「・・・何があった?」
くしゃくしゃになりかけている顔を必死で真顔に保とうとしている様子は、場合によってはひどく滑稽に見える。そう・・・その人間が己の幸福に対する悦び をどう表したらいいのか迷っているような場合には。
しかし、原因が恐らくその正反対だろうと想像がつく場合は。
そして、もしかしたら泣き声を堪えているのではなくて、ただ、声が出ないだけなのかもしれない少女が目の前に立っている場合は。
三蔵は新聞を床に置き、ゆっくりと立ち上がろうとした。
ふわり。
柚螺 の身体が三蔵の前でいきなり小さくなった。そのことに軽く驚いた三蔵が体の動きを止めた時、左足に少女の体温を感じた。見下ろすと、床 に膝をついた
柚螺 が顔を伏せ、三蔵の膝に額を触れていた。肩を震わせ、泣いていた。
「・・・どうした?」
立ち上がるために溜めていた力を抜き、三蔵は再びソファに身体を預けた。まだ静かに触れている
柚螺 の頭から伝わってくる温度に戸惑いを感じていた。まだ幼かった頃の悟空の体温を思い出していた。悟空は日頃は煩すぎるほど元気なくせ に、たまに三蔵にとっては思いがけないことを理由に傷つき、黙ってただ三蔵の腰に腕を回してぎゅっとしがみついてくる時があった。仲良くなれたと思った相 手に急に『もう遊ばない』と背を向けられた時。仲良くなっていた野良猫が寒い季節を越えられなくて命絶えた時。どの場合もそれは突然に訪れて悟空から笑顔 を奪った。
柚螺 はもうあの頃の悟空の年齢を遥かに越えているし、考えてみれば性別も違う。こうした姿を見せている原因など想像できるはずもない。
それでも。込み上げる嗚咽に震えながら声無くしゃくりあげている姿はやはり幼い子どものそれに見えた。
ふぅ。
三蔵は火がついている煙草を右手に持ち替え左手で眼鏡を外した。
膝に感じる重みと温かさ。ひときわ熱を感じる部分は恐らく
柚螺 の涙で湿っているのだろう。
顔を上げて煙を一筋吐いた時、左手が何かに触れた。指先を小さく動かしてみるとさらさらとした感触がある。
柚螺 の髪だ。三蔵の指が触れると同時に我慢できなくなったように再びしゃくり上げだした細い体。
ふぅ。
もう一筋煙を吐いたあと、三蔵は5本の指、それから手の平を
柚螺 の頭にのせた。
悟空の顔には三蔵の記憶にある中で最大級の『不貞腐れ』が見えた。それと同時に胸のうちに湧き上がり続けているであろう強い怒りも。
バンッ。
壊れるなら壊れてみろ、という勢いで開かれたドアの向こうから駆け込んできた悟空は大声で三蔵の名を呼びかけ、
柚螺 の姿に気がついて口を閉じた。
「三蔵・・・・
柚螺 、泣いてる?」
「・・・・眠ってる・・・今は。泣きつかれて寝ちまった。ガキと一緒だ」
三蔵の膝を枕に眠っている
柚螺 の肩が小さな呼吸音とともに規則正しく上下していた。
「・・・よかった」
悟空は靴を脱ぎ捨てペタペタと裸足で歩み寄り、三蔵の前に座り込んで胡坐をかいた。三蔵はしばらく黙って悟空の不機嫌そうな顔を見下ろしていた。
「・・・何があった?学校か?」
ぐっと唇を噛んだ悟空はやがて小さく頷いた。それから勢いよく顔を上げ、三蔵に強い視線を向けた。
「俺、わっかんねェよ、三蔵!何で
柚螺 だけ停学にならなきゃいけないんだよ。
柚螺 は自分じゃないってあんなに一生懸命に伝えてたのに・・・・!」
「停学・・・・またか」
三蔵の手が無意識のうちに
柚螺 の頭を撫ぜた。悟空が戻る前、
柚螺 が眠ってしまうまで続けていたように。
「また、じゃねェよ、三蔵!今度は
柚螺 はちゃんと自分が伝えたいこと、伝えたんだ。なのになんで
柚螺 だけ・・・・!」
「でかい声を出すな・・・眠らせてやれ」
「あ、ああ!ごめん、俺・・・」
悟空は手を伸ばし、三蔵の指先を追うようにそっと
柚螺 の髪に触れた。
「相手が男だったら・・・・そしたら俺、喧嘩でも殴り合いでも何でもやって
柚螺 のこと、守れたのに」
ということは、
柚螺 を泣かせたのは女生徒か。
三蔵は身体の力を抜いた。こうなると、恐らく三蔵はもちろん悟空にも話の流れの本筋は見えてこない。ここは、別の観察者が戻ってくるのを待つべきだろ う。
見れば、悟空の顔には激情を堪えるような、泣き出したいのをどうしていいかわからないと言うような表情があった。
ったく・・・・どいつもこいつも。
三蔵が煙草を咥えかけた時、携帯電話が鳴った。短い着信音。届いた1通のメール。
<部屋にいますか?2人はいますか?>
恐らく今一番事情を知っているはずの八戒からの言葉。
<ああ>
短く返事を返すとまたすぐに言葉が届いた。
<ああ、本当によかったです。じゃあ、僕はもう少し時間がかかります>
読んだ三蔵の頭の中に立ち上がって背を向けた八戒の後姿が浮かんだ。
何が『じゃあ』だ。
どこまで・・・・何をしようとしている、八戒。
本当に・・・どいつもこいつも。
三蔵は電話をポケットに戻し悟空の顔を一瞥した。
「あ、顔見えた。うわ、
柚螺 の顔、子どもみてェ!かっわいい〜」
どっちが子どもだ。
柚螺 の顔を覗きこんでいる悟空は幼い頃の印象そのままで。
三蔵は煙草を唇から抜き、ポンッとサイドテーブルに放った。
「今日ばかりは本当にあなたが留守じゃなくてよかったですよ、三蔵・・・・・って、やっぱり、想像していた通りのパターンでしたか」
今日は誰もがベルを押すこともノックをすることも忘れているらしい。
ドアを開け開口一番囁いた八戒の声に、三蔵は不機嫌そうな顔を向けた。
左膝に
柚螺 、右膝に悟空。今の三蔵は満員御礼もいいところの気分だったのだが。
八戒の顔のどこか険しかった部分がその光景を眺めるにつれて消えていった。
「・・・・コーヒー、淹れましょうか」
鞄も置かず、帰宅後に必ずするうがいと手洗いもせずにキッチンに向かおうとする姿。それはおよそ八戒のものとは思えない。
「・・・何があったんだ」
仏頂面とは少々釣り合わない穏やかな三蔵の声に、八戒は短く息を吐き肩の力を抜いた。
「話したら、三蔵、僕の頭も撫ぜてくれます?」
ふふっと笑みを含んで問いかけた八戒の言葉に三蔵は左右の手を引っ込め、その所在無さにポケットの煙草を探った。
「煙草、もうテーブルに出てるじゃないですか」
「るせェよ。話すのは俺じゃなくてお前の番だろうが」
「ええ・・・わかってます。ただ、あともう1人、一緒に話を聞いてもらったほうがいい人が・・・・」
そう八戒が言いかけたその時、戸口から悟浄が顔をのぞかせた。
「な〜にドア開けっ放しにしてんのよ。物騒っしょ?」
ドン、と重々しい音と一緒に床に買い物袋を置き、悟浄は三蔵、八戒、そして眠っている2人の姿を順番に眺めた。
「ほらよ、頼まれたモン、大体は買って来たぞ。
柚螺 の好物のフルーツ、猿が好きな肉、三蔵の煙草、んで俺とお前の酒。で?最高にツキが回ってきてた俺にお仕事中断させて買い物させた事 情ってなによ?大したことじゃなかったら・・・・ってまあ、保護者にくっついてるそいつらの様子から見てそれはねェんだろうけど。どうしたのよ?ほれ、八 戒」
大分ほぐれていた八戒の表情がさらにほどけ、柔らかな笑みが浮かんだ。
「やっぱり、コーヒー、淹れますね。ほら悟浄、外から帰ったらうがいと手洗い。一緒に行きますよ」
「へぇへぇ・・・・逆らわない方がいいんだろ?今は」
ぞろぞろと連なってバスルームに姿を消した2人の後姿。
どいつもこいつも・・・ガキみてェだな。
三蔵は黙って足の上の寝息を確かめた。
「
柚螺 の机に財布が入ってたんですよ・・・ある生徒の財布がね。ゴロリとそのまま」
「・・・いやなはじまりだな、それ」
悟浄は呟き、三蔵の目つきが鋭さを増した。
「そこからはまあ、大体想像がつくでしょう?
柚螺 に窃盗の疑いがかけられたわけです。はじめはクラスルームの中で生徒達だけでワイワイ騒いで・・・・その中には悟空もいて一方的に
柚螺 が言われ放題にならないように頑張ったし、
柚螺 本人も一生懸命に文字を打って自分は何も知らないのだと説明したみたいですが。元々ナンバーズには強い偏見を持つ生徒が多いため安易に
柚螺 を責める言葉が多かったようですが、そのうち、一人の生徒が別教室での選択授業の時に
柚螺 の机の前に立っていた生徒の姿を見かけたことを思い出して、比較的偏見を持っていなかったのでそれをみんなの前で言ったんです。別にそ の生徒だけを疑うわけじゃなく、こんな風に誰だって
柚螺 の机に近づいて財布を入れることぐらいできたはずだという発言だったみたいなんですが、名前を出された生徒がひどく逆上してしまいまし てね。・・・・それがね、最近
柚螺 と一緒に行動してくれていた、
柚螺 にとっては初めての仲良し・・・だったわけなんです」
「・・・なんでまた」
「ええ・・・・僕もそこが非常に残念なんですが・・・・。その女生徒は自分を守るために
柚螺 を非難する内容の発言をはじめましてね。
柚螺 は驚いてそこからしばらく何も言えなくなってたらしいです」
八戒は口を閉じ、
柚螺 の姿を見た。泣きつかれて眠ってしまったと言う
柚螺 。学校では一滴の涙も見せなかったのだが。
「そうなると、もう、教師の出番ですよね。
柚螺 のクラスの担任教師と生活全般の指導担当教師、それから学校長。この3人が
柚螺 とその女生徒の話を1人ずつ聞いたんです。僕は
柚螺 と個人的な関わりがあることを学校側に知られていますから一緒に聞くことは許されませんでした。だから、隣室で待っていたんです が・・・・・嫌な予感はありました。
柚螺 から話を聞いた時間は小1時間ほど。それに対して女生徒にはほんの15分程度しか時間を掛けていなかったですから」
「・・・・その分真剣に
柚螺 の言葉を聞いて・・・っつぅか、読んでくれてたって訳じゃねェんだろ?やっぱそれって」
「はい。
柚螺 との話が終わる時、もう、停学と言う処分が言い渡されてました。理由は窃盗。
柚螺 は罪人の烙印を押されてしまったわけです。かたや、女生徒の方は何のお咎めもなし。差があまりに歴然としてしまってました」
「・・・・強引すぎねェ?それ。それに、そういう話なら保護者である三蔵に迎えに来いとか何とか・・・・」
「・・・学校は、
柚螺 をただ一人、外にほっぽり出したんです。追いかけようとした悟空は追えば
柚螺 の停学期間を延長すると脅されて我慢しましたし、僕は・・・・とにかく放課後になるのを待ったんです。不安でした。三蔵が部屋にいてく れれば大丈夫だとは思ったんですが、もしいなかったら・・・・それに、悟空も・・・」
八戒は立ち上がり、三蔵の前に立って2人を見下ろした。
「でも、よかった。ねえ、気がついてます?
柚螺 、前回停学になったときは一人で部屋に篭ってしまったでしょう。それが今日は多分真っ直ぐに三蔵のところに帰って・・・そして泣くこと ができたんです。僕は・・・ホッとしすぎて、ちょっとだけあなたに妬けましたよ、三蔵」
「意味がわからねェな」
「ふふ、いいんですよ。きっと悟浄にはこの感じ、通じてますから」
「唐突なご指名だな。・・・・でもよ、何だったわけ?この財布騒ぎ」
「それなんですけどねぇ」
八戒は2人の寝顔を確認し、テーブルに戻った。
「僕が見たところ、悪意がどのくらいあったかどうか本当のところはわかりませんが、これはただの悪戯とかおふざけのつもりだったと思うんです」
「はぁ?!」
「そう、驚くのが当たり前ですが、僕にはそう感じられたんです。今の社会は貧富の差とかいろいろな差があまりにくっきりとしてしまっていて、あの学校にい るのは言わばゆとりが豊富なタイプの大人が育てている子ども達。つまり、ある意味感覚が麻痺してしまってるんです。物の価値、人の価値、生きると言うこ と、信じられる友人の価値・・・・そんなものに対する感覚がね。きっと財布じゃなくても何でも良かったんです。悪戯心で、後でただ笑うためだけにちょっと 小細工をして・・・・
柚螺 がナンバーズであることから事態が想像以上に大事になってしまったために慌てて逃げ出そうとした愚かな子ども。自分にとって大切なはず のものを踏みにじって行った・・・」
「え・・・・それって、
柚螺 のその友達っていう女生徒のことか?」
八戒は頷いた。
「ちょっとでも経験がある教師ならきっとすぐにわかります。実際、2人から話を聞いた教師達も大体僕と似たような結論を出したでしょう。そして、その上で
柚螺 を切り捨てて女生徒の方を守った・・・・つもりなんでしょう。僕から見ればそれは守ったどころか全然違っているし、もっともっと別の対 応をすれば
柚螺 と女生徒の両方を追い込まなくてすんだと思うんですが。前にも言いましたが、ナンバーズへの偏見は教師の間にも広まっているんです。あ の学校のあの雰囲気・・・・知ってますよね?悟浄」
「はは、まあな。でもよ、強気に出ててもよ、俺らが怒鳴り込んでいったらアタフタしてたろ?お前の上司」
「アタフタしてましたよね、確かに。でも、ほら、あの時はなぜか
柚螺 の停学期間が1週間増えたんでしたよ」
「・・・・そうだった。汚ェよな、やり方が。で?今回はどうよ?お前、何をやらかしてきた?」
「やだなぁ、結果的には何も・・・・プラスマイナスゼロ、というところですよ。ただ、ちょっと三蔵の代理の気分で1時間ほど話を聞いてもらった後、今度は 職を失いたくない教師として深々と頭を下げて謝りましたよ。・・・また
柚螺 に仕返しされたらこまりますからね。悟空にも。最後はお互いに微笑みあってから別れました」
「・・・怖ェよ、それ」
「僕は大人ですからね。何だってできますよ・・・・愛しい者を守るためなら」
八戒が
柚螺 と悟空に向けた笑みは深かった。
三蔵は溜息をついた。
「バカどもが・・・・」
悟浄は片方の眉を大きく上げた。
「あれ?ひょっとしてそん中に俺も入ってます?三蔵サマ。おっかし〜なぁ」
「・・・・なら、テーブルの下でそんな力いっぱい拳を握ってんじゃねェよ」
「やだねェ、油断も隙もない」
「フン」
「まあまあ、2人とも。これから突然の休暇前祝いの宴会準備、しますからね。ああ、言い忘れてましたが、僕、3日間の有給休暇をついでに申請したんです。 すぐに受理してもらえました。さらについでに悟空も3日間休むって言ってきましたし」
「3日あったらよ、結構いろいろできそうだな。ちょっとした遠出、とかよ」
「でしょう?
柚螺 に初めての徹マンを体験させてあげるのもいいですね。あれ、最後は本当に何にも考えられなくなれますから」
どこまでが本気なのか・・・いや、すべてが本気なだけに面倒臭い3日間になりそうだ。
三蔵の手が左右それぞれの頭をクシャリと撫ぜた。
その様子を見た八戒は無言の乾杯のためにカップを持ち上げ、悟浄はからかいの言葉が出かけた口をすぼめてそのまま口笛を一節、吹いた。