fever 2

 港の中の倉庫街。片隅の一つからリズミカルな打音が漏れていた。それに続いて正確に奏でられた旋律が空気を揺らす。低く震えるリズムが重なって深みを増 す。聞こえる3種類の音の中、とっくに傾きはじめたはずの太陽が建物の塗料に湯気をあげさせてそうな日差しを送り込んでいた。
 三蔵たちが練習に使っている小ぶりな倉庫には空調設備がない。窓はあるが練習中は外に漏れる騒音対策に閉め切ってしまう。なのでこの時期の練習中の温度 は目にしたくもない数字にはねあがる。 柚螺には日課がひとつ増えていた。前の晩から作っておいた大きな氷を保冷容器に入れて倉庫まで持って行くこと。いくら専用の容器に入れても 時間が経てば溶けて行くので、毎日走って駅まで行ってチューブに乗る。
 その日、準備を終えた 柚螺が部屋を出ようとするとほとんど同時に隣りの部屋のドアが開いた。
 三蔵。
 咄嗟に笑顔が出るほど器用ではないので瞳を大きくしたまま見上げると、三蔵は 柚螺が持っている容器を見下ろした。

「暑いな・・・乗っていけ」

 三蔵の車に、という意味だとわかったのは先に立って階段を半分ほども下りた三蔵が 柚螺がまだ動けずに同じ場所に立っていることに気がついてゆっくり手招きした時だった。

「・・・外に出しとくんじゃなかったな」

 呟いた三蔵の視線の先には日向に止められている赤い車があった。
 ドアを開けると確かに熱い空気が流れ出した。仏頂面で乗り込んだ三蔵はエンジンをかけてルーフを開けた。ハンドルは触れる気がしないほど表面が焼けてい るだろう。

「・・・乗れ」

 助手席側のドアを押し開けた三蔵はおっかなびっくりといった感じにゆっくりとシートに座った 柚螺を眺めながら無造作に後ろ髪をひとつに縛った。そうしているうちにも額から汗が滲むのがわかった。不快感に唇をゆがめたが、何となく見 たことがある表情を浮かべた 柚螺の視線を感じて表情を消した。そう・・・見覚えがあると思ったのは悟空が時々見せる同じような顔を思い出したのだ。何かの拍子に視線を 感じて振り向くと決まってそこにある悟空の顔。悟空の場合はそれから照れたように一人笑いをするのが常だが。
 首の後ろで髪をまとめる三蔵の手の動きと三蔵の横顔は 柚螺の目に違った印象を与えた。それを表現する上手い言葉が浮かばないままいつの間にか見とれていた。陽光に負けずに輝いている三蔵の髪。 柚螺はそれがとても好きだった。

「シートベルト、しろよ」

 三蔵はゆっくりと車を発進させた。風を受けた 柚螺の黒い髪が後ろになびいた。

「・・・最近、何か悟浄のことで気がついたことがあるか?」

 突然の問いに 柚螺が目を丸くすると三蔵は小さく頷いた。

「ないなら、いい。忘れろ」

  柚螺は何か三蔵に伝えたい気がした。けれど具体的な言葉は浮かばなかった。あの日、裏路地で会った男と悟浄の間に感じた不思議な空気。一度 だけ耳にした女性の名前。はっきりと伝えられることはまだ何もなかった。ただ、印象的な場面と横顔が頭の中でフラッシュして消えた。




「あ、三蔵!」

「よかった、 柚螺、一緒だったんですね。今日の暑さはここ数日では一番だから大変だな、と話してたんですよ」

 倉庫のシャッターを開けて三蔵と 柚螺が入っていくと思い思いの場所で暑さを恨んでいたらしい3人が顔を上げた。

「ほれ、氷貸して。これを放り込めば水もシャキっと生き返るっつぅもんだ」

 見れば悟浄も長い髪をポニーテール風にひとつに縛っている。思わず自分の髪に手を触れながら見上げる 柚螺に悟浄はやわらかい笑みを向けた。

「何、 柚螺も髪、上げてみっか?色白だから綺麗な首筋に俺、クラクラしちゃうかもな」

「あ、待って待って!ちょっと俺にやらして?んでさ、悟浄、ゴム貸して」

 張り切っているらしい悟空が駆け寄り、 柚螺の髪を手で梳いた。

「おい、こら、猿!責任持ってちゃんと可愛くしろよ。不細工な縛り方したら許さねぇからな!」

「だ〜いじょぶだって!今日、ちゃんと教わってきたんだからさ。ただ縛るんじゃなくてこっちの方が絶対 柚螺に似合うと思うんだ」

「ふふ。悟空、一生懸命ですね」

 丁寧に指で梳いた髪を三つに分けている悟空と恥ずかしがってちょっと俯いている 柚螺・・・二人の横顔を眺めながら三蔵は煙草を咥えた。

「ああいう二人にやっぱり弱いでしょ?三蔵」

 囁いた八戒の前で三蔵は火をつけてゆっくりと煙を吐いた。

「そういうお前はどうなんだ」

「可愛いと思いますよ、二人とも。それに・・・今日はちょっと他にも気になって・・・」

 二人は同時に悟空の手元を監視している背の高い後姿に目を向けた。

「具体的に何かあったか?」

「いえ・・・やっぱりただ何となく、というだけなんですけどね」

 三蔵は八戒の顔に視線を移した。
 一つ部屋の同居人を見守る八戒の顔にはどことなくいつもより余裕が足りないように見えた。この1週間ほどの間感じ続けている違和感のようなものを八戒は 恐らく三蔵よりももっと強く受け取っているだろう。八戒の表情に剥き出しになって見える繊細さ。これほど防御が薄くなっているのは珍しい。

「不思議な人ですね、あなたは」

 見れば、八戒はその表情に露になりかけていた何かを微笑で隠し終わっていた。

「何が」

「尊大で無愛想で生きた凶器みたいな感じがするときもある人なんですが」

「・・・喧嘩を売ってるようにしか聞こえねぇが」

「ふふ、違いますよ。誉めながらちょっとだけはぐらかせたらなぁと思いまして。その仏頂面の下でいろいろなものを見て取ってしまうあなたのことを」

「・・・フン」

 三蔵が視線を外すと八戒は微笑をやめて真面目な表情を浮かべた。

「でも、三蔵。確かに何か・・・ある気がするんですよね。そして、見えない流れの中に 柚螺も入りかかっている気がしてちょっと心配なんです」

 二人が揃って少女に目を向けたとき、悟空が満足気に手を大きく一つ叩いた。

「で〜きたっと!」

「お、なんだ、なかなかどうしてヤルじゃねぇの、お猿ちゃん。似合ってるぜ、 柚螺。鏡がねぇのが残念だな」

 悟空は 柚螺の髪を二つに分けて三つ編みにしてからクルクルと巻きながらひとつにまとめ上げたのだった。細くてしなやかな首とうなじの肌の白さが涼 しげな印象を目に与える。

「ああ、ちょっと印象が軽くなって涼しそうですね〜。素敵ですよ、 柚螺。悟空、頑張りましたね」

「へへっ。なぁ、三蔵!すげぇだろ〜」

 内心恐れていた通りに悟空がぶつけてきた直球な問いに、三蔵の眉間の皺が深くなった。その表情を誤解したらしい 柚螺の頭が少しだけ俯いた。言葉が浮かばないままさらに三蔵の皺が深くなったとき、悟浄が笑った。

「お〜お〜、三蔵ちゃん! 柚螺の可愛さに感動して言葉も出ねぇって顔してやがる。どうせならもうちっとわかりやすい表情してみやがれっつーの。その顔、怖ぇよ!」

「・・・ほっとけ」

 一気に穏やかな空気が広がった。

「おや、否定はしないんですね、三蔵。良かったですね、 柚螺。三蔵もあなたの髪、気に入ったみたいですよ」

「三蔵、誉めるの下手だからな〜。怒るのは上手いくせにさ!」

「・・・うるせぇんだよ、お前ら」

 そっぽを向いてしまった三蔵と顔を赤らめた 柚螺を囲んで笑い声が響き、賑やかさがしばらく続いた。
 その中で 柚螺はそっと悟浄の顔を見上げた。
 その 柚螺の様子を三蔵と八戒の目が静かに見ていた。

2006.8.27

Copyright © ゆうゆうかんかん All Rights Reserved.