男はずっとベッドの脇に立っていた。香炉から漂う不思議な香りの影響で眠くはならないのだろうか。
柚螺が首を傾げた時、男はまるで
柚螺の思考を読み取ったように振り向いた。
「・・・俺の心配をしているわけか?余裕だな。薬のせいで俺が眠ったら逃げ出すチャンスだくらいのことを考えた方がいいんじゃないか?」
そういう考え方もあったか。
目を丸くした
柚螺の顔を見た男の顔に束の間の笑みがよぎった。
「お前もそういう人種か。根本がぬるい、見るからに怪しい他人をすぐに許容する人間。・・・この愚かな妹のようにな」
文字にすれば非難しているように見えるはずの言葉を口にした男の声はやわらかかった。ベッドの寝顔に向けた表情と同じくらいに。
とても大切に思っている相手だから。
そう感じた
柚螺は男の顔を見た。
「・・・口がきけないというのは悪いことばかりでもなさそうだ。どうしてもこっちが一方的に口を開く羽目になる」
男はゆっくりと歩み寄るとじっと
柚螺の顔を見下ろした。
「可愛がられているようだな、あいつに。・・・悟浄はああ言ったが・・・・お前たちは情を交わす間柄なのか?」
首を大きく横に振った
柚螺に男は苦笑した。
「・・・そうだろうな。あの男は派手好きで尻が軽い女にしか手を出さん。あんな男に何かを見つけたと信じる方が馬鹿なんだ」
なぜそんな風にやわらかく話しかけるのだろう。独り言のようにも聞こえる静かな声。
じっと見上げる
柚螺の頬に手を触れかけた男は、視線を動かし口角を上げた。
「お迎えが来たようだ・・・・どうやら別の保護者も一緒にな」
椅子から飛び上がるように振り向いた
柚螺は窓の外に2つの人影を見た。長くて赤い髪、毛先がいつもよりもしっとりと張り付いているように見える金色のの髪。三蔵の姿を見たと き、
柚螺の胸の鼓動が大きくなり痛みさえ感じたような気がした。
男はベッドのそばに戻ると香炉に蓋をした。その横顔に見えたものは何だろう。
柚螺は立ち上がったまま動けなかった。
階下でドアが開いた音は聞こえなかったが、やがて階段を登ってくる2つの足音が聞こえた。遠慮のない大きな靴音はドアの前まで来ると揃って止まった。そ れからドアが開いたゆっくりとした速さは開ける者の躊躇いを伝えているように思えた。
「・・・そこに、いるんだろ?
柚螺に怖い思いをさせちゃいねぇだろうな」
最初に入ってきたのは悟浄だった。
柚螺を見てホッとしたその顔は男に向いたときには冷ややかな敵意を浮かべた。
「物騒なヤツと一緒だな。用心棒か?」
男は入ってくるなり銀色の銃口をまっすぐに向けた三蔵を見た。紫暗の瞳はきつく男を見据えていた。
「これは怒り狂った保護者代表だ。コイツも
柚螺ももう関係ねぇだろ。さっさと外に・・・」
言いかけた悟浄の言葉が途切れた。その紅の瞳は横たわる静かな姿を見つめた。
「どうだ?しばらくお前が顔を見せなかった間に変わったか?こんな姿を見ることになるとは思ってもみなかっただろう」
苦痛に似たものを顔に浮かべた悟浄は視線をベッドから引き剥がして男を見た。
「やっぱり・・・・治ることはねぇのか、白怜の病」
「お前にそんな風に言われるのは・・・・腹立たしいな。別に興味はあるまい?」
「んなことを言うために
柚螺を捕まえてわざわざ窓のところに座らせたのか。迷惑この上ない野郎だな。これでもしも
柚螺に怪我でもさせてたら・・・・」
「そんなリスクをおかす気はないよ。お前がここに来ればもう、他の2人には用はない。出て行ってもらって一向に構わない」
三蔵はゆっくりと銃を下ろした。
「
柚螺」
呼ばれたその声に本当はすぐに応えたかった。しかし、
柚螺の身体は動かなかった。自分が雨の中に飛び出した理由を思い出し、それを恥じていた。嫌いなはずの雨に濡れた三蔵の姿にどんな顔を向け ていいのかわからない。
「・・・ったく」
歩き出した三蔵の瞳はただまっすぐに
柚螺の顔を見ていた。戸惑いと怯えをその顔に見つけたことに眉間に皺を寄せながらあと1歩の距離まで歩み寄り、
柚螺を見下ろした。
「・・・怪我はないようだな。ならいい。ここを出るぞ」
まだ戸惑いが消えない
柚螺の表情にため息をつき、三蔵は銃を持っていない右手をゆっくりと差し出した。
「ほら、行くぞ」
その手を見た
柚螺の目に涙が滲んだ。大きくて形の良い三蔵の手をとても綺麗だと思った。一見体温などなさそうにも見えるその手にそっと指先を触れると温 かさが伝わってきた。
「とって食ったりはしねぇよ」
苦笑した三蔵の右手が
柚螺の手を包み込んだ時、二人は同時に振り向いて悟浄を見た。短く息を吸い込むような音と一緒に音にはならない声が聞こえたような気がし た。
「目が覚めたか?・・・・願いは叶ったぞ、白怜。お前が会いたかったのは・・・・この男だろう?」
ベッドの上の娘の閉じられていた瞼がゆるやかに開くと、その下から男のものとよく似た漆黒の瞳が現れた。ゆっくりとした動きで屈み込んだ兄の姿を映した 瞳はやがて、ずぶ濡れの悟浄をとらえた。
「・・・ご・・・じょ・・・」
まるで声の出し方を忘れてしまった人間のように、白怜は白い手を喉に当てながらひとつひとつの音を発音した。
「きて・・・く・・れ・・た・・・ご・・じょう」
黒い瞳に浮かんだ真摯な光に男は顔を背け、悟浄は小さく息をのんだ。
この人は悟浄のことをとても強く想っているのか。
何となくわかっていたことが目の前で本当になり、
柚螺はまた胸の痛みを感じた。理由はわからなかった。
三蔵は表情を変えず、視線を
柚螺の上に戻した。
「白怜・・・・久しぶりだな。寝込んじまったなんて聞いてなかったぞ。あんまりよ・・・・お前に夢中なそこの兄貴に心配かけんじゃねぇよ」
「手紙・・・・」
悟浄は一瞬、目を伏せた。再び顔を上げた時、そこにあったのは
柚螺がはじめて見る表情だった。
「俺はそういう風に好かれるのには慣れてねぇし、自分の事をそんな風に好かれていい男だとは思えねぇんだわ。だからよ・・・・悪いな」
男の手が悟浄の喉元を掴み、白怜の瞳から涙が零れ落ちた。
「・・・お前は・・・この姿を前にそういうことを言うのか。まったく何も・・・感じないのか?」
悟浄はまだ白怜の顔を見ていた。
「嘘で固められたしあわせなんてあると思うか?この俺にそんなものをでっちあげさせれば、お前は満足なのかよ。違うだろ?白怜にもお前にも、本物じゃな きゃ意味なんてねぇんだよ」
それでも簡単に外せるはずの男の手をそのままにさせておいている悟浄の姿が
柚螺には切なかった。これまでにこの3人の間にどんな時間があったのかはわからない。ただ、『これから』というものはないのだと、そしてそ れを告げなければいけない悟浄の痛みを感じていた。
傷ついて涙する娘と怒りに震えている兄。その前で平然とした顔をして見せている悟浄。
柚螺が目を伏せた時、三蔵が
柚螺の手を握った。
「・・・悟浄。もう一度だけ・・・・顔をよく見せて」
はっきりと薬から覚めたらしい娘は両手を悟浄に向けて伸ばした。
その姿に向かって悟浄はゆっくりと首を横に振った。
「やめとけよ・・・・手、汚れちまうぜ。俺の顔なんて忘れちまえ。そしたら、きっと、身体も良くなるさ」
「・・・悟浄!」
悟浄は男が手を離すのを待ち、ベッドに背を向けた。
「今度こそ、本当にお別れだ。・・・あばよ、白怜」
悟浄が言った時、すでに三蔵は
柚螺の手を引いて歩きはじめていた。
「ぐずぐずするな、尻軽男」
「るせぇな。俺はこう見えて美食家だっつぅの」
軽口を叩く悟浄の横顔を見ながら、
柚螺は三蔵の手にしっかりと掴まっていた。そうしなければ何かを保てないような・・・・そんな気がしていた。