fever 4

 傘を広げると落ちてぶつかる雨粒の音が響きはじめた。
 三蔵はゆるやかに足を運びながら時折煙草の煙を吐いた。
 どこへ行くというのか・・・あの少女が。この街に来て自分の居場所を探していた時の必死な姿が三蔵の記憶の中から蘇る。他に行く場所などないはずだ。い つの間にか、どこへ出かけていっても自分達のところに戻ってくるのが当たり前の存在だと・・・ 柚螺のことをそう思っていたことに気がついた三蔵は唇を歪めた。これは人間は所詮は一人であり信じられるのは己だけだという彼の信条とどこ か矛盾してはいないか。
  柚螺の血まみれの身体を抱き上げた時の感触は今もまだ三蔵の腕が記憶している。満員御礼のスタンドで迷子にさせないために仕方なく繋いだ手 のやわらかさと温かさも覚えている。他人に触れられることを強く嫌悪する彼が成り行きで自ら少女に触れた。あの時は何も考えていなかったし当たり前のこと のようにさえ感じていた気がする。そう。彼が悟空と二人で過ごしてきた日々に自然と悟空を受け止めてきたように。
 今日も自分に近づいてきた気配が 柚螺のものだと判断しきれていたら、もしかしたら彼は黙って少女の手が触れるのを待ったかもしれない。三蔵は思った。あの時は降り続く雨の 音と空気を澱ませる湿気の中で三蔵は気が立っていた。悟空だろうが 柚螺だろうが、近づくものが誰かを判断する前に拒絶した。
 馬鹿げた習癖だ。雨に気分を逆撫でされるなど。己をまるで幼い子どもであるように感じてしまうなど。
 本当に。
 三蔵は足を止め、傘を後ろに傾けて空を仰いだ。その時、ようやくひとつだけ少女が行きそうな場所を思いついた。


 Daybreak。
 当たり前だが、店の正面の扉には鍵がかかっていた。裏に回って確かめると裏口も同様だった。
 鍵がなければ入れるわけはないか。
 三蔵はポケットから引っ張り出した鍵のひとつを差し込んで裏口を開けた。それから店内を真っ直ぐに歩いて行って正面の扉も開錠した。
 別に誰を待っているわけでもない。
 ただ。
 ステージの端に腰かけて新しい煙草を咥えた。ライターを探っていると戸口に人の気配がした。

「・・・なんでこんな時間にお前がここにいるんだよ・・・・雨降りだってのに」

 悟浄の髪から床に雫が落ちた。

「そういうお前は雨の中をふらついてたのか。おかしな趣味だな」

「るせぇよ。俺は見た目そのまんまの浮かれ男だ。それが一番。満足してる」

 三蔵は何も言わずに煙を吐いた。もしも八戒がここにいたら悟浄に聞きたいこと、かけたい言葉がひとつかふたつはあっただろう。だが三蔵にはそういう類の 言葉の持ち合わせはない。
 黙っている三蔵に目を向けた悟浄は薄く笑うと自分も煙草を咥えてステージに座った。

「で、ほんとにどうしたのよ、三蔵サマ。まだ半分目が覚めてない時間じゃねぇの?」

「・・・ 柚螺をどこかで見かけたか」

「え・・・って、ちょっと待てよ、三蔵!お前、 柚螺を探して歩いてるってのか?」

「・・・何を慌ててる」

「いや、さ・・・・実はよ、さっき見かけた気がしたんだよ、 柚螺に似た女の子。でも時間が時間だし場所が場所で・・・・霧の中だったし・・・・ちゃんとあそこら辺には一人で近づくなって言っといたか ら、別人だと思って気にしなかったんだ」

 三蔵の瞳が鋭く悟浄を一睨みした。

「どこだ、それは」

「裏小路だよ。こんな朝っぱらにはようやく寝静まっておとなしくも見える場所だが、時間によってはやべぇ店も並んでる」

 今にも走り出しそうになった悟浄の後姿を追うように三蔵は立ち上がった。

「八戒が・・・」

 自分の口からなぜ八戒の名前が出たのかわからず、三蔵は口を閉じた。呟いた名前の後に続く言葉は浮かばない。一瞬動きが止まった悟浄の様子からどうやら 声が届いたらしいことがわかった。

「・・・睡眠不足っぽかったか?あいつ」

「さあな。若干表情が不足気味だったが」

「・・・そっか」

 悟浄が勢い良く頭を振るとまた、床に水滴が飛んだ。

「ほら、行くぜ。あれが 柚螺だったかどうか確かめねぇとな」

 外に出て行った悟浄の後を三蔵の靴音が追った。




 とても綺麗な人だ。
  柚螺はベッドに横たわるその人の姿を立ったまま見下ろしていた。
 白怜。
 この人が。
 陶器のような白い肌とつややかな長い髪。閉じられた瞳と頬に影を落としている長い睫毛。
 そういえば、こんな風に眠りながら人を待っている高貴なお姫様の物語があったかもしれない。ただ、この眠りはどうやら魔法によるものではなく人工的に作 られた薬による眠りのようだが。 柚螺は枕元に置かれている小さな香炉を見た。そこから空気の中にやわらかな匂いが流れ出している。それを嗅ぐと少しずつ気分が遠くなる。
 なぜここに連れてこられたのだろう。
 男は 柚螺をこの部屋に入れるとすぐに出て行ってしまった。まるで口を聞けない少女に合わせるようにひとつも言葉を発しなかった。
  柚螺は眠くならないようにベッドから離れると部屋の中を見回した。美しいもので溢れた居心地のよい場所だと思った。でも、ここにいる理由が わからない。もしも出て行こうとしたらどうなるのだろう。
  柚螺が静かに歩いていくと外から見ていたようなタイミングで扉が開いた。

「まだ、駄目だ。あんたを実の妹以上と考えている男が来るまでは」

 悟浄のことだ。
 男の声の深さを聞いた 柚螺の身体は震えた。
 男は 柚螺に微笑みかけると身振りで窓際に置かれている椅子をすすめた。

2006.10.6

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