通ったことのない裏路地に入ることになったのはある人間を見たと思ったからだった。
漆黒の髪、瞳、衣類。
その人影を見た時、
柚螺の耳には温かみのない笑みと感情を見せないわざとらしい話し方が蘇った。その男に関する記憶はあまり良い終わり方をしていない。だから 反射的に足の運びが速まり、あの姿を見なくても済むように、そしてこちらを見られないために知らない角を曲がった。
その通りには見るからに狭そうな店が隙間なくびっしり立ち並んでいるように見えた。薄い夕闇の中ガラス窓から漏れ出す灯りが明るく見える時分になってい た。思わず振り向いて背後を確かめた
柚螺は来た道に戻る気にもなれず、そのままゆっくりと足を進めた。聞こえてくる嬌声と蛮声。ここにいることがどうやらおよそ場違いらしいこ とはすぐにわかった。それでも戸惑いながら進むしかないように思えた。
「何かご用かな?見かけない顔のお嬢さんだ」
一軒の店の戸口からゆらりと姿を現した男が
柚螺に微笑みかけた。その笑っている口元に対して目には油断のない鋭さが漂っているのを見て
柚螺は足を止めた。
「どうした?まるで口がきけないみたいじゃないか」
一歩近づいた男は自分の言葉に対して
柚螺の顔に浮かんだ表情を見て首を傾げた。それから黙ったままの
柚螺の視線にひとつ頷いた。
「冗談にならなかったわけだ。そういう事情のおまけにどう見ても素人娘のお嬢さんがここで何をしてる?ここはあんたみたいな人種は取って食われても文句を 言えないところだぞ。表通りとは大違いのな」
男の目の厳しさの裏に見えた気がしたものは何だろう。
柚螺は恐怖と一緒に何か別の感情に捕らわれてただその場に立ちつくした。
「待てコラ!うちのレディになに気安く声かけてやがる」
背後から流れてきた声の響きが一瞬で
柚螺の心の膠着を解いた。振り向くと足音高く歩み寄った背の高い姿が
柚螺の隣りに立ち、そっと肩に触れた。流れる赤い長髪。どこか相手を挑発するような視線。悟浄は
柚螺に短い微笑を向けた。
「お前の知り合いか、悟浄。妹・・・・ではないな。似ているところがまったくない」
「るせぇ。実の妹以上だよ。この子に手を出そうとするヤツは先ず俺が相手をすることになってんの。ついでにあと何人か俺より物騒な保護者がついてるがな」
「・・・かなり大切な身内のようだな」
「わかったらとっとと自分の店に引っ込めよ。俺はこの先に用があるだけでお前には何の用もないんだからよ」
「・・・そうか」
一歩身体を退いた男はなおも悟浄から目を離さなかった。悟浄も男と視線を合わせたまま
柚螺の身体を抱えるようにして前に歩いた。
「・・・悟浄」
すれ違いざまに悟浄の名を呟いた男の声には深い感情が篭っているように聞こえた。しかしそれを耳にしたはずの悟浄は何も答えずに男の横を通り過ぎた。や がて数軒の店の前を通り過ぎると、悟浄は
柚螺の身体に回していた腕を外した。
「こんなところでどした?そっか、バイト頼まれたんだったな、またあの工場の」
先日2週間ほど経験した初めての仕事。
柚螺がその工場の職長から病気で休んだ従業員の穴埋めを頼まれたのは昨夜のことだった。
「大丈夫か?この辺は表と裏の真ん中くらいの商売店が並んでるんだ。近づいちゃダメだぞ。気のいいやつもいるがタチの悪いやつもごろごろしてるからな」
柚螺はようやくゆっくりと呼吸した。ずっと緊張し続けていたためか身体に疲労感が残っていた。
悟浄は
柚螺の顔を覗き込み、頭を撫ぜた。
「んじゃ、帰る前にちょっとだけ美味いもの、飲んでくか?あそこの店ではわりと健全な部類の博打場がいつも立っててな、酒も美味いが女性客用のスペシャル ドリンクがあるのよ。絞りたてのフルーツジュースに手作りアイスをトッピング!評判いいぜ。前にうちの猿を連れてきた時なんか、あいつ、10杯も飲みや がってよ。おまけに三蔵にアイスだけおみやげだっつって走って持って帰るハメになったの」
その光景を想像した
柚螺の顔が綻んだ。悟浄は口角を上げて一軒の店のドアを開けた。
「あ〜、悟浄〜!」
「いらっしゃ〜い、悟浄!あら何、今日はすっごく可愛いお連れさんね。妬いていいかしら?」
「ね、ね、カードでもやってく?奥のテーブルね、今、ちょっとつまんない勝負になってるのよ。あんたが入ってくれたら応援のしがいがあるんだけどな」
押し寄せる艶やかな声と甘い香り、色鮮やかな衣類を身につけたしなやかな身体に
柚螺は驚いて目を丸くした。女たちの全員が悟浄の名前を知っているようだった。そして好意を持っているらしいことが感じられた。
「悪いな、今日は店じまいして来た。あのさ、この子にとびきり美味しいアレ、飲ましてやってくれない?ちょっと怖いことがあったみたいでさ。元気出させる なら美味いもんに限るっつぅか」
「あら、可哀想。さあ、お嬢ちゃん、こっち来て。今すぐに作ってあげるからね。一番大きなグラスで飲ませてあげる」
一人の女が
柚螺の手を引いてカウンターに座らせた。
柚螺は女の手を見た。綺麗に塗られた爪に隠れて見えないが触れた指先の皮が厚くなり荒れているのを感じた。商売用の笑顔の中で口元に浮かん でいる一筋の線。その線がやわらかく曲線を描いた時、女のあたたかさを感じた。派手な色に着飾り爪を染めて笑顔を浮かべ、懸命に生きている人間の手と表情 だ。
柚螺が小さく微笑すると女は笑みを深めた。
「いい子ね。悟浄が連れてきたんだから、当たり前か。前に連れてきた男の子も最高に可愛かったもの」
悟空のことだ。何となく嬉しくなった
柚螺の視線に女は笑った。
「可愛いし胃袋が底なしの子だったわね〜。あんまり美味しそうに飲んで食べてくれるもんだからついついお代わりいっぱい作っちゃったけど、あの後お腹を壊 したりしてないかしらって心配だったのよ」
柚螺は笑顔で首を横に振った。女は一瞬だけ真面目な表情を浮かべた。
「あなた、声が・・・。ふふ、でもいいわよね。これから最高に美味しいものを飲み食いできるんだから」
ふと、
柚螺は不思議な気持ちになった。さっき外で会った男もそうだったが、この女も
柚螺が声を失っていることにすぐに気がついた。そして二人ともその事に対して特に同情を見せるわけでもなく当たり前のこととしてすぐに受け 入れた。それは不思議であると同時に気持ちを楽にしていた。そう言えば初めて会った時の三蔵たちもそうだった。学校や工場ではどちらかと言えばその反対な のだが。
女は背の高い大ぶりのグラスに砕いた氷とリズム良く絞った果汁を注ぎ、そこに作り置きしておいた冷菓をたっぷりとのせた。
「さあ、どうぞ」
「お、こりゃあなかなかのモンだな」
カウンターの向こうに立つ女と隣りのスツールに腰掛けた悟浄の二人に見守られながら
柚螺はスプーンで掬った最初の一口を静かに口に入れた。冷たさと甘さ、深い香りが口の中に広がった。少女の顔に浮かんだ喜びを確認した悟浄 は女と顔を見合わせて笑った。
「ところで・・・ねえ、悟浄、あなた・・・白怜のこと・・・どうするの?」
はくれい。女性の名前だろうか。
柚螺は悟浄の横顔を見上げ、そこに見た厳しさに驚いた。
「関係ねぇよ。俺はただ・・・時々あの店の客になることがあるだけだ。カードやって麻雀やってよ、美味しく酒飲んでお前らと騒いでんのが一番性に合うの さ。今はこの子を守る王子様だしな」
厳しさはすぐに通り過ぎ、悟浄はいつものように笑った。その笑顔から・・・
柚螺はなぜかしばらくの間目を離すことができなかった。