その夜、悟浄は熱を出した。
最初は誰も気がつかなかった。雨の中を3人が戻ると、八戒と悟空はいつでもできたてを食べることができるように大鍋いっぱいの餡をとろみがつくほどにゆ るめて温めていた。三蔵と
柚螺の後ろから何気なく一緒に入ってきた悟浄にちらりと目を向けた八戒は、淡く微笑した。
「僕もね・・・・朝からイライラしてちょっと反省していたところなんですよ」
言いながら八戒は三蔵のために漉した餡を練っていた。
悟空と悟浄、八戒は粒が残った餡が好みだ。三蔵も別にその餡に文句を言った記憶はないのだが、どうやら八戒はもう何年も前、貰い物の漉し餡をいれた饅頭 を食べる三蔵の様子を覚えていたらしい。その饅頭を一口噛んだ三蔵はなんとも言えず懐かしい気分に襲われ、そのまま間に茶を啜ることもせずに黙々と饅頭を 食べ終えた。あの日から、八戒は自分で餡を準備する時は必ず2種類を用意する。八戒も三蔵もそのことについて特に何も言葉を口にしたことはない。
「3人とも結構濡れてるじゃないですか。ほらほら、シャワーに入ってきてくださいよ。その間に僕と悟空はお餅を準備しておきますからね。今日は・・・・そ うですね、ちょっと香ばしく焼いてから餡をかけてみましょうか。
柚螺はどっちの餡がいいですか?・・・・ああ、よくわからないんですね。大丈夫、きっと気に入りますから。ふふ、じゃあ、三蔵と同じ漉し餡 にしてあげましょうね」
ただ笑顔で3人をそれぞれの部屋の風呂に送り出した八戒を悟空はじっと見つめていた。
「どうしたんです?悟空。お腹、すきましたよね。先に一杯、毒見しますか?」
「う〜ん、それもいいけどさ」
悟空は八戒が手に持った椀を空のまま取り上げた。
「悟空・・・?」
悟空は嬉しそうに笑った。
「あのさ、八戒、先に食べなよ。元気出たみたいだし、みんなが戻ってきたらまた面倒見てやるんだろ?俺さ、餅を焼くのは上手いんだぜ!三蔵、焦がしすぎて も焦がすのが足りなくてもうるせぇからさ」
悟空は時々こんな風に八戒の周りの空気を自然に感じ取る。相手が悟浄なら思わず意地を張ってしまうときもある八戒だが、悟空の笑顔に向いた顔には穏やか な微笑が浮かび上がった。
「じゃあ、ちょっと先に作って貰いましょうか。ねえ、悟空、三蔵は普段はお餅をどんな風にして食べるんですか?砂糖醤油とか?まさか・・・・ここにマヨ ネーズは登場しませんよね?」
悟空は網に餅を並べながら首を傾げた。
「う〜ん・・・・・砂糖だけって時もあるし醤油だけのことも・・・・あ、マヨネーズは塗って焼いたことある!」
「・・・・出番があったんですね、マヨネーズの」
「でもさ、あれは結構旨かったぜ?一口貰ったけどさ」
「まあ、マヨネーズパンの仲間だと思えば不思議でもないでしょうか。でも・・・一口、ねぇ」
八戒の微笑が深まった。人と触れ合うのが苦手な三蔵とそれをどんどん侵して元気に踏み込んでいく悟空の図は、見ているとかなり面白く、幸せな光景だ。そ してそこにはどうやら悟空とは違ったやりかたで
柚螺も仲間入りしかかっているように見える。
先刻、3人が戻ってきた音に目を向けた八戒はドアが開いた瞬間、三蔵が
柚螺の手を引いていたのを見た。何か複雑な感じがした
柚螺の表情が気になったが、それでもその光景に八戒はこっそり口角を上げたのだった。
「八戒!ほら、膨らんできた!」
「僕が三蔵のつもりで一番美味しく焼き上げてくださいね」
「わかった!」
あなたのそばにはとても純粋な存在が集まるんですよね、三蔵。
八戒は目を細めて悟空の後姿を見た。
あなた自身が自分で輝くことが出来る人間だから、なんでしょうね。でも、僕は・・・・
八戒は自分の両手を見下ろしながら降り続いている雨音を聞いた。
多分僕は・・・・失くしてはいけない部分を背負ってもらっている人間なんですよ。
煮立ちそうになった餡の鍋の下の火を止めながら、八戒は頭を小さく振り上げた。
「うんめぇ〜!」
「・・・・まあまあだな」
重なった悟空と三蔵の声、そして嬉しそうな
柚螺の笑みに八戒は微笑み返した。
「でもよ、何でお汁粉なんだ?まあ、俺も嫌いじゃねぇけどよ」
まだ雫が垂れている髪を片手で拭きながら椀を口にあてた悟浄を八戒はやんわりと睨んだ。
「行儀悪いですよ、悟浄。お汁粉は逃げたりしませんから、もっと落ち着いて食べてください。・・・・僕はただ、何か身体が温まるものを作ろうと思ったんで す。シチューでも豚汁でも何でも良かったんですが、悟空がお餅を食べたいって言いましてね。ほんのり甘いお汁粉はなかなかいい考えだと思ったんです」
「確かにあったまるっつぅか、アチッアチッ」
赤い顔で唇をすぼめながら椀に息を吹きかけている悟浄を見ていた八戒は、ふと、悟浄を見る別の視線に気がついた。
柚螺。
ついさっきまで三蔵の隣に座っている嬉しさで頬を染めていたはずの
柚螺が感情の篭った視線を悟浄に向けていた。そしてそんな
柚螺をちらりと一瞥した三蔵が唇に挟もうとしていた煙草をテーブルに置いた。
何を見てきたんでしょうね、あなたは。もしかしたら悟浄も何かを消化し切れなくてまだ抱えているのかもしれませんね。
八戒は立ち上がった。
「さあ、お代わりの分のお餅、焼きますよ〜。みなさん、いくつ召し上がります?ああ、悟浄、あなた、風邪をひきましたね。顔が赤いのはお汁粉のせいじゃな くて熱のせいだと思いますよ」
「風邪?俺が?」
「え、悟浄が風邪?」
目を丸くした悟浄と悟空に苦笑しながら八戒は静かに悟浄の額に手をあてた。
「十分、熱がありますね」
「しっかしよ、俺は風邪なんて・・・ええと・・・・思い出せねぇくらいひいたことねぇぞ。・・・・・ああ、でも、シャワーじゃ寒い気がして風呂に入ったの に何だかず〜っと寒いのってよ、そのせいか?熱ってそんなもん?」
「そんな感じのものです。ほら、ベッドに入っててくださいね。すぐにお汁粉のお代わりを
柚螺に持って行ってもらいますから」
え。
そんな感じに、顔を上げた
柚螺と悟浄は視線を合わせた。心配そうな
柚螺の顔をしばらく見た後で悟浄は小さく笑った。
「じゃあ、頼むわ。・・・何も心配することはねぇからな、
柚螺」
片手をふりふり部屋を出て行く背の高い姿に、それぞれがそれぞれに目を向けた。
「風邪かぁ。なあ、八戒!お汁粉の後で桃缶、開けていい?」
「ええ、いいですよ」
やわらかく答えながら、八戒はそっと
柚螺の横顔を見た。