a smell

 悟空、八戒、そして 柚螺
 3つ並んだうちの真ん中の部屋で顔を合わせた3人は、すっきりとした笑顔を交わした。部屋の中にほのかに香るのは3人のまだ濡れた髪から漂うシャンプー の香り。八戒は爽やかなメントール系、悟空は三蔵が愛用している薬草系、そして 柚螺は八戒が 柚螺の髪質に合わせて選んだ一クラス上の微香系(もっとも、八戒は値段については 柚螺に内緒にしており、いつもさりげなく買い物ついでのフリをして 柚螺に持ち帰らせる)。幸いなことに、この3種類は混ざって不快な匂いではなく、むしろ清涼感が増していた。

「さっぱりしましたねぇ〜。そうだ、お茶もいいですが、先ずは牛乳、飲みましょうか。お風呂上がりに飲むには最高だといつも思うんですよ」

「あ、じゃあ、持ってくる!俺、たくさん飲んでデカくなりてぇ!」

 駆け出した悟空を見守りながら、八戒は目を細めた。

柚螺、大分髪が伸びましたね。勿体無いけど、また毛先だけカットしましょうか。そうだ、切る時はついでに三蔵のも一緒に切っちゃいましょ う。何だかんだと先日、逃げられましたからね〜」

 三蔵、という名前の響きにぴくりと反応した少女の頬の筋肉の微細な動きを確認した八戒は、にっこりと微笑した。素直な性質の子供だ、と思った。そんなと ころは悟空によく似ている。三蔵が2人の保護者であることに偶然だけではない何かを時折感じる。三蔵にはまだ八戒や悟浄に見せていない不透明な部分がたく さんある。それでも、意外と苦労人である悟浄や普段は若干他人に皮肉で冷静な視線を向けているはずの自分がこうして抵抗なく三蔵の隣人をやっていられるの は・・・・・確かに三蔵に恩義を感じているというのも理由ではあるのだろうが・・・・悟空と 柚螺の存在も大きいかもしれないと思う。素直で純粋な子供である2人が三蔵に無条件に寄せている思慕と信頼。それは他の何よりも確かで重要 な事実なのかもしれない。
 さらに。結局、未だ少々謎めいている三蔵が、悟空や 柚螺のような人間だけをそばに置いているという事実。もしかしたら2人のような人間のそばでしか安らぎを得られないのではないかという八戒 の推測が当たっているのなら。八戒は1歳年上の一見尊大で傲岸不遜な面倒臭がり屋としか見えないこの男にほんの時たま感じる張り詰めた細い線で描かれたよ うなシルエットを、自分の勘違いではないと確信できるし、時には保護欲のようなものさえ感じるのだ。
 自分を見上げる 柚螺の視線を感じた八戒はゆっくりと微笑を返した。

「大丈夫ですよ。ただ、あなたや悟空と一緒にこうしていられるのが、僕にはすごくありがたいことだと思っただけです。学校ではできませんからね、こうして 帰ってから思う存分、大切に可愛がりたいな〜なんて思っちゃうんですよ」

 真っ赤になった 柚螺の顔にクスリと笑いながら、八戒は自分の首から外したタオルで 柚螺の髪をそっと押さえた。

「長いと乾くのに時間がかかるのだけが難点ですよね。もうちょっと水気をとってからドライヤー、かけましょうか」

 指先に触れた湿った髪の感触に懐かしさを感じるのはいけないことだろうか。八戒は一瞬躊躇った後、タオルに手を戻した。
 その時、2つの足音が2人に近づいてきた。
 1つは牛乳のパックとグラスを抱えて走ってくる悟空のもの。そしてもう1つは外の通路を歩いてくるドカ靴のもの。

「あれ?悟浄も早いじゃん!」

 すぐに音を聞き分けたらしい悟空が持っていたものをテーブルにのせた時、ドアが大きく開いた。

「だ〜か〜ら!ロックしないと無用心だっつってるっしょ?まあ、お前と悟空がいれば大丈夫だろうけどよ。・・・にしてもよ、お前ら、ま〜た真ん中に集まっ てるのかよ。おまけに何だ?揃いも揃ってスッキリ湯上りですって顔してねぇ?」

「お帰りなさい、悟浄。で、ですね・・・・そう言うあなただって何の迷いもなしにここのドアを開けたじゃないですか。今、僕らは別に騒いだりしてませんで したからね、ここに3人一緒にいるなんてあなたにはわからなかったはずですよ?」

「・・・・勘だよ、勘!この悟浄様には天性の鋭い勘が備わってんの!・・・・・で、なんで湯上りなのよ」

「今日は学校行事のひとつ、体育祭だったんです。朝からずっとなんらかの競技に出たり審判したり記録を持って走り回ったり・・・・・こういうことに限って こだわる人って言うのが案外少なくないんでね、気もつかわなくちゃならないし、もう、大変だったんですよ、生徒も教師も」

「ははぁ〜。でもよ、じゃあ、なんでそんな面倒なこと、やめちまわないわけ?」

「年間計画に盛り込まれた行事は外せないし、年間行事は結局例年通りということで決まるし・・・・ってことでしょうね。でも、悪いことばかりじゃないです よ。悟空は出た競技全部に優勝して総合優勝しましたし、 柚螺は参加した競技は2つでしたけど、その分、裏方で集計作業に没頭してましたからね。勿論、ノーミスです」

「そうそう!今日出たヤツ、全部すっげぇ楽しかった!」

 満面の笑みで悟空はグラスについだ牛乳を一気の飲み干した。

「ぷは〜っ!うんめぇ〜!」

 悟浄はあからさまに誇らしげな八戒の笑みと、口の周りを白くした悟空の顔を見て笑った。

「ははっ、わっかりやすいな〜、お前ら。んで・・・・お疲れさんっと」

 ポンっとまだタオルがのったままの 柚螺の頭を叩いた悟浄は椅子に座り、灰皿に手を伸ばした。

「あ、悟浄、少しは遠慮してくださいよ。僕ら、今、こんなにいい気分で清潔な香りを漂わせてるんですよ」

「1本。1本だけ、吸わせろ。俺もいろいろあったのよ。お前らの見慣れた顔を見ながら1本吸えば、まあ、それでちゃらってことで」

「しょうがないですねぇ」

 言いながらも静かに灰皿を押してやった八戒に、悟浄は瞬きで感謝を伝えた。
 カチッという小さな音がした後、椅子にもたれた悟浄は煙草を深く一吸いし、やがてふぅっと煙を吐いた。その途端、 柚螺が不思議そうな顔をした。何かが違う、と言う感じのその表情に気がついたのは八戒だった。

「どうしました? 柚螺。煙草が嫌・・・・・なわけじゃないみたいですね」

「ん?消すか?」

 口に挟んでいた煙草を抜いて灰皿に向かった悟浄の手を 柚螺の手が慌てて止めた。その小さな感触とぬくもりに思わず悟浄の口元が綻んだ。

「慌てんな。火ついた方に触ったら火傷しちまうぞ。わかった、わかった、これはちゃんと吸うから。・・・・で、どうした?」

 その時、悟空が鼻を動かしながら笑った。

「わかった!匂いが違うんだろ。俺も、もっとガキの頃に不思議だと思った。三蔵のと違う匂いだよな、悟浄の煙」

 こくりと頷いた 柚螺に、八戒は笑った。

「ああ、そういうことですか。悟浄が煙草に火をつけたときに反射的に待っていた匂いと違った、ということなんですね?ふふふ、 柚螺、すっかり三蔵の煙の匂いの方に慣れちゃったみたいですね。もっとも、僕にはそんなに違いがあるとは感じられないんですけど。自分で吸 わない人間には案外わからないものなんですよ。よほど癖のある種類じゃないとね」

 そう。もともと五感が鋭敏な悟空には当たり前にできる区別でも、八戒には難しい。でも、 柚螺が気がついたということにはまた違った解釈ができそうだ。楽しめそうな解釈と・・・・そして、すこし長期戦で見守りたいものと。八戒は 今は楽しむことにして、笑みを深めた。

「三蔵の煙が恋しくなりましたか? 柚螺

 大慌てで首を横に振る 柚螺に、悟浄は噴出した。

「うわ、何、この、ガキっぽいキュートさっつぅの?思い切り癒されちまうじゃねぇの」

「ん〜、でもよ、そういや三蔵、どこ行ったんだ?誰か、メールとか、来た?」

 いそいで携帯電話を引っ張り出した悟空に悟浄はさらに笑った。

「あいつがいちいち自分の予定を知らせてくる野郎かよ。いつの間にかどっか行って、でもって知らん顔して戻って来るのがいつもだろ」

「うん・・・・まあ、そうだけどさ」

「まあ、大丈夫でしょう。もしも三蔵に何かあったら、きっと悟空には何か感じるものがあるでしょう」

 もしかしたらですが・・・・ 柚螺にも、ね。
 心の中で呟いた八戒に悟空は丸くした目を向けた。

「へ?何で?」

「いえ、何となく・・・・ですが。まあ、ほら、アレですよ。親子の絆、みたいな」

「親子猿のな」

「猿って言うな!三蔵が聞いたらハリセン飛んでくるぞ」

「へへっ。じゃあ、今のうちに言っちまおう。お〜や〜こ〜ざ〜るっ!」

 その時、悟空と 柚螺が同時に視線を動かした。ゆっくりと動く2つの視線は、やがて隣室への扉の前で止まった。

「どうしました?2人とも」

「いや、あのさ、ええと・・・・これ、三蔵の煙草の匂い?だよな?」

  柚螺が頷いた。

「え・・・・ええっ?」

 固まる悟浄を含めた全員の視線の前で、問題のドアがすぅっと開いた。

「人の昼寝の邪魔をするんじゃねェよ・・・・・」

 現れたのは不機嫌そうな顔をした三蔵で、指には火をつけたばかりの煙草を挟んでいた。

「あ、三蔵、ただいま〜!そっちにいたんだ。気がつかなかった〜」

 笑顔で走り寄る悟空にさらに不機嫌そうな一瞥をくれ、三蔵はソファに腰を下ろした。

「ええと・・・・・いつから目を覚ましてたんですか?三蔵」

「・・・ついさっきだ」

 短い三蔵の返答に八戒は微笑した。
 信じませんよ、そんなこと。だって、寝起きそのものだったら、あなた、もっと機嫌が悪いはずじゃないですか。煙草に火をつけたのは、悟空か 柚螺にそっちにいることを気がついてもらって出てくる切っ掛けが欲しかったんでしょう?ふふ。一体いつから出るに出られなくなってたんで しょうね。
 黙って微笑している八戒を三蔵はジロリと睨んだ。そして、その目を悟浄に向けた。

「で・・・・・なんか、でけェ声で叫んでたな、お前は。何だって?もう一度、言ってみるか?」

 ぐっと悟浄が唇を噛んだ。
 それでも。
 悟浄の目に炎に似た何かが揺らめいたように見えたのはそこにいる全員の錯覚だっただろうか。そう・・・・まるで、目の前にいる一生のライバルに背を向け てはいけない、というような。負けると分かっている戦でも戦わなければならないと知っている誰かのような。

「おう、言ってやる。何度でも言ってやるぞ。お〜や〜こ〜ざ〜るっ!ホラ。言っとくけどな、これはてめェと悟空のことだけだぞ。 柚螺はそん中に入ってねェからな!」

 挑戦的でありながらどこか律儀さを感じさせるその台詞に八戒は肩を竦め、悟空と 柚螺と目を合わせた。

「・・・・・もう一度、言ってみろ」

「あァ?とうとう耳が遠くなったのかよ、三蔵様!んじゃ、よ〜く聞いとけよ!お〜や〜こ〜ざ〜るっ!」

「・・・・言ったな」

「お前が言えっつったんじゃねェかよ」

「誰が親だ・・・・!」

「だからお前だよ!お前!こんだけ言わせて理解もしてねェのか」

「・・・・・」

 ゆらり、と立ち上がった三蔵と入れ替わるように、八戒は 柚螺を連れてソファに座り、悟空を手招いた。

「まあ、ここは観戦して楽しむとしましょうか。多分、2人とも何か発散しておいた方がいいものを抱えてるみたいですし。多少の器物損壊があったとしても、 ここの大家さんは三蔵ですからね。僕らは無邪気な観衆でいるのが一番得です」

「面白そう〜〜〜!あ、三蔵、ハリセン持った」

「悟浄はどうやらリーチを生かした足技を考えてますね」

 瞳を輝かせている悟空と八戒、そして向かい合ってジリジリと距離を詰めていく三蔵と悟浄。
 順番に4人の顔を見た 柚螺はそっと微笑した。
 子ども、みたいだ。
 まだ互いに指に挟んでいる煙草から2つの香りの煙が漂っている。恐らく、その煙草が捻って消される瞬間が、『戦闘開始』の合図になるだろう。
  柚螺は三蔵の煙草の匂いをまた感じた。
 不思議だった。あまり得意ではなかったはずの煙草の匂い。いつの間にか、それを嗅ぐと安心できるようになっていた。
 三蔵の・・・・匂い。
 自分の心に浮かんだ言葉に思わず頬を染め、 柚螺はそっと一人、目を伏せた。

2007.11.25

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