窓から差し込む日光の温度とエアコンが吐き出す冷気。それが自然と攪拌されていつのまにか心地よい昼下がりにふさわしいやわらかな空気になっている。
のんびりと床に座り込んで一面に広げた譜面の整理をしていた
柚螺はふと、視線を上げた。ほんの少し振り向けば視界に入ってくる三蔵の組んだ足。さらに首を動かすと新聞を持つ三蔵の手が見える。ボタン を外したままの袖口から覗いている手首とその続きの数センチ。いつだったか見た記憶がある三蔵の腕は・・・あれは夢だったのだろうか、と考える。それは時 折、こんな風に静かな時間に心の中で浮上してはまた沈む、一枚の写真にも似た光景となって記憶されている。
「・・・どうした。順番がわからなくなったか?」
言いながら三蔵は内心慣れない感覚の新鮮さを感じる。声を失っている
柚螺は本当に必要な時でもない限り端末を開いて言葉を打つことはない。それよりもふとした仕草や視線と表情が雄弁に何かを語ろうとしている 気がして、思わず三蔵の方から声を掛けることがある。そのことに慣れないのだ。普段は人から話しかけられることの方が断然多い。そして必要最低限以上を返 事として返すことに煩わしさと時には苦痛を感じる。最もこの部屋にいる時は例外かもしれないが。
柚螺は慌てて首を横に振った。八戒に音符を読むことを習ったので手書きの譜面を揃えながら一枚ずつじっくりと音を辿るのはとても面白かっ た。まだ一つずつゆっくりとしか読めないが、それでも書かれたものが頭の中で音に変換されるのが楽しくてしかたがない。中にはDaybreakのライブで 聴いたことがある曲のものもあり、そんな時には音は三蔵の歌声で再生された。
「おかしなヤツだ」
三蔵が煙草を1本振り出した時、袖がおおきく捲くれ上がった。思わず剥き出しになった腕に視線を吸い寄せられた
柚螺の顔を見て三蔵は納得がいった気がした。
「覚えていたのか、俺の腕を」
血まみれだった細い身体を抱き上げた時、薄く目を開けた
柚螺は不思議そうな顔をして三蔵の腕に指を触れたのだった。三蔵の腕にあの時の
柚螺の身体の重さとあたたかさが蘇った。表面は冷え切っていたのに触れてみると中から熱を放っていた肌。あれは恐怖と怒りで波打った心の内 が現れていたのだろうか。
三蔵はゆっくりと左右両方の袖を捲くった。
「・・・予想通りだろ」
柚螺は瞳を見開いて三蔵の腕を見た。
そこには、何もなかった。10桁の数字も、他のどんな文字も。
「赤ん坊の時から何もなかったそうだ・・・・俺を拾った人間がそう言っていた」
ということは・・・
見上げる
柚螺に三蔵は小さく頷いた。
「俺は生まれたときからどこにも記録されていない人間だったということだ。その理由とか意味は今でもわからねぇがな」
柚螺は自分の袖を捲くってそこに記された2列の数字を見た。生まれたときにはどこかに記録された存在だった証拠のはずの一列、そして今はそ の記録がどこにも見当たらないことを示すもう一列。
「変則的なのはお互い様、ということだ」
細く煙を吐いた三蔵は煙草を反対の手に持ち替えた。
柚螺の髪や顔に煙があたらないように。理由を読み取った
柚螺は小さく微笑んだ。その顔を見た三蔵は少しだけ視線を動かした。
「・・・そう言えば八戒がお前と一緒に食えとか言って馬鹿げた量の菓子を置いていったが・・・食うか?」
まるで
柚螺が悟空であるかのような山盛りの手作り菓子。
理不尽な理由で停学処分を受けた少女を少しでも喜ばせるために。夜中も聞こえていた隣りの部屋のゴソゴソいう音は、混ぜ、こね、焼いて飾っていた八戒の 気配に違いなかった。その同じ時、反対隣の部屋からは物音一つ聞こえなかった。その静けさがかえって少女の心の痛みを伝えてくるようで、悟空は完全に眠り につくまでひたすら
柚螺のことを心配していた。
今、
柚螺の顔に浮かんだ笑みは昨夜の不器用で硬いものとはまったく違っていた。三蔵が立ち上がるとすぐに後について来るその姿がどこか悟空に似 ている気がして三蔵は口角を上げた。
「八戒からコーヒーの淹れ方を習ったんだったな」
三蔵の言葉に
柚螺の顔がさらに明るくなった。そのままでは運びきれない大皿の菓子を別の皿に取り分ける三蔵の隣りでいかにも張り切った様子で湯を沸かし はじめた。三蔵と視線を合わせると頬を染める癖はなかなか直らないようだが、どうやら放浪猫に似た空気はすっかりどこかに消えたようだ。そのうち日向で丸 くなって喉を鳴らすようになるのかもしれない。まだまだぎこちない手つきでコーヒーをセットする
柚螺を三蔵は黙って眺めた。 きっと今頃悟浄はその学校とやらのトップの人間に思い切り噛み付いて相手をあたふたとさせているだろう。
悟空もきっと大人しくはしていないに違いない。
八戒は雇われているという弱い立場を最大限に利用して逆に細い隙間からチクチクと効果的に攻撃しているはずだ。
きっとそのどれもが
柚螺にとっては後で逆の効果になってまたわけのわからない処分を下されてしまうかもしれないが。それでもその教師たちは少なくとも理解はし ただろう・・・
柚螺には子煩悩な親も真っ青の保護者たちが後ろについているいうことを。正真正銘の保護者である三蔵は・・・八戒のあの言葉で留守番役に決 定されてしまったのだが。
『いけません、三蔵。あなた、思い余って校舎を壊しちゃったり銃で震え上がらせたりしちゃいそうです。
柚螺のためには犯罪を犯すわけにはいかないですよ。仕方がないからあなたには一番おいしい役目をあげます。
柚螺とお留守番しててくださいね。あなたがそばにいてのんびりしてるだけで
柚螺はきっととても元気になりますから』
言いながら八戒は何となく嬉しそうではなかったか。三蔵にはその理由はわからなかったが。
いつの間にかコーヒーの香りが漂っていた。
熱くて濃い色の液体を慎重にカップに注ぐ
柚螺の顔は真剣そのものだった。
こいつは見た目よりも強い。
三蔵は確信した。そして思った。いつか・・・時間を重ねて様々な表情を見た後に来るものは。
『三蔵』
柚螺の笑顔から声が聞こえた気がした。
細くやわらかく心地よい声だった。