「・・・やる。持って歩け」
三蔵の視線が指した先はテーブルで、その上には何か小さなものがのっていた。
静かに、ゆっくりと歩いていった
柚螺は小さく傾げていた首を急に真っ直ぐにした。ポケットにするりと入ってしまいそうな大きさのそれは、室内の薄明るさの中、メタリックな 輝きを見せている。
角に丸みを帯びた四角いフォルム。
晴れた日の空と同じ青色。
これは、多分。これは、やっぱり。
そっと伸ばした指先を触れた
柚螺はまたすぐに離して三蔵を振り返った。その
柚螺の表情に三蔵の
喉の奥でククッという笑いがひっそりと揺れた。
「噛みつきやしねぇし、爆発もしねぇよ」
持ち上げると冷たい滑らかさが手の中に収まった。
普段見ていた光景を思い出して指で探るとそれはパカッと軽く開き、明るい画面が現れた。
携帯電話。
以前は誰もが持っていて当たり前だったというそれは、今は手に入れることも携帯する許可を得ることもひどく難しいのだと八戒と悟浄が話していたのを覚え ている。三蔵たちはそれぞれに携帯電話を持っている。悟空はよく一生懸命に指を動かして何かを書いているし、悟浄は増えた女性のアドレスの数を時々三蔵に わざと自慢する。八戒は電話以外の機能もよく使っていて、この間もケーキが焼きあがる時間になったらにぎやかに電話が鳴った。三蔵はあまり携帯電話をポ ケットから出すことはないけれど。
そんな4人の日常の様子を見ていた
柚螺は携帯電話にほのかな憧れを抱いていた。声が出ない自分には必要ないものだと思っていたし、手に入れる手段もないのだとわかっていた が。それは直接的な『欲しい』という感情とはどこか違っていて、悟空が時々口にする『カッコイイよな、アレ!』という言葉に近い気がした。現実よりは夢に 近い。そんな存在だった携帯電話が、今、手の中にある。
柚螺は再び、三蔵を見た。
「面倒臭ぇから、使い方は猿か八戒あたりに訊け」
一旦言葉を切った三蔵は
柚螺の顔を見た。
「・・・何だ。お前には使えねぇと思うのか?」
柚螺はこくりと頷いた。
三蔵の顔に笑いとも舌打ちともつかない表情が一瞬よぎって消えた。
「逆だ。お前には結構使えるモノになる。こいつは声だけじゃなくて文字も飛ばせるからな。相手がおまえの近くにいなくても言葉を送ることができる。メール メインで使ってる人間の方が案外多いしな」
そう言えば・・・そうなのだろうか。
そうか。
携帯電話を使えば、相手の視界に入ることができる場所にいなくても、言葉を送れるし名前を呼ぶことだってできる。悟空にも、八戒にも、悟浄にも、そし て・・・・三蔵にも。
薄く頬を染めた
柚螺に三蔵が次の言葉を迷ったとき、勢いよくドアが開いた。
「たっだいま〜!すっげぇ重たかったけど、すっげぇ楽しみ!八戒、この野菜と肉、今日全部料理すんの?」
「はは、さすがに全部というわけにはいきませんけどね。でも、頑張ってくれた悟空のために沢山腕、ふるいますよ。・・・・あれ?」
「え、なになに・・・・って、すげぇ!
柚螺、携帯持ったんだ!三蔵と色違いじゃん。カッコイイな!その色」
「ああ、そうか。その色、
柚螺の瞳の色とよく似ていますね」
「ほんとだ!」
「前々から
柚螺が携帯を持ってたらいいなと思ってたんですよね。これでちょっと安心できます。さすがですね、三蔵」
「フン。突然にぎやかになりやがって」
新聞を広げた三蔵の様子に八戒は微笑した。
「そうだ、
柚螺、俺のアドレス、登録しなきゃ」
キッチンに荷物を置いてから駆け寄った悟空が
柚螺の手を引いて椅子に座らせた。
「待ってな。今アドレス帳を開いて確かめ・・・・・あれ?」
悟空が声を上げるのと同時に三蔵は新聞にさらに深く体を埋めた。
「どうしました?悟空」
「あのさ、もう、アドレス、入ってる!俺たち4人の、全部!」
「・・・なるほどね」
笑いを噛み殺しながら八戒は新聞からはみだしている三蔵の金色の頭を見た。
「じゃさ、もう、送れるじゃん、メール!
柚螺、ほら、俺の真似して?そこの左っかわのボタンを押して・・・・うんうん!」
悟空は案外よい教師になれるかもしれない。携帯電話を買った三蔵本人より遥かに気長に楽しそうに教えている悟空の姿に、八戒は目を細めた。
そう言えば。悟空の携帯電話も三蔵と同じ機種の色違いだ。だから手本を見せやすいということもあるのだろう。
三人お揃い。
「ふふ」
八戒は胸ポケットから自分の携帯を取り出した。彼のものは悟浄との色違い。欲しい色を訊かれて反射的に「赤」と答えたことを思い出す。一緒にいた悟浄は 一瞬不思議そうな顔をした後、「そんじゃ俺は緑」と言って笑った。そんな他愛もない小さな記憶のひとつひとつが今ある自分を作っていることを時々八戒は意 識する。特にこんなやわらかな夕暮れ時には。
「じゃさ、何か好きに打ってみなよ。最後に完了ってのを押して送信!ってやれば送れるから」
悟空の身振りが面白い。結局はボタンのひとつを押す動作を再現しているから一見どの動作も同じに見えるのだが、それぞれの説明に独特の音色がついてい る。
もっとも、
柚螺の後姿はひどく真剣で、そんな悟空の様子を楽しむ余裕はないようだ。いつも持ち歩いている小さな端末とは文字の入力の仕方が違うから、 戸惑ってもいるのだろう。肩に力が入っている。一文字一文字を選んでいるのが離れていても手にとるようにわかる。
ひとつ、またひとつ。
やがて
柚螺は小さく安堵のため息をついた。それから、しっかりと背筋を伸ばして、もうひとつ、何かボタンを押した。
シンプルなメロディが鳴ったとき、飛び上がったのは
柚螺と三蔵、同時だった。
椅子から飛び上がった
柚螺は大慌てで部屋から駆け出して行き、三蔵はまたすばやく潜り込んだ新聞の奥でゴソゴソ動いている。
「バイブにしておかなかったんですね、三蔵」
思い切り明るく響いた八戒の声に、三蔵は返事をしない。
「あ、
柚螺、三蔵に送ったんだ。なんかさ、すげぇ赤い顔して行っちまったけど」
「まあまあ。ご飯ができたらメールで呼んであげましょうね」
「おう!」
柚螺の初めてのメールにはどんな言葉が書かれていたのだろう。
果たして三蔵はちゃんと返信メールを送るのだろうか。
どちらもきっと答えはわからないままに終わるはずであることを知っている八戒は、そのことを少々残念に思った。
でも、まあ。今夜悟浄に話して聞かせる良い話題をひとつ貰えたということで。
にっこりと笑った八戒は悟空と目を合わせ、そこにある笑顔にさらに笑みを深めた。