌い終わった後にドラム、ギター、ベースのそれぞれのソロとセッションが入って終わる。三蔵以外の三人はそれからテーブルの方 に下りて客たちとのひと時を持ち、三蔵はその間ずっと一人で煙草を吸っている。この数日で流れを知った
柚螺は今、三蔵の最後の声を聞き終えてそっと音がしないように椅子から立ち上がった。このまま黙って出て行くことには抵抗があったが間に合 わなくなるかもしれないという不安が強かった。
三蔵がここに入れてくれた。ずっとその事ばかり頭に浮かんでしまっていた。初めて聞いた歌っていない三蔵の声は想像していたよりも低かった。真っ直ぐに 落ちてきた視線は強く、
柚螺の視線をはねつけるように紫色に光った。
柚螺が立ち上がるのを待ちきれないように裏口のドアを開けて中に入ってしまった三蔵はそれでも
柚螺が戸口から中を覗くまで黙って立っていてくれた。あの時からずっと三蔵の後姿を見続けていた気がした。
足を動かすと生傷の部分がズキズキと痛んだ。見下ろせば破れたスラックスの裂け目から赤く染まった肌が剥き出しになっていた。見事に転んだものだ。ずぶ 濡れの衣類は冷たく肌に張り付いてかなり気持ちが悪い状態になっている。
ふと、床に水溜りができていることに気がついた
柚螺は何か拭くものがないかと周囲を見回した。ズキン、とまた傷が疼いた。
「先ずは自分のことを何とかしろ。そのまま濡れ鼠でいるつもりか」
さっきから何度も何度も頭の中で繰り返し再生していたのと同じ声。驚いて振り向いた
柚螺は自分が入ってきた三蔵のすぐ前に立っていることに気がついた。身体の中で心臓が跳ね上がった。
泥と血にまみれた細い姿をチラリと一瞥した三蔵はため息をついた。
『きっと
柚螺さんは三蔵の歌が終わったら帰ろうとしますから。いいですね、三蔵。せめて僕らが行くまでちゃんとお世話してあげててくださいね』
柚螺が怪我をしていることにいつ八戒は気がついたのだろう。三蔵が最後の音を出し切るか切らないかの間に耳元で囁かれた八戒の言葉は依頼と いう形をとりながら命令に等しい響きを持っていた。こういう八戒の言いかたの時には逆らわない。それは三蔵だけではなくほかの二人もいつの間にか身につけ ていた習性だった。
とは言え。
まさか昔悟空がどこからか拾ってきた猫のように扱うわけにもいかないだろう。困惑に眉間に皺を寄せ三蔵は考えた。
「奥の部屋に狭いがシャワーブースがある。着替えは猿・・・悟空ので何とかなるだろう」
柚螺の横を過ぎて足を止めた三蔵はほんの少し首を傾げて振り向いた。
「どうした。ついてこい」
柚螺は三蔵の顔を見た。言葉を出せないのがもどかしい。けれど例え声が出たとしても何をどうとも説明できないこともわかっていた。
柚螺の顔を見返していた三蔵の視線が動いた。濡れて
柚螺の腕にぴったりと張り付いている白いブラウスの袖・・・布地が透けてその下の白い肌とその上に二本の線のように見えるものを浮かび上が らせている。
「お前・・・」
柚螺が驚いて目を見張った時には三蔵の手が
柚螺の手首をとらえ、濡れた袖を肘近くまで捲くっていた。
すっかり肌になじんで少し薄くなっている10桁の数字。
その下には最近印字されたばかりのような黒々とした5桁の数字。
細い腕の二列の数字を三蔵は読んだ。最初の10桁のうち先頭から8桁は
柚螺が生まれた年月日。残る2桁は性別。そして2列目の5桁は・・・・。
「・・・そういうことか」
呟いた三蔵は
柚螺の手首を掴んだまま歩きはじめた。
「センターには連絡を入れておく。お前は明日の朝、9時までに向こうに戻れ」
一人納得した様子の三蔵は
柚螺自身よりも
柚螺が置かれている状況を理解しているように見えた。
柚螺は握られた手首に三蔵の体温を感じながらただついて行くしかなかった。心を震わせているのは不安と驚き、そしてもうひとつの何か別のも の。三蔵の横顔を見上げながら
柚螺はそれまで見ていた後姿から少しだけ距離が縮まったことを感じていた。