「だから!俺の睡眠の邪魔をするな!ったく、この頃、お前は・・・・・!」
三蔵は寝起きが弱い。研ぎ澄まされた警戒心はすぐに目覚めるが、理性はまだ起きてこない。
だから、頬に触れた指先を払いのけたその瞬間、三蔵はそれが誰のものであるかをまったく意識していなかった。
三蔵自身の口からでた『お前』。
それが
柚螺のことであるのに気がついた時、一気に三蔵の頭を占めていた睡魔が飛び去った。
「
柚螺?」
さっきと打って変わった低い声で呼びかけた三蔵の前、
柚螺は目を丸くして立っていた。それからペコリと一度頭を下げると早足で部屋から出て行った。
やっちまったか?
そんな思いにとらわれた三蔵がソファから身体を起こした時、ノックの音が聞こえた。落ち着いた2度のノック。これは、八戒だ。
「廊下まで聞こえましたよ、あなたの声」
予想通り先に立って部屋に入ってきたのは八戒で、その後ろから悟浄が首を傾げながらついて来た。
「どーしたのよ、三蔵さん?遠慮なくでっけェ声だったな〜」
「チッ」
悟浄の表情も口調も三蔵の予想通りだった。が、しかし。
三蔵は不機嫌そうに眉を顰めたまま、八戒の顔を見た。そこにあるのは予想とは正反対の、ひどく穏やかな微笑だった。
ある日、ポケットから出してソファの隅に置いておいたはずの煙草がテーブルの上に移動していた。一緒に部屋にいたのは
柚螺1人だったから、多分中が零れてしまわないように気を使ったのだろうと納得した。
別の日、今度は新聞だった。読みかけを置いたまま昼寝をしていた三蔵のそばから、新聞はやはりテーブルの上に移動していた。
面倒くせぇ。
とにかく三蔵は部屋にいるときは特に必要最小限以上に身体を動かさないことにしている。だから、煙草の時もその時も、思わず顔を顰めた。考えられる犯人 はやはり
柚螺だった。だから、何か理由があったのだろうと三蔵は思ったのだが。
その後、いつも玄関に出しておく三蔵のサンダルが丁寧に靴棚にしまわれていたり、すぐ手に取れるようにテーブルにのせたままにしておく眼鏡がしっかり引 き出しにしまわれていたり、一見整理整頓の一環とも思える現象が続いた。
三蔵は徐々に疑問を抱いた。
八戒が犯人だというのならまあ、納得も出来る。とは言え、八戒は三蔵個人のことにそこまで関わろうとはしないだろうが。そういう点では悟浄や悟空を相手 にする時とちゃんと区別しているのが八戒なのだから。
どの場合も犯人は、
柚螺だ。だから、不思議なのだ。
柚螺は三蔵の気分や空気を読み取るのが上手く、ずっと、全く邪魔にならない存在だった。それが、今、なぜ。無駄な世話焼きをするためにプラ イヴェートに踏み込む図々しさなど欠片も持っていないはずなのだが。
そんな風な状況に続いた一場面だった。だから・・・・三蔵の口から自然と『お前』が飛び出したのだが。
「・・・・泣いていたか?あいつは」
ぶっきら棒な口調で三蔵が尋ねると、八戒はクスリと笑った。
「とんでもない。まったく反対ですよ、三蔵。
柚螺、とっても嬉しそうでした」
「・・・・はぁ?」
からかわれているのかと眉間の皺を深めた三蔵に悟浄も言葉を続けた。
「でも、そーなのよ、ほんと。
柚螺の顔、嬉しさいっぱいだったぜ?その前のお前の怒鳴り声もちゃんと聞こえてたからよ、だから俺もちょっと首をかしげちまったんだけど」
冗談でもからかわれているわけでもないというのか。
三蔵は釈然としない気分のまま、煙草を1本振り出した。
「・・・訳がわからねぇな。この頃、どこかおかしかったし」
「ふふ。僕には理由がわかる気がしますよ」
八戒の顔には余裕の笑みがあった。三蔵はその笑みを睨み、悟浄は好奇心丸出しの表情で三蔵の隣りに腰を下ろした。
「んで?その理由ってのを俺たちにわかるように説明してちょうだいな、八戒先生」
「いいですけど、高いですよ?授業料」
「へぇへぇ、身体で払わせていただきます」
「素直でいいですね。じゃ、後で買出し、頼みます。そんな顔で睨まなくてもいいですよ、三蔵。あなたに買出しに行けとはいいませんから」
八戒は椅子を引いて浅く腰かけた。
「理由は簡単ですよ。
柚螺はあなたに怒られたかったんですよ、三蔵」
「へぇ?それって・・・・・まさか、M?」
悟浄の軽口に怒りが滲んだ三蔵の顔を八戒は楽しげに眺めた。
「遠慮しないと命にかかわりますよ、悟浄。いいえ、単純に文字通りの意味ですよ。
柚螺は三蔵に怒られたかったんです。悟浄や悟空と同じように遠慮なく怒鳴られてみたかったんですよ。ハリセン、まで望んでたかどうかはわか りませんけどね。だって、三蔵、
柚螺のことを2人と同じように怒ったこと、ないでしょう?あ、公平に言えばあなたがたまに僕を睨むみたいに睨んだこともないですし」
「・・・あいつはてめぇらみてぇに馬鹿をやらかす訳じゃねぇからな。わざわざ怒られたい馬鹿もいねぇだろ」
「だよな。俺なんかいっつも遠慮なく的にされてよ、これがなかったらどんなに幸せかって思うぜ?」
顔を見合わせた2人に八戒は笑った。
「それが普通だと僕も思いますけどね。でも、
柚螺にはそれが寂しかったんですよ。自分だけ気をつかわれている・・・・きっとそんな風に感じだしたんでしょう。三蔵は老若男女の区別な く、何ものにもとらわれず必要があれば遠慮なんてしない人ですけど、
柚螺にはまだそこまでわかりませんしね。つまり、
柚螺は僕らと同じレベルであなたに扱われたいんですよ。それだけのことなんです、多分」
「・・・・意味がわからねぇな」
呟いた三蔵を見て悟浄がニヤリと口角を上げた。
「俺はちょっとわかる気がするけどな〜。気ぃつかわれてるとか遠慮されてるとか感じるのってよ、結構しんどい時もあるぜ?ま、お前はそういうのも全部あっ さり無視して我が道をいくんだろうけどよ」
「フン」
八戒は三蔵の表情が普段並みの仏頂面に戻ったのを見て微笑んだ。
本当はね、やっぱりまだ
柚螺は特別扱いされてると思うんですけどね。だって、怒鳴った後に、あなた、ものすごく慌ててたじゃないですか。悟浄や悟空にするみたいに 怒鳴りっぱなしなんてこと、きっとずっとできないんでしょうね。まあ、この「特別」は
柚螺がそれを寂しく思う「特別」とは全然違う種類のものだと思いますけど。
「という訳で、
柚螺は怒られて喜んだ顔を見せる訳にはいかなくて出て行った訳です。すっきり理解できましたか?」
「はいよ、せんせ」
「じゃあ、悟浄、これから買い物メモを書きますからね、冷蔵庫をチェックするのにちょっと部屋までつきあってください。あと・・・三蔵?」
「なんだ」
「買い物に行けとはいいませんから、あなたは
柚螺を呼んどいてくださいね。戻ってきたらお茶にしますから。あくまでも普通の顔をしてですよ。呼ぶのは、まあ、メールを使ってもいいです けど、でも、とにかく顔を見たらいつも通りにしててくださいね」
「・・・八戒」
「何です?それとも、悟浄と買い物に行ってくれますか?」
「・・・いい」
三蔵は煙草を咥え、火をつけた。
「はい。ああ、それから煙草を吸い過ぎない様に。
柚螺、もうシャワーを終わらせてたみたいですからね」
三蔵は返事をしなかった。八戒も待たなかった。
「・・・ったく」
ドアを閉めながらそっと振り向いた八戒は、三蔵が灰皿の上で手を動かしている姿を確認した。
「特別っていうのも悪いものばかりじゃないですよね?」
八戒が囁くと悟浄は声を殺して笑った。
「つぅかよ、むしろ、いいことの方が多いんじゃねェの?一般的にはよ」
「ああ、そう言えばそうですね」
穏やかな夕暮れ時。
今頃きっと三蔵は最大のしかめっ面をしながら、一文字、一文字、慎重にメールを打っているだろう。やがてメールが届いたら、きっと向こう隣のドアから
柚螺が駆け出してくるのだ。
「とてもいい笑顔でしょうね、部屋から出てくるときの
柚螺」
「きっと真っ赤な顔してな。そん時の三蔵の顔、見てやりたいな、ほんとは」
「ふふ。僕らがいると出来ない顔を
柚螺に見せてあげてたらいいですね」
「うっわ〜!考えたら照れくせェ!」
「ほんと・・・・あなた、純情ですよね・・・・時たま」
「るせェ、こっち見んな!」
八戒が開けた2人の部屋のドアから悟浄がするりと中に姿を消した。
「本当は、『いつも』なのかもしれませんけどね」
呟いた八戒の笑みは驚くほど深かった。