その日は昨夜から続いている雨が降っていた。
三蔵が無口なのは普段と同じで、時折悟空と
柚螺が交代でそっと送る視線を無視するのも同じ。だからその身体の周りの空気の色が少しだけ違って感じられることを除けば特に目立つものは ないと言える。
それに比べて目立つのが八戒を取り巻いている静けさだった。
いつも笑顔で悟空や
柚螺に語りかけながら朝食の準備をする八戒がずっと口を閉じたままでいる。その横顔にも後姿にも悟空と
柚螺に手伝うことを許さない雰囲気がある。
悟空が食事を運ぼうかと伸ばしかけた手を引っ込め、
柚螺が立ち上がってからまた座ったその時、三蔵はようやく八戒の方に視線を向けた。
「帰ってねぇのか・・・あいつは」
質問というよりは確認するような三蔵の声に八戒は最初返事をしなかった。
が、皿をすべてテーブルに並べてしまうとカップを手にとってコーヒーを注ぎながら曖昧な微笑を浮かべた。
「・・・こんな天気の日を選ばなくてもなぁ、とか思ったりしますよね」
柚螺にはその言葉の意味は分からなかったが、三蔵と八戒が雨を好きではないことには少し前に気がついていた。
三蔵は煙草を咥えかけてからテーブルを見てやめ、その一本を軽くテーブルの上に転がした。
「余裕がねぇってことだろ。あいつの方が」
まだ帰ってきていない悟浄。
柚螺にはそのことの意味もやはりあまりよく分からない。だから八戒が何を心配し三蔵がなぜ珍しい口調で八戒に話しかけているのかもわからな い。わからないけれど黙って首をかしげながら二人を見ている悟空の真剣な表情に、二人の声音に気持ちをぎゅっと掴まれる。その胸が締め付けられる感触が一 番強くなった時、
柚螺の右手は三蔵の服の袖に伸びていた。その気配を感じたらしい三蔵が反射的に動かした腕が
柚螺の手を振り払う形になったのは偶然だったのかもしれない。けれど
柚螺の心はその動作の意味をストレートに感じ取った。
「あ・・・」
「三蔵!」
重なる悟空と八戒の声は聞こえていなかった。ただ後悔のみがあった。
雨が嫌いな三蔵。
他人に触れられるのが嫌いな三蔵。
分かっていたはずなのになぜ手を伸ばしてしまったのか。
立ち上がった
柚螺は慌てて服のポケットを探った。もしも声が出たらすぐに謝ることができただろう。けれど今の
柚螺はその言葉を三蔵に伝えるまでに端末を引っ張り出して電源を入れ、それから指で一つずつキーを打たなければならない。だから指先に触れ た端末を出して画面を開いて・・・・
俯いた
柚螺の動作が止まった。
込み上げるものを零してはいけないという焦りとともに勝手に気持ちが追いつめられる。
「「
柚螺!」」
外に、雨の中に駆け出して行った姿に叫びかけた二人は振り向いて三蔵を見た。
「・・・なんだ」
「なんだ、じゃなくて、追いかけてください、三蔵!」
「・・・あいつも馬鹿じゃない・・・すぐに戻るだろ」
「三蔵が行かねぇんなら俺、行く!」
「待ってください、悟空。ここはやっぱり・・・・じゃないと
柚螺、きっととても困ってしまいますからね。三蔵、あなたには言わなかったんですが・・・・もちろん
柚螺も誰にも言ってないでしょうが、ここのところ・・・あの子はあまり学校でうまくいってないんですよ。ナンバーズには偏見が集まりやすい 上に
柚螺は悟空と違って自分の気持ちをすぐにその場で伝えることができないでしょう。子どもの世界でも大人の世界でも自分よりも弱く見える相手 に日頃の鬱憤をぶつける愚かな人はいるもので、嘆かわしいことに前に
柚螺を停学処分にした教師もいろいろ絡んできましてね。
柚螺は僕たちとの時間を大切にしてくれていてちゃんと心のバランスをとっているように見えますが、でも、それはとてもギリギリのところで保 たれているんだと思うんです。だから・・・いろいろ分かりながらもどうしていいかわからくなったんですよ、多分」
ギリギリのところでバランスを保つ。その言葉が八戒の口から出ると真実味が増す。それは雨の日の八戒自身にも同じ気配があるからかもしれない。
まっすぐに己に向いた翠瞳に三蔵は不機嫌そうに視線を返した。八戒は淡く微笑した。
「雨が降っていますから・・・気をつけてください」
何に気をつけろというのか。
立ち上がった三蔵はテーブルの上の煙草を指に挟んだ。
外に飛び出してしばらく走ってから雨だったことを思い出した。
三蔵と八戒が嫌いな雨。でも、
柚螺は雨を嫌いではない。誰の上にも降るその公平さに惹かれるときがある。
考えてみれば自分はどこへ行こうとしているのだろう。行くことが出来る場所などないというのに。
三蔵の手がぶつかった感触だけが現実的だった。
柚螺は足を止め、いつの間にか自分が細い裏道らしい場所にいることに気がついた。ここは以前に悟浄とあった場所、今も気になっている悟浄の あの表情を見た小路だ。あの時、少し小路を奥に進んだところにある店の前で・・・・
ゆっくりと足を進めた
柚螺は再び立ち止まった。霧のように細かい雨の向こうに人の姿が見えた気がした。その人の髪は長くて赤い。今そこにいたのは多分、悟浄だ。
小走りに進んでみたがすでにその人影は消えていた。もしもあれが悟浄だったのならここで何をしていたのだろう。立って上を見上げていたようだった。
柚螺は悟浄らしい人間が立っていたように見えた位置まで歩き、視線を上向けた。
店の二階の窓。
閉まっているガラス戸のむこうにカーテンの白が煙って見えた。
ここは誰の部屋なのだろう。あの日、
柚螺に声をかけてきた男の部屋なのだろうか。
不意に肩を掴まれて驚いた
柚螺は振り向こうとした。しかしそれは許されず、物音一つ立たずに小路から人の姿が消えた。