熱が少しは下がっただろうか。
指先で触れた微少な面積の温度に意識を集中する。
焼け付くような熱さが少しだけ緩和されたようにも思うし、指の方が温度に慣れてしまったのかもしれないと思う。
下がらない熱、紅潮した頬。
思えば、あの寝顔を見た時、すでに
柚螺の身体は高熱に震えていたのかもしれない。
三蔵の部屋のソファの端で少し身体を丸めるようにしてまどろんでいた
柚螺。珍しいこともあるものだと思いながら、三蔵は普段通りに裸足で弛緩し煙草を吸っていた。冬らしく冷える夜が数日続いていて、八戒はシ チューを煮込みながらキッチンから時々顔を覗かせて目を細める。悟浄は時々派手なくしゃみをしながら珍しく懐具合の計算に勤しみ、悟空は携帯電話を開いて 何か熱心に打っていた。
食欲をそそる匂いが室内に広がった頃、もぞもぞと動いた
柚螺は目を開けた。瞳は潤んで頬は赤く、その状態は時間がたっても直らなかった。
「ここのとこ寒い日が続いていますから、風邪をひいてしまったかもしれませんね」
八戒が熱を測らせ、食事をさせた後、薬を飲ませた。
素直に言うことをきいた
柚螺は懸命な笑顔でシチューの皿を空にし、またすぐに眠ってしまった。
一晩眠れば、と誰もが思った。
けれど、その日から
柚螺の熱はずっと下がらなかった。
三蔵は
柚螺の額から赤い頬に指先を移動した。同じ熱さも柔らかな頬のものはまた少し違って感じられた。
目を閉じたまま繰り返す荒い呼吸。
声を出せなくても空気を吐く音は聞こえる。
ひとつ、ふたつと数を数えていけば、その速さに心が逸る。
苦しい、のだろうか。
ここしばらく病気らしい病気をしていない三蔵は記憶を辿り、ある喧嘩が原因で受けた傷で発熱した夜の事を思い出した。あの時は熱よりもむしろ傷の痛みの 方が強く、勝った喧嘩が原因なだけにずっと平気な顔で通した。恐らく、身体の一部に燃える痛みを堪える方がつかみ所なく全身に回る熱に耐えるよりも容易 い。そして、
柚螺には熱以外の症状は見られない。寝顔の口元が少し歪むと、つい顔を覗きこんでしまう。
あのクソ医者。やっぱり藪だな。いらない手間隙ばかりかけやがって。
三蔵の瞳が怒りに煙る。
その時、
柚螺の瞼がゆっくりと動き、青い瞳に三蔵が映った。
『三蔵』
聞こえたはずのない透明な声と一緒に、少女はまた微笑もうとした。それが、胸にきた。
「・・・馬鹿。無理するんじゃねぇよ」
枕に広がった長い髪の一房を指で梳いてやり、三蔵は前髪を上げてそっと
柚螺と額を合わせた。
「下がらねぇな、熱」
柚螺の顔に広がった驚きの表情に、安心する。どうやら意識はまだちゃんとしているらしい。熱が先にお株を奪っているから目立たないが、
柚螺は今、顔を真っ赤にしたはずだ。
「何か飲むか?」
ミネラル水、果汁、スープ。
あまり冷たすぎてもいけませんから、と言って八戒は
柚螺の枕元に小さなテーブルをおき、その上に飲み物を並べて行った。
柚螺は申し訳なさそうに首を横に振った。その小さな動作にも眩暈を感じるらしく、慌てて目を閉じる様子は弱く痛々しかった。
「なら、眠れ。しばらくここにいてやる」
我ながら偉そうな言い方だと三蔵が思った時、
柚螺は目を瞑ったままそっと手を動かした。
これも、普段ならないな。
三蔵は存在の証を求める
柚螺の手に自分の手を重ね、触れた途端に逃げ出そうとしたそれを包んだ。
お前が触れるのもお前に触れるのも嫌じゃない。欲しいならいくらでもくれてやる。
それで少女が力を得、熱が少しでも下がるのならば。三蔵は自分の中に込み上げる感情に苦笑した。
柚螺が細く目を開いて、繋がった手を確かめたのがわかった。
確かに、普通じゃあり得ねぇな。
三蔵は所在のないもう片方の手をポケットに入れた。
「眠れ。俺が煙草を我慢できてる間にな」
柚螺は真面目にギュッと目を閉じた。
馬鹿。
三蔵は楽な姿勢で座りなおし、自分も目を閉じた。
病院へは、悟浄も行った。本当は八戒が行きたがったのだが、学校が試験前のこの時期に休みを取るわけには行かなかったし、八戒が休めば悟空も休んでしま うことは目に見えていた。
三蔵は病院が嫌いだ。
というより、この時代、病院と言う場所は金ばかり掛かる贅沢な場所だった。金があるものは最新機器で検査を受け、個室に入院し、余るほどの薬を貰う。金 がないものは昔からの知恵に頼った個人療法・民間療法に頼り、法律に縛られない薬に頼るしかない。悟浄は物心ついて以来病院の世話になったことはないし、 威圧感のある建物に足を踏み入れたこともない。だから、三蔵が病院嫌いであることも実感がないままただそんなものかと納得していた。
3日、4日と
柚螺の熱が下がらないまま時間が過ぎた。そのうち、八戒も首を傾げた。喉や鼻、頭・・・・
柚螺のそのどこにも風邪らしい症状が、そして他のどの病気らしい症状も出なかったからだ。
「熱だけ、というのは嫌な感じですね。どうしましょう、三蔵。ここはちょっとプロの手を借りた方がいいような気がするんですが。まさかとは思いますが、内 臓なんかがやられてると大変ですしね」
三蔵は舌打ちをした。
これが自分の身体のことなら、当然八戒の言葉を無視しているところだ。
だが。
「何なら僕が連れて行きますよ。あなたは病院が苦手だとおっしゃってましたし、僕の方は時々食べすぎやらダイエットやらで体調を崩した生徒達を連れて行く こともありますしね」
三蔵は布団の上にのっている
柚螺の白い腕を見た。
並んでいる2列の数字。2列目を持つものは、ナンバーズと呼ばれて何かと偏見を持たれがちだ。
柚螺を病院に連れて行くなら、多分利用できる手段は全部使う方が利口だろう。
「いや・・・いい。俺が連れて行く」
三蔵が言うと、八戒はやわらかく微笑した。
「はい。きっとこうなると思ってましたけどね。僕、本当はいそいで試験問題を作らなくちゃいけなくて、休ませてもらえる自信、なかったんです」
「・・・ったく」
三蔵はもう一度、舌打ちをした。
「じゃあ、まあよ、病院初体験記念ってことで、俺も行くわ。美人なナースのお姉さんとお知り合いになれるかもしれないし」
のんびりと笑った悟浄を三蔵はジロリと睨んだ。
悟浄は一節の口笛でそれを交わした。
「
柚螺、大丈夫だよな?な?三蔵」
ベッドの横に座り込んでいる悟空が
柚螺の顔を見ながら囁いた。その声は幼い頃の印象のままに三蔵の耳に響いた。
一体何度身分を証明するカードをスキャンされ、何枚のどれも同じように見える書類に文字を書き込まなければならないのか。
不機嫌丸出しな顔でカウンターに向かっていた三蔵は、振り向いて悟浄とその腕に抱えられるようにして座っている
柚螺を見た。
最初は簡単にいけそうに思えた。三蔵が出したカードをスキャンした受付の女は、病院という場所に似合わないほどの蕩けそうな笑みを浮かべ、1枚の書類を 渡した。それに記入を終えた三蔵は内心賭けのつもりで書類を次のカウンターに持って行ったのだが、そこにいた女は一瞬、顔色を変えた。
三蔵が書き込んだ2つの数字の列。その2列目が予想通り問題だったらしい。それからカウンターをいくつか堂々巡りさせられ、ひとつ通るごとに書き込まな ければならない書類が増え、三蔵の不機嫌度は最高潮に達した。
悟浄に抱えられている
柚螺の顔には不安と緊張があった。
ふぅ。
三蔵は短く息を吐いた後、再び書類に立ち向かった。
人を元気に治すどころか病気にしちまいそうな場所だな。
思った悟浄だが口にはせず、
柚螺の頭を引き寄せて撫ぜた。
「すげェ歓迎だな。VIP待遇ってヤツ?」
柚螺は頭を悟浄の胸に預けた。そうすると少しだけ安心できた。
本当は、怖かった。理由はわからない。ただ、漠然とした恐怖が心に湧くのだ。病院はどこかセンターに似た雰囲気がある場所に思えた。センターにはいい思 い出はない。数字で人間を管理する無機質な場所だ。
そして。
柚螺の中にはもっと深いところに拒絶を求める気持ちがあった。そこを覗こうとしても頑としたものに跳ね返される。触れようとするとなくした はずの自分の記憶にチクチクとパルスが送られる。
「どうした?」
柚螺の小さな身震いに気がついた悟浄は
柚螺の顔を見下ろした。時に言葉よりの雄弁な青い瞳はじっと三蔵の後姿を見つめていた。
「心配すんな。じきに戻るさ。あの三蔵が切れないでああやって我慢してるって事は、勿体つけてる医者もいずれはちゃんとお前を診てくれるってことなんだ ろ」
悟浄の予想は正しかった。
ただし、
柚螺が医者の診察を受けたのはそれから3時間後のことだった。
あの薮医者。
三蔵は口の中で舌打ちをした。
無駄で長い待ち時間の後に『診察』を担当した医者は若かった。恐らく三蔵よりさほど年長ではないだろう。そして、あからさまに偏見を抱えていた。
診察なのだから最初は待合室で待っていようと思っていた三蔵を診察室の中までつきそわせたのは看護士の顔に浮かんでいた強張った表情で、それは悟浄が夢 見ていた白衣の天使とは相当遠いものだった。
自分とは異質なものから距離をとって観察する目。
その目がどこから来たものかはすぐにわかった。若い医者の顔にそっくり同じものが浮かんでいたから。
三蔵は熱に小さく震える
柚螺の身体に右腕を回して支えていた。もしかしたらこの震えの原因は熱だけではないのかもしれない、と大きく見開かれている
柚螺の目を見て思った。
ただ立って待っている2人に医者も看護士もしばらく声を掛けなかった。勿論、指の1本でも触れようとはしなかった。
「・・・・こうやって突っ立ってるところを見るだけでどこが悪いかわかるのか。大した名医だな」
かすかな殺意までこめられた三蔵の低い呟きに、医者は顔を顰めた。
「検査をすることは、まあ、この病院では許されてはいますが・・・・」
曖昧な口調。逃げる視線。
三蔵は
柚螺を抱いている腕に意識して力をこめた。
「何もする気がねぇんなら、受付で突っ返されたほうがましだったな」
「ですが・・・・あなたのIDが・・・・」
「意味がわからねぇな」
見切りをつけるか。
そう決めかけた三蔵は背後に人の気配を感じ、すばやく振り向いた。
そこには静かな微笑があった。
「彼は、ナンバーズと呼ばれる人に会ったのはこれがまだ2回目なんですよ。この経験不足は本人のせいではない。看護士さんもまだ若くてピチピチだ。それだ け、普段とは違ったことへの対応も身についていない、ということです。ご理解くださるとありがたい」
小柄な老人が立っていた。白衣の姿と身分を証明するネームプレートからすると、医者のようだった。
「あんたはこの連中とは違うと思っていいのか」
ジカク、という名前を読み取りながら、三蔵は医者を睨んだ。
「長く生きてきた分、少しだけ世慣れているところはお見せできると思いますがな」
ジカクは身振りで隣室を示し、先に立って歩いた。中は同じような診察室だったが、看護士の姿はなかった。
寝台と椅子が2脚あったが、ジカクはそのどちらも示さなかった。
「とにかく血液検査だ、という判断はこのお嬢さんの場合、正解でしょうな」
ジカクは皺が見える手を伸ばし、
柚螺の額に触れた。
柚螺は大きく身震いした。
その
柚螺に笑いかけ、ジカクはそっと
柚螺の頬を撫ぜた。
「大丈夫。お嬢さんにはこんなに頼もしいお連れがいらっしゃる。そのまま支えてあげいてくださるか、お若い方。多分、お嬢さんはこれがかなり苦手じゃろう からな」
ジカクの手は落ち着いた動作で透明なパックを破り、針がついた短いチューブを持った。
三蔵は
柚螺の身体が大きく震え、一瞬逃げ出そうとするのを感じた。
「
柚螺?」
腕をゆるめかけた三蔵を視線で制し、ジカクは穏やかに微笑した。
「さあ、ちゃんと支えてあげてくださいよ。お嬢さん、あんたは少しだけ我慢しなくちゃならん。あんたはこのために今日、随分長いことこの建物の中で待って いたんだし、同じ時間だけあんたを心配してる人をつきあわせてきたのだからな。・・・・よいか?あんたの血をわしはけっして悪用したりはしないし、この建 物の外に出しもしない。あんたの身体の状態を知って、楽になる方法を探したいだけじゃ」
ジカクの言葉の意味の半分は三蔵にはわからなかった。恐らく
柚螺も同じだろう。だが、その言葉と声には静かな説得力があった。
柚螺の身体はさらに大きく震え出したが、それでも左腕を差し出そうと動かす意志が他の2人に伝わった。
「じゃあ、さっさと済ませてしまおうかの」
細い腕に針先が触れた時、
柚螺は目を瞑って顔をそむけた。
三蔵はただ細い身体を抱き、熱と恐怖を受け止めていた。
ジカクは正確にチューブに赤い血を満たし、すぐにそれを持ったまま奥に消えた。低い声で交わされる数語の会話が漏れ聞こえ、ひとつの足音がさらに奥に消 え、ジカクは笑顔を見せながら戻ってきた。
「さあ、もうゆっくりできるじゃろう。お嬢さんはそこに横になったらいい。つきそいのあんたは、ああ、もうそんな怖い顔はやめて、椅子に座りなさい。検査 の結果はすぐにくる。特別の超特急扱いじゃ。怖がらせてしまったからのぅ」
三蔵は
柚螺を寝台に寝かせ、椅子を近くに移動させて座った。腕の中の熱がなくなり、不思議とそれを虚ろに感じていた。
「・・・・他に診察はしないのか?」
ジカクは腕組みをした。
「格好つけるのにフリをしてもいいんじゃがな、それも必要ないと思われる。あんたが書類に書いたお嬢さんの様子はかなり詳しかったから十分参考になった。 それと・・・・お嬢さんの特殊な事情を考え合わせると・・・・まあ、わしの頭の中にはひとつの結果が見えておる」
「それは?」
「まあ、今は待ちましょう。医者はいたずらに憶測でものをいう訳にもいかない商売じゃ。ああ、外にもう一人いる赤い髪のお連れさんも入ってもらって構いま せんよ。わしはちょっと椅子をもうひとつと飲み物でも持って戻りますからな」
ジカクの行動は予想よりも素早く、三蔵が悟浄を連れて来た時には、すでに笑顔で4つのグラスに液体を注いでいた。
悟浄はまっすぐに
柚螺のそばに行き、顔色を確かめると肩の力を抜いた。
見上げる
柚螺もまだ少し弱々しくはあったが、微笑んだ。
それから漸く悟浄は部屋の中をぐるりと見回した。
「・・・・なに、このジイさん。医者か?」
ほっほっほ・・・と聞こえる笑い声を上げ、ジカクは悟浄にグラスを渡した。
「一応、人生の半分以上は医者と呼ばれてきましたがな。特製ブレンドの冷茶をお試しくだされ。疲れをどこかに飛ばしてくれますぞ」
「確かに喉がカラカラに干からびちまったよな〜。ほれ、
柚螺。飲めるか?」
柚螺を抱き起こしてグラスを口にあててやっている悟浄を眺めながら、三蔵は椅子に座った。
「お役目交代、ですか。残念じゃな」
「・・・・何のことだか」
「いや、ただの老人の戯言じゃ。だがなぁ・・・・・なあ、あんた、ちょっとわしに腕を見せてくださるかの?」
穏やかな微笑しか見えないジカクの目。
三蔵はその目を覗いた。
「何のために。言える理由、あるのか?」
ジカクは顎髭をさすった。
「・・・・好奇心と予感、といったところじゃが。お嬢さんにも言ったが、わしは今日知ったことをどれも他の人間に知らせたり悪用したりしようとはこれっぱ かりも思ってはおらん。ただ・・・・これまでに自分の目で見て頭で考えてきたことを確認して先に進めるデータを、少しばかり欲しいだけじゃ」
ジカクの目の中に揺らめく光。それは真摯で正直者のそれにも見えたが、一方でやはり謎めいていた。
「・・・・あんた、ナンバーズをどう思っている」
紫暗の瞳が深く沈み、老人の目に悲哀がよぎった。
「哀れな幼子たち・・・・そう思っとるよ。恐らくこの感情はこれからどんな新しいことを知っても変わらんじゃろう」
「意味ありげ、だな」
「まあ、これもどこまでも老人の憶測というか邪推に過ぎんがの」
三蔵は溜息をつき、左の袖を捲くった。
「もう片方もこれと同じだ。俺には何のしるしもねぇよ」
ジカクの髭が震えたように見えた。
三蔵の顔、
柚螺の顔。両方をゆっくりと往復したジカクの目に感情が満ち、すぐに消えた。
「どうした?」
別に興味はないが。
そんな三蔵の表情にジカクは笑った。
「いつかお前さんに話すことがあるのかのう。また会うことがあるのかどうかも、今はわからないがな」
ジカクの声の中に潜む追憶。それを感じながら、三蔵はそれ以上何も言わなかった。
結局、バランスが崩れているのだ、と言うのがジカクの診断であり結論だった。
そんな曖昧なもので終わりか、と噛み付く悟浄にジカクはとらえどころのない笑みを向け、あと数日待つように告げた。
「心穏やかに必要なだけ眠り、食べ、呼吸できるようにしてやるんじゃ。身体の中で起きている変化は・・・・・崩れたバランスは少しずつ落ち着いている。今 はただ、待つんじゃ」
老人の言葉にはもしかしたらいろいろなものが含まれていたのかもしれない。だが、それは追求せずに三蔵と悟浄は
柚螺を連れて帰った。病院という場所と
柚螺の相性は最悪だ。それがわかったからにはもう用はなかった。
お前が病院嫌いになった理由がよ〜っくわかったぜ。
そう言い残して悟浄は『仕事』に出かけていった。あれだけ待ち時間があったにもかかわらず、どうやらひとつのメアドも手に入れられず、それどころか1人 の看護士にも話しかけずに終わったらしい。
三蔵は椅子をさらにベッドに寄せた。
触れている指先に伝わる温度が、いつの間にか少しだけ下がったような気がした。
錯覚かもしれない。
今はただ待てと言ったあの老人の声が蘇り、三蔵は椅子に深く身体を預けた。
待つことは苦手だ。これが己のことならば、ただ怠惰に目を閉じ気だるい時の流れに身を任せているだけでいいのだから、もしかしたら得意かもしれないのだ が。ただし、自分が熱を出していることが誰にもバレていない、という条件つきで。
『三蔵』
呼ばれた気がして身体を起こすと、
柚螺が目を開けていた。
青い瞳。
三蔵は黙ってそれを覗いた。
高熱と疲労、伝えたい言葉・・・・恐らくそんなもので少女がいっぱいいっぱいなのがわかった。
なぜか反射的に微笑んでいた。
「焦るんじゃねぇよ。ただ食って眠ってれば元通りになるってあの医者が言ってたろう。煩い猿が帰ってくる前に、できるだけかせいでおけ」
元通り。
自分が言った言葉が内心ひっかかった。
バランスの崩れ。変化。老人が言った言葉には『元に戻る』というニュアンスはなかった。現状から進んだ先に待っているもの・・・・それは果たして何なの だろうか。
三蔵の手が
柚螺のそれを包みなおした。
不思議そうな顔をした
柚螺は、すぐに恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「起きてるか?眠り姫」
「いえ・・・まだみたいですし、一人増えちゃったようですよ、眠り・・・王子でしょうか」
「え、俺、2人の寝顔、見てェ!」
「ほら・・・・ここから見える分だけで我慢してくださいね、悟空。邪魔するにはちょっと勿体無い感じですから」
「まあ、確かに眠ってればアレだけどよ。けど、似合わねェな〜、『王子』って。あんな物騒な王子、いてたまるかよ。きっと罰であっという間に魔女に魔法か けられちまうな」
「あ!魔法でカエルにされてた王子っていたよな!」
「・・・・2人とも命知らずですねぇ。知りませんよ。三蔵、ああ見えて多分、今の眠りは浅いですよ。なにせお姫様を守る王子様のポジションですからね」
「あのなぁ、最初にあいつのこと王子って言ったのはお前じゃねェか、八戒!」
「ちょっと抵抗ありましたけどね」
なにをゴチャゴチャ言ってるんだか。
三蔵は目を閉じたまま無視することに決めた。制裁は後からで十分だ。今は、静かな時間が少しでも長く続けばいい。
傍らで小さく動いた空気に、
柚螺も半分目覚めていることを知った。どうやら3人の馬鹿な会話を邪魔する気になれず、ついでに楽しんでいるらしい。恐らく、まだ眠ってい たい気持ちも強いのだろう。
「眠れ、できるだけ」
口の中の呟きは伝わっただろうか。
ひそひそ話で妙に和んだ空気の中で、やがて少女は規則正しい寝息をたてはじめた。
チューブの中で揺れていた赤い血液。その残像が一瞬三蔵の頭に蘇り、ゆっくりと薄れていった。
今は、ただ。
足を組みなおした三蔵の口から欠伸が漏れた。
見えない先を考えることに意味はない。
どんな可能性もそれが現実になって目の前に現れるまで認めない。
三蔵の意識は徐々に沈んだ。その中で最後に見たのは、やわらかに微笑みながら頭を下げた金色の髪の男の後姿だった。