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 なぜ、こんなに驚いたのだろう。
 悟浄は誰もいない部屋の中をぐるりと見回したあと、煙草を振り出して唇で咥えた。
 わざとらしい。
 わざわざ確かめなくたってこの空気の中の気配のなさは一瞬で読み取れてしまうのに。
 帰ってきたら八戒がいなかった。それだけだ。夜遊びの後の夜明け前であるわけでもなくてまだただの夕暮れ時。八戒がいなくても何の不思議もないのだが。
 おかえりなさい、悟浄
 その響きを聞きそこなったというだけなのだが。
 ただ、朝、なんとなく口数が少なかったから。行ってきます、と言われ、おう!とかなんとか答えたときに八戒が見せた微笑がどこか違っていたから。そして そのことが実はずっと胸のどこかにひっかかっていた、ということに、今、ドアを開けた瞬間に気がついたというだけだ。
 ただ、それだけ。
 手の中にライターを握ったまま悟浄はちらりと通路に視線を走らせ隣のドアを見た。言葉までは聞き取れなかったが中から伝わってくる賑やかな声は悟空のも のだろう。また何かやらかして三蔵に怒鳴られてるといったところか。きっとその様子を 柚螺がハラハラしながらじっと見ている。そんなところだ。自分には運良くか悪くかあの騒ぎの中に入っていく権利・・・というか腐れ縁的なも のがある。行けば三蔵の仏頂面と悟空の感情丸出しの顔、 柚螺の笑顔を見ることが出来る。

「まあ、な・・・・」

 悟浄はそのまま自室に入るとドアを閉め、床に座って足を投げ出した。背中を壁に預け煙草に火を点ければしばらくは動くのが面倒になる。あと、もうしばら くは。
 わざと尖らせた唇から吐いた煙が白く宙に溜まり出した頃、ドアが開いた。無言のまま静かに入ってきた八戒は床で弛緩している悟浄の姿に一瞬目を見開い た。

「・・・・悟浄・・・・隣に行ってたんじゃないんですか?」

「おっかえり〜。まあ、あれだ。たまには俺も一人静かにのんびりしたかったつぅか」

「そうですか。・・・・・あ、ただいま・・・ですね」

「おう」

 交わした微笑にどちらの方がよりホッとしたのだろう。
 八戒はコートのポケットから取り出した包みをテーブルの上に置いた。

「買い物、か?」

「ええ。限定5個の販売だったので買えるかどうか心配だったんですけどね。朝一番に寄ってみたら大丈夫でした」

「レアもの?」

「少し前の時代には当たり前に売られていたものなんだそうですが。声を録音することが出来るんです。ボイス・レコーダー。今はこういうの、結構規制が厳し いですよね」

「何でもテロの武器になるってな。どれもこれも登録制や販売規制。高いしな〜」

「ふふ。そうですね。僕も貯めてたお給料、かなり思い切りましたよ。どうしても欲しくて」

 やがて包みの中から銀色の姿が現れた。悟浄が手に持っているライターを少し長くしたような小型の機械。

「へぇ〜、それに音や声が入っちまうわけ?」

「ですね。何十時間分も録音できるみたいです」

「そんなに小せぇのにな」

 八戒は手の中にレコーダーを包み込んだ。瞼が一瞬閉じ、瞬きよりも数倍長く瞳を覆う。

「・・・八戒?」

 悟浄は思わず名を呼んだ。
 日頃の八戒の強さはよく知っている。高い知性と内に秘めた情熱、芯の強さ、しなやかな体技。それでも悟浄は八戒の姿に時々ひどく透明なものを見る。心の 琴線の震えを感じる。自分の中に共鳴が生まれかける。

「ダメですねぇ。僕は・・・・どうしてこれが欲しくてたまらなかったんでしょう。これは現在ある音を切り取って保存しておくためのものなのに。・・・・失 くしたくなかった音を蘇らせることなんてできないのに」

 八戒の手の小刻みな震えから目をそらさず、悟浄はじっと見守った。見守る以外にできることがあるのだろうか。あるのかもしれないが、今はまだそれを知る ことができない。知ることが怖いのかもしれない。

「でも・・・・なんでだ?お前の中の声が薄くなっちまう気がして怖いのか?」

 瞼の下からゆっくりと現れた八戒の翠瞳がじっと悟浄を見た。
 ゆっくりと頷いた八戒の顔に悟浄は笑いかけることができなかった。

「多分、そういうことなんでしょうね。僕は・・・・花喃の・・・姉の僕を呼ぶあの声をいつか思い出せなくなりそうな自分が嫌なのかもしれない。どこまでも 大切に想い続けなければ嘘だとまだ感じていたいのかも」

 ぽつりぽつりと胸中を語る八戒の様子に悟浄はようやく肩の力を抜いた。

「いいんじゃね?惚れていたいんだからず〜っと惚れてれば。俺はよ、誰かにそこまで想い入れたことなんてねぇから、あんま説得力、ねぇけどよ」

「惚れてるっていうのとはもう少し違ってきてるんですよ、多分。だから焦ったのかな」

「・・・自分だけが生きてることに?」

「ああ・・・・ええ、そうですね」

 ようやくすっきりと笑った八戒の微笑に目を奪われ、悟浄は一人口角を上げた。
 八戒は表情の一つ一つが鮮やかだと思う。中でもレパートリーが一番多いのがこの微笑だ。きっとこれから何度見ても飽きず、何度も騙される。それがいいの だと思う。

「なあ」

 悟浄が差し出した手に八戒はボイス・レコーダーをのせた。
 一瞬、互いの手の温度を意識した。

「俺よ、いつかこれに残したいもの、思いついた」

「・・・・あなた好みの女性の未成年お断り的な声、なんて嫌ですよ、僕は」

「バ〜カ、そんな無粋な真似、俺だってご免だぜ。じゃなくてよ、ほら、 柚螺の声!あいつの声が出るようになったら、笑い声とか俺らの名前を呼ぶ声とかよ・・・どうだ?」

「ああ!それはいいですね。僕としては 柚螺に名前を呼ばれてそれに返事をする三蔵の声、なんていうのも一緒に保存しておきたいところです」

「うはっ、面白ぇけど照れ臭ぇ〜!なんでだろうな」

「ふふ、どうしてでしょうねぇ」

 顔を見合わせて笑いながら、互いの声を胸に刻んだ。

「さて、じゃあ隣に行って夕飯の相談でもしましょうか」

「猿のわめき声が想像できるな」

「『腹へった〜!』ですね」

「そうそう。もう聞き飽きたっつぅの」

 真面目を絵に描いたような真っ白なシャツを着た八戒の背中。
 不真面目を象徴するようなジャケットの下は素肌の悟浄の背中。
 並んだ二つの背中にそっくりな皺が寄った。光が差す方へ向かって進むことを決めた意志。背負っているものをすべてそのままに。

「ちょっと美味しいビール、買ってあるんですよ。悟空と 柚螺もそろそろ少しアルコールに慣れておいた方がいいかもしれませんね」

「そりゃあよ、自分ちで酒の飲み方を覚えるってのが理想だけどよ、けど、あの保護者様、案外石頭だぞ、きっと。自分の事は棚に上げてな!」

「じゃあ、あれですね。今度三蔵が酔ったところを録音しておいてあとで聞かせて反省してもらう・・・」

「・・・・歌いだして止まらないだけじゃあな・・・」

 二人は同時に言葉を切ってドアを開けた。

「あ、八戒!なあなあ、俺、もう、腹へった〜!」

 やっぱり。そっくりな微笑が二人の顔に浮かんだ。

「るせぇ。だから、もう聞き飽きたっつぅの!」

「んだよ、今日はまだ1回目じゃん」

 ありがとうございます、悟浄。

 大きな手で悟空の髪をガシガシとかき混ぜている悟浄の後姿に八戒は無言の呟きを向けた。

 あなたに背負ってもらってること、忘れていません。でも・・・・もう少しだけこのままでいいですか。僕はまだあなたとの間にあるものを何一つ変える勇気 がないんです。そのくらい、多分、あなたのことを・・・。

「さあ、夕飯、何にしましょうね。 柚螺はこの頃中華が好きですよね。あ、三蔵、ちょっと相談したいこともあるんですが」

 いつもと同じ世話焼きで面倒見の良い八戒の姿を。
 見届けた悟浄は黙って煙草に火を点けた。

2007.4.24

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