とてもあたたかなぬくもりの中で陶然とした不思議な気分になっていた。眠る意識の底でそれが歌声のせいであることに気がついた時、その声はどこか切なさを 運んできた。先へ進むことへの意志、ふと立ち止まって振り向いた時に見えたもの。覚醒する意識の中で
柚螺はいつの間にか涙ぐんでいた。
目を開けると悟空のやわらかな横顔が目に入ってきた。ソファで寝ている
柚螺の足元に両腕を乗せてその上に顎を乗せている。光が届かない部屋の真ん中でも自ら明るくきらめくような金晴眼が見ている先には窓の縁に 腰掛ける三蔵の姿があった。朝の白い光と清涼な空気の中、光る金色の髪とたった今終わった歌声が透明な残響を漂わせている。
トクン。
胸の中で心臓が大きくひとつ、打った。抑えようと胸の前に手をあてると細い身体を覆っていた毛布が動いて悟空が気がついた。
「おっはよー、
柚螺。俺、ここで寝ちまったんだな〜。全然覚えてない」
見れば悟空の足元に毛布が丸まっていた。
「三蔵、
柚螺、起きたぞ。三蔵も今朝は早いのな。何か朝から機嫌いいし」
・・・三蔵は機嫌がいい・・・のだろうか。
柚螺は二人の方を向いた三蔵の顔をこっそりと視線で探った。ステージでもステージが終わったあともずっと三蔵の眉間には皺があるように見え るのだが。もちろん、今も。
「ちゃんと歯ぁ磨いて顔洗ってこい、悟空。・・・
柚螺も連れて行けよ」
『
柚螺』
また心臓が大きくひとつ、ふたつと鼓動を刻んだ。悟空に聞こえてしまっていないかと思わず
柚螺は満面の笑顔を見た。
「や〜っと呼んだ。三蔵さ、人の名前をちゃんと呼ぶの、すげぇ遅いんだ。でも、呼ばれると嬉しいよな!」
悟空にはもしかしたら今の
柚螺の気持ちが丸々そっくりわかっているのかもしれない。悟空が三蔵に出会ったときもこんな感じだったのだろうか。
柚螺はまた三蔵の顔を見た。悟空に向いたそれには昨夜までの印象とは違うあたたかさがあるような気がした。
柚螺を負ぶっていくと言って譲らない悟空にかなり抵抗した
柚螺だった。と言っても首を横に振って見せるしか方法はなかったのだが。悟空は
柚螺よりも少しだけ背が高かったけれど三蔵たち三人のそばではいかにも少年らしく見えた。悟浄は
柚螺のことを軽いと言っていたが、あれだってもしかしたら
柚螺の気持ちを軽くしようと思って言ってくれたのかもしれない。
「だ〜いじょうぶだって!俺さ、力持ちなんだぜ。だから、ほら!」
声が出ないと言うのはこういうときにも不便だ。結局
柚螺は腕を引かれるままに悟空の背中に身体を預けた。
「うわ〜、やっぱ、軽い!女の子ってみんなこうなの?」
振り向いて答えを求める悟空に三蔵はため息をついた。
「知るか・・・・んなわけねぇだろうが。性別と個人差を一緒にするな」
「う・・・ん?まあ、いいや!なんか楽しいから」
悟空は軽く一歩踏み出してから気がついたようにそっと次の一歩を進めた。静かに、ゆっくり、背中の上の女の子に痛い思いをさせないように。笑顔の悟空の 瞳は真剣そのものだった。
柚螺は悟空の背中の温かさを感じていた。悟浄よりも体温が高いかもしれない、と思った。悟浄の背中で感じた高いところにいる感じもほとんど ない。
「おはようございます!・・・・と、悟空と
柚螺さんは歯磨きですか?」
「お〜お〜。頑張ってるじゃないの、小猿ちゃん。そうやってっと、じゃれてる兄妹みてぇだな」
5人分の朝食を運んできた八戒と悟浄は部屋の中の光景に目を細めた。
「さあ、今日も一日、お仕事、頑張りましょうね!悟空はお勉強を、ですね」
仕事。その言い方に首を傾げた
柚螺に悟浄が笑った。
「あのさ、俺たち、音楽やってメシ食ってるんじゃねぇんだわ。そういう話がなかったわけじゃないけど、縛られるのイヤだしよ。だから、昼間はそれぞれにお 仕事してるわけ。八戒は教師、俺は昼過ぎから何軒かの店を回って代替プレイヤー・・・っつってもわかんねぇか。悟空はまだまだ勉強中の学生で、三蔵はよく わからねぇ謎な世界に顔出してさ。んで、夜に店に行って面子が揃ったらライブやってんの」
にっこりと笑った八戒が悟浄の後を続けた。
「三蔵ね、このアパートの大家さんでもあるんですよ。もっとも、外側をちっとも修復とか改装しないから入居希望者はゼロ。住んでるのは僕たちだけ、埋まっ てる部屋は二部屋だけですけどね」
確かにアパートの外観と部屋の中では随分印象が違っていた。外で見たときは夜で暗かったせいもあるのだろうがいつ崩れてもおかしくない感じに見えた。け れど部屋の中は壁も床も天井も素朴な質感の木材が張られ、大きな窓から陽光が降り注いでいる。色彩控えめの家具たちもシンプルな形でありながら安心できて 居心地が良さそうな空間を作る役割を果たしている。
ボロボロに見える外観は他人をはじくための鎧のようなものなのかもしれない。窓の外を見ながらいつの間にか煙草を吸っている三蔵の姿を見て
柚螺はそんなことを思った。
町外れにあるセンターまではチューブに乗っても30分以上かかる。9時までに戻るのならそろそろここを出なければならない。八戒が作ってくれた朝食を食 べながら、
柚螺は自然と俯きそうになる顔を意識して上げていた。声が出ないのはいい時もある。無口になったことを誰も気がつかない。
白くて無機質なセンターの外観と内側。表情の少ない職員たち。互いに半ば隔離されている状態にある
柚螺たち、ナンバーズ。戻ったら再び自分の人生の始まりを探す日々が続く。
「俺、センターまで
柚螺を送ってく!いいだろ?八戒」
悟空が通っている『学校』。実は八戒はその学校で教師をしているのだという。朝はいつも一緒に行くんだと嬉しそうに言う悟空に
柚螺は羨望の眼差しを向けてしまった。急いで目を伏せたけれど、もしかしたら八戒には気づかれてしまったかもしれない、と思った。
「僕もそうしようと思ってたんですよ。早めに出れば始業時間には間に合いますしね。それでいいですね?三蔵」
「ああ」
「なんかよ〜、気がすすまねぇよな、こういうの」
悟浄の手が静かに
柚螺を撫ぜた。
「今夜も店、来いよ、
柚螺ちゃん。顔見ねぇとこう・・・安心できねぇからさ」
大急ぎで朝食をかきこんでいる悟空、穏やかな笑みを浮かべて見守ってくれている八戒、さりげない触れ合いをくれる悟浄。そして、黙って
柚螺を見ている三蔵。
ありがとう
キーボードの上を走る指が震えた。その一行を読んだ三人がそれぞれの表情で頷いた後、
柚螺はその小型の端末を持って三蔵の前に行った。静かに差し出すと三蔵の目が文字を読んだ。そしてそのまま返すつもりで待っている
柚螺の手の上で画面を閉じた。
「持っていけ」
短い言葉以上に心に入ってくる三蔵の瞳の前で
柚螺は端末を胸に抱きしめた。
ただ唇を震わせるしかできない
柚螺に三蔵は無言で視線を返していた。